※小話ろり紅と炭の話
社会人四年目である竈門炭治郎は数ヶ月前から子猫を飼い始めた。
その子猫は黒い毛並みを靡かせ、のんびりとマイペースに家の中をフラフラとしては予想外の場所にちょこんと座っていたり、気がつけば窓際の陽が当たる場所ですやすやとお昼寝をしているのだ。小さなその姿が愛らしく、毎日炭治郎の胸をきゅんきゅんとさせると同時に仕事で疲れた心と身体に癒しと愛おしさを提供してくれるのである。
子猫と出会ったのは大学卒業を機に一人暮らしを始めた炭治郎の家の近くにある寂れた公園でだった。
残業がない日は、いつも同じ時間にその場を通り、その日も炭治郎は何時ものように会社からの帰り道を歩いていた。
いつもなら目を向けることなく通り過ぎるのにその日は何故かふっと公園へと視線を向けたのである。
特に理由も無く、偶々視線を向けただけだったのだが、その偶々向けた視線の先に傷だらけで痩せ細った子猫が公園のベンチの上で蹲っていたのである。
ぐったりとするその存在に気がついた炭治郎は慌ててその子猫へと駆け寄り、その小さな体を抱き上げ声を掛けたのだが、細く痩せ細った体は軽く、その瞳は固く閉じられていた。だが、浅く息を繰り返す胸とぎゅるぎゅると子猫の腹から聞こえる空腹を告げる音が炭治郎の耳に届き、生きていることにほっとした炭治郎であったが、こんな状況に如何すれば良いのか、この時の炭治郎はパニックになっており咄嗟に判断することができず、取り敢えず自身の家に連れて帰ってしまったのが全ての始まりであった。
家に連れ帰り、自身の寝室に寝かせていた子猫が目を覚ました時は大変だったのを数ヶ月経った今でもはっきりと覚えている。
炭治郎と目が合った子猫は自身の寝ていたベッドの上から飛び退き、部屋に備え付けられていたクローゼットと本棚の間にあった小さな空きスペースへとその身を捩じ込ませ、必死に身を隠そうとしていたのである。
突然の事に驚き、炭治郎は子猫を止めるために身体に触れた時、その小さな身体が震えていることに気がついた。
子猫の小さな身体は傷だらけで痩せ細っていた。碌に食事も与えられ居らず、また人から暴行を加えられた挙句、眠って起きたら知らない場所に居て、知らない人が側に居たのだ。小さな子猫にとっては恐怖以外の何ものでもないだろう。
酷く怯えた様に震える小さな身体を必死に隠そうとする子猫の姿は炭治郎の心を酷く悲しく締め付けた。
「大丈夫だ。君に痛い事をする人は居ないよ」
優しく炭治郎が子猫に声を掛けるが子猫に植え付けられた恐怖を拭うことは容易では無かった。
それからと言うもの炭治郎は毎日、仕事に行っている時間以外は子猫の世話を懸命にした。
碌に食べさせてもらえていないであろう子猫の身体を気遣い、消化に良いものを手作りしては子猫に自らの手で与え、傷に触れない様に注意を払いながら風呂に入れ汚れを落とした。
毎日、傷口を消毒しては震え、警戒しながらも抵抗しても勝てないと思っているのか、おとなしい子猫に炭治郎は優しく微笑み「頑張ったな‼偉いぞ‼」と声を掛けた。
そんな日々が続いたある日、子猫にある変化が訪れたのである。
休日で家に居た炭治郎は陽が差し込む温かな窓辺で乾いた洗濯物を畳みながら、いつもの様に子猫を見ていた。
子猫は、いつもの様に何をする訳でも無く、炭治郎が居る場所から少し離れた場所に腰を下ろし温かな日差しに包まれうとうとと船を漕いでいた。
時折、かくんっとなってはハッと我に返り、またウトウトとする微笑ましい光景に炭治郎は口元を緩めていたのだが、暖かな日差しと日々の仕事の疲れが溜まっていたのか、炭治郎もいつの間にか畳んだ洗濯物を枕にして瞼を閉じていた。
数時間後、暖かな陽の光の眩しさにぼんやりと意識を浮上させた炭治郎は微睡みの中、横向きで寝ている自身の背中がぽかぽかと温かいことに気がついた。
陽の光では無い、温かさに炭治郎は、ぼんやりとした意識の中、横になったままゆっくりと自身の背後を振り返ると自分の身体よりも遥かに小さい身体がぴっとりと炭治郎の背中に引っ付く様にして背中合わせになる様に身を寄せていたのである。
突然の目の前の光景に炭治郎は驚き、ぼんやりとしていた意識はハッキリとその小さな身体を視界に捉え、目を見開いた。
炭治郎の背中に背中をぴとりと寄せていたのは警戒心の強かった子猫だったのである。
小さな身体を丸めながら炭治郎に背中を向ける様にして寄り添い眠る姿は炭治郎の心をぎゅんっと鷲掴みにして「ん"ん"っ‼‼‼」と変な声を上げさせる程の威力を持っていた。
炭治郎は突然の事に飛び起き、ゆっくりと子猫の顔を覗き込むが子猫は警戒するのをやめたのか今までなら少しの物音でも起きていたのに今は炭治郎が近づいてもすやすやと安心したかのように寝息をたてるだけである。
それが嬉しくて堪らなかった炭治郎は恐る恐る子猫へと手を伸ばし、その小さな身体を守るかのように自身の腕の中に閉じ込めた。
子猫の身体が一瞬、ピクリと動いたが直ぐにまた、すやすやと寝息をたて始めたので炭治郎は愛しさを込めた表情で小さな子猫の背中を見つめるとその柔らかい黒い毛並みに頬を擦り寄せた。
それからと云うもの炭治郎を警戒するのをやめた子猫は家に居る時は炭治郎の後ろを付いて回ることが多くなった。
特に何かを主張する訳では無く、ただついて回り、時折、炭治郎の羽織るパーカーをきゅっと引っ張ると云う小さな悪戯に炭治郎の胸はきゅんきゅんと高鳴った。
可愛い服を着せてあげたい、美味しいものを食べさせてあげたい。可愛いぬいぐるみとふわふわのクッションで可愛い可愛い子猫が二度と傷つかない様に囲いたい。
日に日に強くなる子猫へと愛情に子猫と出会う前のことなど忘れてしまうほど炭治郎の子猫へと入れ込みようは凄まじいものであった。
そんなことなど知らない子猫はマイペースだった。
時折ズレた行動をしたかと思うとその行動に驚き、眼を見開く炭治郎を不思議そうに首を傾げながら見つめるのである。
また、子猫は賢く、炭治郎の云う言葉をきちんと理解していた。
「外は危ないから出たら駄目だぞ。お外に行きたい時は俺と一緒にな」と優しく躾けると子猫は素直に従い、「寝るときは一緒に」「変なものは口にしたら駄目だ」そう言うときちんと約束を守るのだ。
無垢で何も知らない可愛い子猫は炭治郎の言葉の通りに「ここには痛いことをする人はいない」と云うことを理解しており、また炭治郎の手により用意された温かな箱庭は子猫が生きるには心地が良いのだろう。
窓を開けていても、外に出ることがあっても子猫は炭治郎の手から逃げ出すことなく炭治郎の側にとどまり続けるのである。
可愛い可愛い、目に入れても痛くない子猫。
炭治郎の優しさと愛しみの奥底に隠された重くて汚い感情など知ることなく今日も今日とて仕事に出掛けた炭治郎を箱庭の中でのんびりとマイペースに待っているのであろう。
そう思うだけで炭治郎の口元は三日月の様に口元が歪むのであった。
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