――鼻を擽る様な良い匂いがする。

 任務を終え、明け方に蝶屋敷に伊之助達と帰還後、眠りについた炭治郎は陽の暖かさと自身の鼻に届く甘い匂いに一人静かに目を覚ました。

 壁に掛けられた時計を見る限り、時刻は未だ午前中を指しており明け方に眠りについた炭治郎達が起きるにしては未だ早い時間帯だとも言えたが、人より嗅覚の優れた炭治郎は嗅いだことの無い蝶屋敷の何処かから漂う甘い匂いが気になり、静かに眠っていた身体を起こした。
 ふっと自分の左右の寝台で眠る善逸と伊之助に視線を向けるが、二人は疲れているのかぐっすりと深い眠りについているのが伺えた。
 炭治郎は、そんな二人の寝顔を確認した後、蜜蜂が蜜に引き寄せられるかの様に静かに足音を立てない様に部屋を抜け出すとその甘い匂いを辿り始めた。

 薬品が混ぜ合わされて出来た匂いでも誰かの感情の匂いでもない。
 唯、甘く、腹の虫を起こすような美味しそうな匂いが蝶屋敷の奥から漂うのだ。
 
 誰が何をしているのだろう。そんな事を考えながら炭治郎は足音を立てない様に歩いていると匂いの出先は案外近くにあり、それは蝶屋敷の炊事場であることが分かった。
 何の匂いなのかを確かめようと炊事場を覗こうと近づいたが扉は閉じられていた為、確認することが出来なかった。唯、中からかちゃかちゃとなにかの作業する音は聞こえるため、誰かが居ることは分かったが、その誰かが炭治郎には分からなかった。
 いつもであれば自身の自慢の嗅覚で人の感情の匂いまでをも嗅ぎ分けることが出来た。それなのに今は炭治郎が幾ら鼻をクンッと鳴らしても人の匂いは無く、唯甘い匂いが炭治郎の肺を満たすばかりである。
 炭治郎は匂いで誰なのかを嗅ぎ取ることを止め、今度は気配で中の人の様子を探ろうとした。だが、その誰かの気配をも掴むことも出来ず、炭治郎は一人ため息を吐いた。

 正直、中で何をしているのか、物凄く気になる。嗅いだことの無い甘い匂いと其れを誰が如何しているのか。
 そんなことを思いながらも炭治郎には扉を開けてまで確認する勇気は無かった。
 もしかしたら物凄く忙しくしているかもしれない。邪魔したら悪い。そんな思いが炭治郎の脳裏を過り、扉に手を掛けることが出来なかったのである。
 炭治郎は、また一つ溜息を吐くと諦めて自分に与えられた部屋に戻り、寝直そうと来た道を戻ろうと背を向けた時であった。

「帰っちゃうんですか?」

 突然、静かで淡々とした聞き慣れた少女の声が炭治郎の耳に届いた。

 突然のことに炭治郎は肩を大きくビクッと上下に揺らし、勢いよく自身の背後を振り返った。心臓がドキドキと鼓動を早め、大きく瞳を見開いた視線の先には先程まで閉じられていた筈の炊事場の扉が少しだけ開いており、その少しの隙間から紅い瞳を持つ少女が顔を覗かせていたのである。
 気配も音も無く現れ、隙間から覗く紅い瞳で炭治郎を見つめるその姿は例えるなら怪談話などで出てくる幽霊が隙間から覗き込んでいる様な光景を思わせた。
 善逸が見れば「あ゙あ゙あ゙ぁぁぁぁぁ‼‼‼おおおおおお化けぇぇぇぇぇぇ‼‼‼助けてぇ‼たんじろぉ‼‼いのすけぇ‼‼」と泣き叫ぶだろうなと炭治郎は驚きでドキドキと高鳴る鼓動を押さえるかのように深呼吸しながらそう思った。

 顔を亡霊のように覗かせていたのは炭治郎が想いを寄せる相手である同じ鬼殺隊の隊士・壱師紅であった。
 脅かした方である紅は深呼吸を繰り返す炭治郎の姿を少し開いた隙間からじっと見つめ、自身が炭治郎を驚かせたことをわかっているのか「大丈夫ですか?」と炭治郎に声を掛けた。
 紅は時折、師範を始めとした複数人の相手に悪戯をすることがあった。しかも、物を使った悪戯も有れば紅は自身の影の薄さを利用して相手の不意をつき、驚かせると云う悪戯をよくするのである。師範である不死川、友人であるカナヲとアオイ…そして最近は炭治郎も紅の標的になることが多い。ちなみに善逸は驚かすと後が面倒くさいので悪戯はしないと決めていることは紅の中の秘密である。
 そんなことなど知らない炭治郎は苦笑いを浮かべると紅の名を呼んだ。

「紅」
「こんにちは、炭治郎くん」

名を呼ばれた紅は隙間からひらひらと手を振った。
 その手はいつもであれば指先だけが見える黒い手袋をしているのだが、今日は手袋を外しているのか白い肌が炭治郎の目に止まる。一瞬だが無意識にその手を握ろうと手をぴくりとさせたが直ぐに我に返った炭治郎は紅にバレない様にその手をそっと下ろした。

「久しぶりだな、紅 いきなり声を掛けられたから吃驚したよ」

 隙間から顔を覗かせる紅に炭治郎が優しい声色で話しかけると紅は炭治郎を紅い紅玉の様な瞳で見つめながらゆっくりと口を開いた。

「扉の前から炭治郎くんの気配がするのに一向に扉を開ける気配がなかったのでソッと覗いて見たら此方に背を向けていたので」

 声を掛けてみました。と淡々と答える紅に炭治郎は乾いた笑い声で笑うと紅に「それにしても何故、紅が蝶屋敷の炊事場にいるんだ?」と尋ねた。
 少しだけ開けられた扉によって炊事場に充満していた甘い匂いが風に乗り、腹を刺激する様な美味しそうな匂いが目の前に立つ紅の向こう側に広がる炊事場から漂ってくる。
 くんっと匂いを嗅ぐが漂うのは甘い匂いだけでいつも通り紅の匂いは感じられず、また、他の人の匂いもしないことから紅が一人でこの甘い匂いを生み出したのだと炭治郎は、そう思ったのである。
 不思議そうに紅に問い掛ける炭治郎に紅は口を閉し少し考える素振りを見せた後「気になります?」と云うと炭治郎に炊事場の中を見せるかの様に扉を開け、炭治郎を中へと招いた。

 炭治郎が踏み入れた甘い匂いの充満する扉の先には様々な材料が広げられた調理台があった。

 竈に火がついていないことと調理器具が片付けられていたことから調理は終え、片付けの途中だったことが伺えた。
 そして、その材料の広げられた調理台の上のど真ん中には小さな白い陶器に入った見たことの無い黄色いぷるぷるとした得体の知れない物体が数個並べられていたのである。
 初めて見る得体の知れない物体に炭治郎は驚いたように目を丸くさせた。

 なんだ、これは…と思い、まじまじとその得体の知れない物体を見ていると紅がその得体の知れない物体が入った容器を一つ手に持ち、炭治郎へと差し出したのである。
 突然のことに炭治郎は戸惑いながら恐る恐る受け取ると紅は側にあった小さな匙の様な物をひとつ持つと炭治郎に「はい」と差し出した。
 炭治郎は訳が分からず、紅から差し出された匙を受け取ると困った様な表情を見せた。

「カナヲ達に頼まれまして御菓子を作ってたんです」
「御菓子を頼まれた?」

 炭治郎が鸚鵡返しの様に紅に問い掛けると紅は静かに頷いた。

 紅とカナヲはお互いに似ている部分があり、歳も近いことから仲が良かった。そんな二人をしっかり者のアオイも放っておくことが出来ず、何かと世話を焼くことが多かった。
 そんなある日、なんだかんだとお世話になっているからお菓子でも作ってカナヲ達に持って行くかと面倒くさがり屋な紅が珍しく料理をしたことがきっかけであった。
 紅は元々器用だ。料理、裁縫、楽器の演奏に踊りだって一通り出来る。だが、本人が面倒くさがり屋でやる気が殆ど無いので其れを知らない者が多い。
 ただ、やる気を出すと少しこだわりが出てしまうのが紅の厄介なところである。そんな珍しく出したやる気を使い、その時の紅は珍しい西洋菓子を手作りで作り上げ、蝶屋敷の皆に贈ったのである。
 そんな紅の器用さと作り上げた西洋菓子の美味さを知ってしまった蝶屋敷の子達は何かしら有れば紅に菓子を作って欲しいと頼むことが多くなったのだと云う。
 そう淡々と話す紅に炭治郎は自身の想いを寄せる相手の新しい情報量が多過ぎて戸惑いと「紅って料理が出来たのか‼⁉ととととと云うか、此れは手料理…‼⁉」と突然訪れた恋のドキドキに再び心臓が高鳴ると同時にぎゅっと締め付けられる感覚を覚えた。

「今回は牛乳と卵と砂糖で出来る【乳卵砂糖寄温菓】と云うものを作ってみました」

 「カスタプリンとも言うらしいです。あ、大丈夫です。毒は入ってませんよ」と炭治郎に食べても良いと告げる様な口ぶりの紅に心の中で荒ぶっていた炭治郎は肩をぴくりっと反応させると己の手に持った西洋菓子をまじまじと見つめながら紅に「食べて良いのか?」と尋ねた。
 紅は紅い瞳をきょとんとさせながら「え?要りませんか?」と不思議そうな表情を見せた。

「だって、その、カナヲ達に頼まれたんだろう?俺が食べたら数が減らないか…?」
「あ、なんだ。そんなこと気にしていたんですか?」

 紅はカナヲ達に頼まれたと言っていた為、匂いに誘われてポッと現れただけの自身が食べて良いものかと炭治郎は不安になった。

 炭治郎は六人兄妹の兄だった。家は裕福と呼べる程では無く、いつも炭治郎は下の子達に沢山食べさせてやりたいと思っていた。故に自分が譲れる物は譲って来たし、その考えは今も変わらず、伊之助におかずを奪われようが動じず、寧ろ優しく差し出す程であった。
 炭治郎は与えることは得意だ。だが、与えられることは少し苦手だった。
 それは与えられると云う全てに置いて、他人のことを考えてしまうからであろう。
 そんな炭治郎に紅は御菓子とは云え、ぽんっと簡単に自身に与えてしまったことに炭治郎は戸惑いを見せたのだった。

 だが、そんなことなど紅は初っ端から気にしてなどいないのである。

「カナヲ達の分は足りるはずです」

Wもし、足りなくても私と炭治郎くんの秘密にしちゃえば大丈夫ですW

 口に人差し指を当て、無表情でしーっと云う仕草を見せる紅に炭治郎の心はぎゅんっと音を立てた。

 二人だけの秘密と云う嬉しい言葉と甘い匂い。
 ぽんっと簡単に与えられたものに何だか心の中が温かく、何処か恥ずかしい気がした。
 いただきますと告げ、口に入れた柔らかな感触と口の中で広がる甘さ
 ぱっと目線を前に向ければ、想いを寄せる相手が自身を見つめている。

――あぁ、此れは…

「甘くて美味しくて、幸せの味がする」

炭治郎の言葉に紅には「独特な表現ですね」と相変わらずの無表情だが、いつもの淡々とした様なものでは無く、優しい声色に聞こえた。