逆ハー狙い女と紅の話
「初対面のはずなのに馴れ馴れしいし何故、そこまで知ってるんですか?…気持ち悪」
口の端にタレを付けたまま、無表情でもぐもぐとみたらしを頬張りながら言った紅い瞳の少女に女は殺意が湧いた。
長い黒髪に不気味な程に紅い瞳。彼岸花を模した髪飾りが微風で少女の頭の横で揺れる。髪飾りと同じく、薄気味悪い白い彼岸花の模様が描かれた血濡れた様な紅い生地の羽織が嫌に目につくのが女は不愉快で堪らなかった。
——…クソモブがさっさと消えろよ。
女は醜く歪んだ表情を表に出すこと無く、心の中でそう呟いた。
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
女は、この世界の人間では無く、別の世界からやってきた所謂、異界の人間であった。
幼少期から両親を始めとした身内に蝶よ花よと甘やかされた結果、自分は世界一可愛い。自分が良ければそれで良い。自分がなによりも一番と云う我儘で自分には甘々な性格に育ってしまった女は幼少期からずっとアニメや漫画などの世界に自分がトリップしてキャラから取り合いされるほど愛されたい。しかも、トリップするならいま自分がハマっている【鬼滅の刃】の世界が良い‼︎と云う、甘々でどろどろとした欲望と言う名の願いがあったのである。
普通ならば、その様な願いは側から見れば痛々しいもので絶対に叶うことなどない、願うだけ無駄な願いと言えるものであろう。だが、そんな痛々しい女の願いの中のひとつである【トリップしたい】と云う願いがある日、ひょんなことから叶ってしまったことから全ては始まった。
可愛い可愛いと持て囃され、毎日が自分の思い通りにうまく進んでいたある日のこと。
薄暗い森の中に気がついたら放置されるかの様に訳も分からず立ち尽くしていた女は生い茂る茂みの中から餌を求めてやって来た人喰い鬼と遭遇してしまったのである。
見たことのない皮膚の色をした異形の鬼の姿に女は驚き、腰を抜かして座り込んでいたところを偶々、通りかかった女にとってはモブと呼ぶべき鬼殺隊の隊士に助けられたのである。
手こずりながらも鬼の首を落としたモブ隊士が背負う【滅】と云う文字と薄く青みがかった刀の刃を目にして女は普段であれば直ぐに動かない思考回路のくせにこの時だけは、すぐにこの世界が自身の求めていた【鬼滅の刃】の世界であると云うことを察したのである。
憧れていた。そして望んでいた夢の世界。その世界にトリップできたことを理解した女は、すぐにモブ隊士へと縋りついた。
ありがとうございます‼︎私、気がついたらここに居て…どうしたら良いかわからなくて…怖いんです…なんて涙を浮かべながら名前も知らない隊士に擦り寄る。隊士も隊士で女の行動に戸惑いながらも鬼による被害者と云うことをもあり、女を近くにあった鬼滅の刃の世界ではお馴染みである蝶屋敷へと連れて行き、女の保護を求めたのであった。
自身の今から行く場所が蝶屋敷であると知った女は前を歩く自身を保護してくれた隊士にバレない様にほくそ笑んだ。
あぁ、ここから自分の愛され逆ハー世界が始まるのだと勝手に思い込み、勝手に期待に胸を膨らませたのである。
それからと云うもの、蝶屋敷に連れて来られた女は鬼による被害者であると云うことで数日、経過観察が行われたのだが、すぐに異常無しと判断された女の待遇をどうするか、蝶屋敷の主人である胡蝶しのぶが悩んでいた。女は、そのことを察したのか、胡蝶の元へと訪れた。そして自身には行く宛が無い。記憶が曖昧で天涯孤独な身であるなどと嘘から嘘を重ねながら、取り敢えず蝶屋敷に居座ろうとしているのが伺えた。
胡蝶自身も女の言動に不思議に思いながらも隊士達の療養施設も兼ね備えているこの屋敷は隊士の出入りも多く、年中人手不足なところもあった為に胡蝶は心の中では女に少し警戒しながらも女を蝶屋敷で働くことを認めたのである。
一方、胡蝶に警戒されていることなど知らぬ女は自身が蝶屋敷に居座る許可をもらえたと同時に自身が愛され逆ハー夢主ポジションだと思い込んでいる為、胡蝶を既に堕としたのだと勝手に一人で舞い上がっていた。
先ずは一人目、なんて思いつつ愛され夢主お得意のにっこりとした笑みを浮かべながら「ありがとうございます‼︎しのぶ様」なんて、勝手に許可無く胡蝶の下の名前を呼び始めたりなんてしていた。
そんな、誰からも愛される逆ハー夢主が誕生…かと思いきや、女の野望は一人の少女の存在によってぶち壊されるのであった。
そう、その存在こそが女が今一番大嫌いで邪魔で消えてほしい存在である鬼殺隊隊士・壱師紅と云う影の極端に薄い、不気味で気持ち悪いモブ少女であった。
紅と女は此れと言った印象的な出会いがあった訳では無い。
唯、女が蝶屋敷での生活を送る中でふっと紅の存在に気がついたのが始まりであった。
其れは突然、なんの触りも驚きも無く女の視界に入ってきたのである。
長い黒髪に血の様に紅い瞳。彼岸花を模した髪飾りが歩く度に少女の頭の横で揺れ、髪飾りと同じく白い彼岸花の模様が描かれた血濡れた様な紅い生地の羽織。何処からどう見ても目立つ服装なのに少女は其れを感じさせない程に影が薄く、存在しているのかさえ、危ういと思うほどの薄気味悪さと不気味さを女は少女に感じたのを覚えている。
なんだ、あんなキャラ…原作に居たか?なんて思いながらもすぐに女は少女を唯のモブ隊士だと結論付けると女は特にその時は気に留めることなどしていなかった。
だが、ある時に女は薄気味悪い少女が唯のモブでは無いことに気がついたのである。
そのきっかけは女が偶々、胡蝶の手伝いをしていたある日のこと、この薄気味悪い少女が胡蝶の元を訪れたことからだった。
音も気配も匂いも無く、少女は栗花落カナヲに案内されるまま胡蝶の元を訪れ、不気味な無表情のまま胡蝶に対して頭を下げると静かな声色で「師範のお使いに来ました」と告げた。
其れに対して胡蝶も困ったように微笑むと艶やかな唇を開いた。
「困りましたねぇ…私は薬を取りに来ると同時に定期検査がしたいのできちんと本人が来てくださいね、と不死川さんに告げたのですが…」
「そうだったんですか?狂犬みたいな顔をしながら注射が怖いのかもしれませんね」
「あれだけ普段からボコボコにされているのに不死川さんを狂犬扱い出来る紅さんは相変わらずですね」
「私、師範には常に下剋上の精神で接しているので」
淡々と交わされる胡蝶と不気味な少女の会話を聞いていた女は耳を疑った。
は?しのぶ様はなんと言った?不死川?風柱の?あの不気味な少女は、その不死川を狂犬扱いした挙句、師範だと言った?はぁ?なにそれ、そんな設定のキャラなんて原作に登場していたか?と二人の会話を聞き、驚きで目を見開いた女はバッと少女の方を振り向いた。
紅も女の方を見ていたのか、女が振り向くと同時に紅い瞳と視線が重なり合いぱちっと音が聞こえた様にも感じた。
薄気味悪い少女の紅く血の様な瞳が女を見つめる。
その不気味さと女の身体中を駆け巡った嫌悪感に女は少女が自身の敵であると察したのである。
それからと云うもの女の視界には大嫌いな少女が頻繁に飛び込んでくるようになったのである。
実際は飛び込んでくると云うか、紅自身が自ら意図的に女の視界に入る様に動いている訳ではない。
唯、紅が女の好きな【キャラ達】と会話をしたりと親しげなのが、矢鱈と女の目に映るだけなのである。
この世界で生きている紅からすればいつもと変わらない今まで通りに人と接しているだけなのだが、女からすれば【キャラ達】に必要以上に接しては媚びを売っている売女の様に見え、それに対して勝手に女が腹を立てているだけなのだ。
ある時は蝶屋敷で神崎アオイと栗花落カナヲと共に親しげに話していたり、またある時はボコボコに殴られて気絶した紅を風柱である不死川実弥が担いで蝶屋敷に連れて来たりなどと他の人とも何かしら会話をなどをしたりと未だ距離のある己より親しげな紅が女は許せなかった。
——……早く消えろよ。クソモブ
女は壱師紅と云う少女が大嫌いであった。
そんな愛され逆ハー生活を願っていた女は等々、主人公である竈門炭治郎と出会った。
緑と黒の市松模様の羽織。父から受け継いだ花札の耳飾りが風で揺れる少年の隣には黄色い蒲公英を思わせるような髪型の少年と猪の被り物をした少年が蝶屋敷の縁側に腰掛けながら、みたらしを頬張っているのを見かけたのである。
今までタイミングが合わず、顔を合わせたことのなかった三人を見かけた女はテンションが上がってしまい、ずかずかと三人に近づくと強引にその楽しげな輪の中に入り込んだ。
訳もわからず突然現れた女に三人は驚き、目を白黒させるが、そんな三人の様子など気にすることなく女は自己紹介をした後、馴れ馴れしく三人を下の名前で呼んだのである。それに対し三人は自分達は名前すら名乗っていないのに何故、知っているのかと警戒するような視線を女に向けるが女は、その視線が自分への熱い視線だと勘違いしたのか機嫌を良くしてしまい、更に止まることなくペラペラと話を続けた。
炭治郎くん、嗅覚が凄いんでしょう?うふふ、私の気持ちが知りたいからって匂いを嗅いじゃ駄目よ?恥ずかしから絶対に駄目だからね!あ、善逸くんもよ!音で私の気持ちを聴いちゃだーめ!伊之助くんもね?と女は一人できゃっきゃと楽しげに語るが、他の三人からすれば話したこともない相手が何故、そのことを知っているのかと云う恐怖しかなかった。
だが、相変わらず、女は其れに気が付かずにペラペラと話を続けていると不意に静かな声色が炭治郎の背の向こうから響いたのである。
「初対面のはずなのに馴れ馴れしいし何故、そこまで知ってるんですか?…気持ち悪」
声が聞こえた先へと女と炭治郎達は一斉に振り返った。
其処には、炭治郎の背に寄り掛かりながら無表情でもぐもぐと三人が食べていたみたらし団子を頬張る紅が居たのである。
口の端には、みたらしのタレをつけたまま、突如として現れた紅の存在に炭治郎達は驚いたような表情を見せ、寄り掛かられている炭治郎は顔を真っ赤にして変な叫び声をあげそうになるのをぐっと我慢した。
一方、女は音も気配も匂いも無く現れた大嫌いな紅が言い放った「気持ち悪い」と云う言葉に腹の奥底から怒りと云う感情が湧き出てくるのを抑えることに必死であった。
気持ち悪いとはなんだ。何故、お前の様なポッと出のよく分からないクソモブ女なんかにこの可愛い私がそんな風に言われないといけないのだ。しかも、馴れ馴れしいだと?この私を馬鹿にするのも大概にしろ。私は選ばれた存在なのだ。誰よりも可愛くて、愛される存在なのだ。私が微笑めば、皆嬉しいし可愛さに顔を赤らめる。私が悲しめば皆、私を悲しめた者に怒りを持つ。そんなみんなに愛される存在である私が話しかけてあげているのだ。
みんな私のことが大好きだから壁なんか作らずに接して欲しい筈だし、それが嬉しい筈なのだ。
なのに、この不気味なクソモブ女は私を馬鹿にしたような態度を取り、挙句の果てには気持ち悪いと言ったのだ。
許せない。早く消えろよ。早く死ね。と女は何度も紅を見つめながら心の中で呟いた。
女の所為で炭治郎達の間に漂っていた緊張感と警戒心が紅が女に対してキッパリと言ったことにより幾らか緩んだことも、ほっとした表情をしていることも自分のことばかり考えている女が気づくことなどなく、普段ならば他人が何か言っていようが放置している紅が初対面にも関わらず、ずけずけと割り込み、相手が話した覚えのない話迄をも何故か話し始めた女に困惑している三人…と云うか炭治郎を放って置けなくて素直に女のことを口に出したのだと言うことにも女は気がつくことなどなかった。
唯、この時の女の中には紅に対する嫌悪感と憎悪。
そして、どうやってこの薄気味悪いクソ女を片付けるかと云うことしか頭になかったのである。
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その騒動から数日が経った頃、女は紅を始末する為の計画を立てた。
実行したその日は蝶屋敷で年に数回の柱が対象の定期検診が行われる日であった。
朝から普段は蝶屋敷では姿を見かけることのない柱達が蝶屋敷の中を彷徨き、各々と好きな様に過ごしながら胡蝶の定期検診を受ける姿に女はニヤニヤが止まらなかった。
今すぐにでもキャラに声をかけて話したくて堪らず、そちらの方にばかり意識が逸れてしまい、普段から真面に手伝いが出来ない女が更に目も当てられないほど酷い動きをしていた。
蝶屋敷で働くしっかり者の神崎アオイがその行動を見かね何度も注意するが舞い上がっている女の耳には届かず、改善されることはなかった。
そんな浮ついた女の視界の端に嫌なものがチラリと映った。そのことに気がつくと女は誰にもバレない様に小さく舌打ちをした後に忌々しそうに其方の方へと視線を向けた。
他の柱達とは違い、時間に遅れてやってきた風柱・不死川実弥。そして、その不死川の後ろからぴょっこりと姿を表した大嫌いな壱師紅の姿を女は睨みつけた。
身体に纏う嫌悪感。腹の奥底から溢れる憎悪に女は今にでも紅へと掴みかかり、その澄ました顔面を引っ叩いてやりたいと思う心をぐっと堪えてながら紅へと和かな笑みを向けた。
「壱師さん、ちょっといいですか?」
胃の中が煮えくり返り吐きそうになるのを我慢しながら大嫌いな女の名字を呼び、紅にちょっと手伝って欲しいことがあるので付いてきてほしいと云うことを告げる。
突然のことに紅は不思議そうな表情を見せながらもチラリと師である不死川へと視線を向けた。不死川は紅の視線に気がつくと目線と顎で行けと云う様に指示する仕草を見せると紅は無表情のままコクリと頷き「いいですよ」と返事を返した。
その返事に女はニッコリと更に笑みを見せ、ついて来いと言いたげに紅に背を向けて歩き出した。紅も同じ様に女の後を追おうと一歩踏み出したのだが、二人の様子を影から伺っていた炭治郎と善逸、カナヲの姿に気がつくとふりふりと手を振り、その場を後にした。
紅を呼び出した女は蝶屋敷の中を歩きながら時折、自身の背後を振り返り紅が居ることを確認する。
その度に自身の瞳に映る紅の姿に嫌悪感と憎悪で吐きそうになるのを耐えながら長い廊下を進んで行く。そして、薄暗い部屋の前でピタリと足を止めた女に対して後を歩いていた紅もピタリと足を止めた。
女は、そんな紅を気にすること無く、薄暗い部屋の扉を開けて中に入ると紅にも中に入る様に促した。それに紅も何も言うこと無く従い、部屋の中へと入ると多くの書物が並べられているところを見る限り、その部屋が書庫なのだと云うことが紅にはわかった。
中に入り、きょろきょろと辺りを見渡す紅の背後でピシャッと扉が閉まる音が響き、紅は静かに自身の背後を振り返った。扉の前にいる顔を伏せた女の姿に扉を閉めたのは女なのだと理解すると紅は何も言うことなく、女の方に身体の正面を向けた。
扉を背にした女は顔を伏せたまま、ふるふると肩を震わせてており、紅は女の態度に不思議そうに首を傾げていると女は肩を震わせたまま「うふ、ふ」と声を漏らした。
噛み締めた女の口から漏れ出した声は明らかに何か嫌なものを含んだ笑い声に紅は一瞬、眉を顰めたが直ぐに無表情へと戻ると女から目を逸らすことなく紅い瞳を向けた。
女は伏せていた顔を勢いよく上げると紅を睨みつけた。紅の忌々しい紅い瞳と女の視線がかち合い、ずっと今まで心の中に押し留めていた女の勝手な想いが溢れ出した。
ずっと気に食わなかった。済ました顔で可愛い可愛いこの私よりもキャラ達と親しげなアンタが嫌いだった。
私は未だ名前で呼ばれてすらないのにアンタは紅、紅と何度も呼ばれてキャラ達に囲まれている。
腹立たしい。憎らしい。妬ましい。許せない。許せない許せない許せない‼︎
「だから私は考えたの。アンタを排除する方法を」
「へー」
「へーじゃないわよ‼︎‼︎こっちは真面目に話してるんだからちゃんと聞きなさいよ‼︎‼︎‼︎」
「えー…」
「えーじゃないわよ‼︎‼︎アンタ、本当にいい加減にしなさいよ‼︎⁉︎」
女は紅の態度に怒りながらも話を続けた。
一方の紅は相変わらず、女へと視線を向けたまま顔色を変えることなく、静かに女の言葉に耳を傾ける。
女はずっと、大嫌いな紅を排除する方法を考えていた。だが、今まで甘やかされて嫌なことから逃げる人生を送っていた女は頭が良い方ではなかったのである。一生懸命、紅を排除する方法を考えては何れも辻褄が合わず、実行すらできない案ばかりだった。
そんな女がやっとの思いで計画したのが、今回実行する方法であった。
内容は至ってシンプルで何の捻りもないものである。【紅と二人きりになり、悲鳴を挙げた直後に嘘泣きをしながらキャラに助けを求めて、紅に殴られたと虚偽の証言をする】と云うものであった。
通常の感性の持ち主であれば引っ掛かることはないであろう、くだらない計画に対して自身は選ばれた人間なのだ。世界で一番可愛くて愛される私が泣けば、キャラ確実に私の味方をする。それが当たり前なのだと思い込んでいる女は、この計画が絶対に成功すると完全に思い込んでいたのである。
悲鳴をあげて集まったキャラ達に助けを求める。ギャラリーは多ければ多いほど、目の前にいる不気味で薄気味悪いこの少女へ向ける視線や態度が鋭いものとなる。それが女の考えた計画なのだ。
だから、蝶屋敷に多くの人が集まるこの日を選んだのだ。
「アンタもこれでお終いね‼︎」
——さようなら。
女が楽しそうに口元を歪ませながら笑う。
すぅーっと女が大きく息を吸い込む音が響く。そして悲鳴をあげようと女は大きく口を開いた。
…のだが、次の瞬間、開かれた女の口に何かがズボッと音をたてながら捩じ込まれたのである。
突然の現れた口腔をみちみちと充す物体に女は戸惑い、声にならない声をあげる。だが、唸り声の様な音だけが暗い書庫内に響き渡り、女の全身から冷たい冷や汗が吹き出る感覚が一気に駆け巡った。
すぐに口の中の異物は女の唾液を吸収してほろほろと口腔で崩壊し始めた。其れに加えてほろ苦い黒糖の味が女の口の中に広がり、女の脳内は大パニックであった。
そんな中、女はふと自身の目の前にいた紅へと視線を向けた。するとそこには片手で何かを空に放り投げてはキャッチするのを繰り返す紅の姿があった。
澄ました無表情で混乱する女を気にすることなくポンポンと動作を繰り返す紅の手元をよく見ると放り投げている何かは黒く丸い物体であることが伺えた。
「私、めんどくさいことが一番嫌いなんです」
紅がゆっくりと艶やかな唇を開き、静かな声色でそう言った。
普段耳にしていた声よりも静かな声色に女の背中にぞわりと悪寒が走り、身体が硬直したかの様に動かなくなる。
そして女が瞬きをした一瞬の出来事だった。
紅が目の前から消えたかと思うと、次に瞬きをした時には二人の間にあった距離はゼロに近いものとなっており、女の真前には紅が音もなく立っていたのである。
しかも、空中でポンポンと放り投げては受け取るを繰り返していた黒い物体を女の口を塞ぐ様にして押し付けてくるではないか。
その得体の知れない、人生で初めて感じた【恐怖】と云うものに女は先ほどの震えとは違う感情の震えが止まらなかった。
「そして、二番目に嫌いなものが注目されることなんです」
私ね、貴女がどうしていようがどうでも良かったんです。師範に擦り寄ろうが、私のことを疎ましく思って居ようが本当にどうでも良かったです。まぁ、この間のは何だか炭治郎くん達が震えてて可哀想だったから口を出してしまいましたがね。それ以外は自分に害がないなら基本なんでもおーけーなのです。
「でもね、今、貴女は私にその嫌いな両方のことをしようと思ってましたよね?」
紅の紅い瞳が薄暗い部屋の中で不気味に浮かび上がる。
いつもならば光がある瞳なのに女に語る紅の瞳に光は無く、瞳孔が開いた瞳で女を覗き込む様に顔を近づけて見つめてくる。それに対して女の心臓がばくばくと心音を早める。
女は今回のこの計画を誰にも話していない。自分の心の中にずっと隠していた計画である。なのに紅は女の言葉と行動、其れから導き出された答えに紅は素早く判断を行い、大声をあげようとした女の口に羽織の袖の中に隠し持っていた本日のおやつである、程よい大きさのかりんとう饅頭を女の口の中に素晴らしいコントロールで投げ入れたのだった。
それほどまでに紅は、めんどくさがり屋で目立つことが嫌いだったのである。故に女が紅を勝手に妬み、許せないと怒る様に紅も自身の嫌いなことをしようとする女が許せなかった。
おどろおどろしい空気を感じた女の脳内に警報音が鳴り鳴り響き、目の前がチカチカと恐怖で視界が白くチラつく。
自身の口に押し付けられる物体の力強さから確実に紅はキレている。
女は其れを静かに悟った。
「どうでもいいんです。本当にどうでもいいんです。貴女の他の人との関わり方も私への態度も想いもどうでもいいんです」
——…だけどね、
「私の平穏を壊そうとするなら私は貴女を許しません。もしも、やる気なら顔面が変わるぐらい容赦なくボコボコにしてもう二度とおいたが出来ない様にしてやります」
——私、例え喧嘩を売ってきた相手が柱だろうが、一般人だろうが…絶対に遠慮せずにボコボコにしてやると決めてるので。
紅は女の口に押し付けていた、かりんとう饅頭に更に力を込める。
扉を背にしていた女は等々、顔を逸らすことが出来なくなり、ぐいぐいと口に押し付けられていたかりんとう饅頭が女の口の中に押し込められ再び口の中の水分を奪っていく。それと同時に恐怖で身体が震えて止まないことに女は動揺していた。
なんか色んな意味で怖い。訳もわからず素早く自分の口元にかりんとう饅頭を放り込んだ紅のコントロールも相手に対して望むならボコボコにしてやるから、来いやぁ‼︎発言も女にとっては予想外のことばかりなのである。
自分の計画は上手くいくと馬鹿みたいに本気で思っていた女にイレギュラーなことを対応出来るほどのスキルはなかったのである。
増してや紅は面倒くさいことと目立つことが嫌いだ。しかも人と感性がズレているし負けず嫌いなところもある。売られた喧嘩は素直に受け取り、自身の素手で倍にして返すのが壱師紅と云う少女である。
故に今の師範の元で弟子を続けられているのかも知れないが、そんなことなど知らない女は紅の存在に恐怖を覚えた。
「どうします?このまま喧嘩を売りますか?私はいいですよ」
——但し、素手での殴り合いで早急に決着をつけさせていただきますが。
「ボコボコにしてやんよ、です」
普段よりもやる気に満ちた紅の紅い瞳を見て、紅の本気を感じ取った女はズルズルと腰を抜かして床に座り込んだ。
メンタルが強すぎる紅に頭の弱い女は、これ以上の行動を起こすことが出来なかったのである。
下手に喧嘩を売れば、紅は必ず行動に移す。周りにどう評価されて、如何思われようが紅は気にせずに女を排除しようとするであろう。しかも、全力と云うおまけ付きで。
そのことを理解した女は、あれだけ大嫌いだと言っていた紅に対して喧嘩を売ることを辞めた。
そのことを悟ったのか、紅は女の背後にある扉に手を掛けると静かに扉を開けた。
「かりんとう饅頭、美味しかったですか?」
——…また、食べたかったら言ってくださいね。
紅の問い掛けに女は肩を大きくビクつかせた。
そのまま紅は書庫から出ると座り込んだままの女に一瞬だけ視線を向けたが、すぐに目線を逸らした後、蝶屋敷の天井を見上げた。
「私は大丈夫ですよ」
紅がポツリとそう告げると天井裏から何かが揺れる様なカランと云う音と「チッ」と云う舌打ちが聞こえ、微かに花の匂いがした。
きっと屋根裏には紅に対して心配性な三人がいるのであろう。そのことに紅は心の中で「珍しい組み合わせだな。混ぜるな危険だー」と呟くとその場に居る女を放置して先ほどまで自分が居た場所へと戻っていったのだった。
そして、計画が紅の手により未遂に終わった女の嫌いなものに壱師紅に続いて、かりんとう饅頭が追加されたのを紅は知らないのであった。
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