壱師紅は考えるより先に身体が動いた。
不安な表情を浮かべる大切な友人をあのギンギラ筋肉達磨から早急に助けなければならないと思った。
大きく息を吸い込み、気配を消す。
音も匂いも気配さえも掻き消すと大きく飛び上がった。
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
鬼殺隊音柱・宇髄天元は蝶屋敷の門の上で神崎アオイを米俵の様に抱き抱えたまま、チラリと辺りを見渡した。
前方は鬼を連れた隊士である竈門炭治郎が立ち塞がり、そして右には猪頭を被った嘴平伊之助が居る。またその反対には派手に金髪の髪を揺らした我妻善逸が自分達より格段に背丈の大きい宇髄を囲う様にして見上げている。
炭治郎の背後では蝶屋敷に住む三人の少女と蟲柱・胡蝶しのぶの継子である栗花落カナヲがアオイを連れて行くことに対して宇髄に抗議をしている姿が見られた。
——さぁ、どうしたものか。
アオイを抱えたままの宇髄に炭治郎・伊之助・善逸の三人が自身がアオイの代わりに行くと口にし始め、宇髄はその言葉に少し目を細めた。
まぁ、働けるならコイツらでもいいか。なんて心の中で溜息混じりに妥協すると宇髄が口を開こうとした。——…その一瞬の間、先程まで自身を照らしていた筈の日の光が何故か急激に陰り始めたのである。
曇ってきたか?なんて普通の人間であれば、そう思うはずなのだが、宇髄は素早く自身の周りをぐるりと見渡すと一瞬だけ頭上から肌に感じた殺気に対して素早く己の頭上を見上げた。そして素早く身体を捻りその場から動いた瞬間、降り注ぐ太陽の光に紛れるかの様にして宇髄が先程まで立っていた真上に拳を振り上げた壱師紅が音も匂いも気配も無く姿を現したのである。
その瞬く間の出来事に炭治郎達や蝶屋敷の女の子達も驚き、宇髄に抱えられたままのアオイも瞳が零れ落ちそうな程、見開かれている。
宇髄は突然の紅の登場と拳を振り上げた紅の姿に舌打ちをするが、紅は紅い瞳をぐるんっと静かに宇髄の方へと向ける。
太陽の光により紅い瞳は一際目立ち、獲物狙う様な目つきをしていた。そして、その瞳は獲物である宇髄の姿を確認すると着地したと同時に瞳と同じ血濡れた様な色の羽織と身体を宇髄の居る方へと翻しては再び宇髄に向けて飛び掛かった。
自身の拳を力強く握り紅は宇髄の顔面へと拳を突き出す。そのことに宇髄も勘づいているのか、紅の拳を避けるが紅は素早く息を吸い込むとふっと宇髄の前から姿を消しては宇髄の行動と素早さに対して自身が有利になる様に突き進めて行く。
元忍びである宇髄は人の気配を読んだり消したりなど当たり前に出来る。その筋では結構名を馳せていた人物であるのだが、そんな宇髄を持ってしても紅の影の薄さには瞬時に気がつけないことが多かった。
何度か紅の師である不死川に対しての用事で不死川の屋敷を訪れた際に紅と接触したことがあった。だが、音も匂いも気配も無い紅の影の薄さ加減に宇髄自身は毎回驚かされていたと同時にもし敵対した際は自身との相性はきっと悪いだろうと思っていたのである。
そんな影の薄さに加えて日頃、不死川との組手により培った素早さと柔軟性。そしてむくむくと育ってしまった牙を剥いた時の凶暴さが混ざり合い、宇髄にとっては更にややこしい敵へと紅は進化していた。
休むことなく紅は拳を振り上げては突き出す。それに対して宇髄は長い足で紅の横腹に狙いを定めて蹴りを入れようとするが、紅は素早く自身の脇腹より高く飛び上がり、宇髄の足の上に蝶が花に止まるかの如く、トッと片足で着々した。そして、そのまま宇髄の顔面に狙いを定め、鞠を蹴るかの様にブーツで蹴りを喰らわせようとした。——だが、宇髄は己の顔面を蹴ろうとした紅の足首をガシッと掴むとその手に力を込め、紅の身体を炭治郎の方へと放り投げた。
空中に逆さまの状態で放り出された紅は済ました顔で紅を見下ろす宇髄に対してムッと頬を膨らませて不機嫌な表情を見せた。その紅の向こう側では炭治郎が焦った表情で慌てて紅を受け止めようとわたわたと右往左往しており、その気配を紅は感じ取ったのか空中でくるりと身体を回転させ、そのまま炭治郎へと視線を向けると炭治郎に向かって艶やかな唇を開き「炭治郎くん、私を放り投げてください」と告げた。
突然の紅の言葉に驚き戸惑ったが、紅の言葉の意味を瞬時に理解した炭治郎はピタリとその場に立ち止まると中腰になり、両膝の間に両掌を組んだ。そして紅が炭治郎の組んだ両掌の上に先程と同じようにトンッと片足で着地したと同時に炭治郎は紅を力一杯、空中へと放り投げた。
ふわりと血に濡れた様に紅い羽織と長い黒髪が青い空に舞う。
そのまま宇髄の頭上よりも高く飛び上がった紅は空中で身体を捻り、宇髄を視界に捕らえると大きく息を吸い込み拳を構えた。
そして再び宇髄を目掛けて振り下ろそうとしたところを宇髄は紅に押しつける様な形で己の肩に担いでいたアオイを紅に放り投げた。
アオイの悲鳴が上がり、蝶屋敷の女の子達と炭治郎達が紅とアオイの名前を呼ぶ声が響き渡る。
アオイを放り投げた宇髄は澄ました顔で紅に視線を向けており、紅は宇髄の行動に戸惑うこと無く冷静にアオイの身体を受け止めて、横向きに抱き抱えると腕の中にいるアオイに衝撃を与えないように気を配りながら地面へと着地した。
「アオイ、大丈夫ですか?」
無意識に目をぎゅっと瞑っていたアオイの耳に静かな声色で自身を心配する紅の声が届き、アオイはソッと目を開いた。
其処には太陽を背にして無表情ながらにも心配そうな雰囲気を纏う紅がアオイの顔を覗き込んでいたのである。
紅の腕の中で大人しく横抱きされていたアオイは紅との顔の近さに驚きながらも何故か少し頬が熱くなると同時にドッと押し寄せた安堵感に自身の瞳が潤むのがわかった。
「紅っ…」
「うん。無事で良かった」
アオイが紅の名を呼びながら紅の首に腕を回してぎゅっと抱きついた。
普段のアオイはしっかり者で弱いところなど一切表に出さない強い女の子である。めんどくさがり屋で人と感性がズレている紅の世話を焼くことはあってもこの様に紅に縋り付くような行動を見せたことはなかった。
驚きと恐怖によって僅かに震えるアオイを初めて見た紅は不意を突かれたかの様にきょとんとした表情を見せながらもアオイの名を静かな声色で呼び、ポンポンと背中を撫でながら優しくアオイを地面へと降ろした。
地面に足を付けたアオイは、ゆっくりと紅の首に回した腕を解き、自身と変わりない身長の紅を見つめると「助けてくれてありがとう」と震える声で呟いた。紅はその言葉に頷くと涙で潤むアオイの目尻の涙を拭う様に白い指先を滑らせた。
「いつも私がお世話になってるんです。アオイが困ってる時に助けるのは当然です」
そう、ぽつりと呟いた紅と安心したような表情のアオイを側から見ていた人々の目には二人の周りに花が咲いているような幻覚が見えていた。
なほ・きよ・すみは紅とアオイの姿を見て頬を染めながらきゃーきゃーと騒ぎ、炭治郎とカナヲはキュッと口を結び、何とも言えない表情をしている。伊之助は、ぽけーっと静かに二人を見つめており、善逸は紅とアオイの二人を見て「紅ちゃん男前すぎない??え?おかしくない??」とぶつぶつと呟いていた。
そんな一部の特殊な性癖を持った人間ならば手を叩いて喜びそうな光景に待ったをかけたのがことの発端である音柱・宇髄天元であった。
「俺様を無視してイチャイチャしてんじゃねぇぞ。不死川ンとこの影っ子」
宇髄が門の上から紅をそう呼ぶと紅は無表情ながらにも嫌そうな顔をしながらスッとアオイを己の背に隠す様な仕草を見せた。
横で善逸が「紅ちゃん、カッコ良すぎない??」と呟いていたが誰も何も言わず、皆が静かに宇髄に視線を向けていた。
「イチャイチャしてません。唯、人の事情も知らずに無理矢理誘拐しようとした挙句、女の子の尻を叩く変態と遭遇して怖かっただろうなぁと心配してただけですよ。変態筋肉柱」
べーっと舌を見せる紅に宇髄の顳顬に血管が浮かび上がった。
「てめぇ、くそ影っ子‼︎お前、俺様がお前の師範と同じ階級だってわかってンのか⁉︎ぼこぼこと攻撃を仕掛けてきやがって‼︎‼︎不死川と同じように尊敬して敬いやがれ‼︎‼︎」
イライラとしながら語る宇髄に紅は無表情のまま、不思議そうにコテンと首を傾げた。
「師範と同じ階級なのは存じております。ちなみに私は師範を尊敬しておりますが、超えるべき対象だと思っております。…常に下剋上精神で接していますので師範と同じ扱いを所望するのであれば、常に音柱様の顔面を狙うことになりますが宜しいと言うことですね?了解です」
「了解すんな‼︎‼︎‼︎お前、もっと不死川を大切にしてやれ‼︎‼︎」
紅の師範である不死川に対する考え方に宇髄は思わず声を荒げた。
なんて恐ろしい子‼︎‼︎なんて聴こえて来そうで宇髄は何処となく頭痛を感じたが、大きく溜息を吐くと己の中で直ぐに感情を切り替えた。
「任務で女の隊士が必要だったが…其処の男どもが自分達が行くと言い出したからな。ソイツは、もう良いわ」
「ほう?それで次は炭治郎くん達のケツを叩くと?」
「そんな趣味はねぇわ‼︎‼︎てめぇはケツから離れやがれ‼︎‼︎」
真面目な表情を見せた宇髄に対して紅は素早く宇髄を煽った。余程、友人であるアオイを怖がらせたのが許せなかったようで崩れた宇髄の表情に対して紅は何処となくしてやったりと良いたげな表情を見せた。
「取り敢えず、影っ子。お前には関係ねぇからさっさと不死川ンとこに帰れ」
無表情ながらにもしてやったり顔の紅に宇髄はビシッと指を差しながら、そう言った。だが、紅はキョトンとした表情を見せた後にゆっくりと唇を開いた。
「私も行きます」
紅の突然の言葉に誰もが「えっ⁉︎」と声を上げた。
「紅⁉︎」と背後に居たアオイが紅の名を呼ぶが紅はじっと静かに宇髄を見上げるばかりであった。
紅は不死川を師に持つ鬼殺隊隊士である。故に柱に与えられる任務がどの様な危険が伴うものなのかも理解していた。
柱が動く任務——…其れはきっと数えなきれない程の人肉を食らった鬼、もしくは上弦の鬼だろうと紅は瞬時に判断したのである。
紅には昔から追いかけているとある鬼が居る。
自身の父と義母、そして屋敷の者達を殺した挙句、唯一生き残った紅を逃した変わり者の鬼…その鬼を紅は長年追い続けているのである。
今にでも鮮明に思い出せる。何処か戯けたように見えて隙のない雰囲気を纏う鬼の姿。きっと奴は強い。上弦の中に組み込まれていてもおかしくないぐらいだと紅は思っていた。
鬼殺隊に入り、何度も何度もあの鬼を探したが、あの鬼の情報を掴むことはあれど姿を見かけることはなかった。己の師の任務に何度着いて行ってもあの鬼と出会えないでいた。
あの鬼と再び会う為には、もっと己の師だけでは無く、他の柱の任務にも着いて行く必要がある。下手な鉄砲数打ちゃあたるではないが、今の紅にはそれしか方法が思い浮かばなかった。故にこれは紅にとっては絶好の機会だったのである。
「私なら音も匂いも気配もなく、懐に潜り込めますので情報収集をするには良いかと思いますが」
普段ならばそんな風に自身を売り込みなどしないが、今回は追いかけているあの鬼と接触が出来るかも知れないと思い、紅は引き下がることをしなかった。
売り込んだ相手は元忍びである。音も気配も無く、相手の元に滑り込むことは簡単であるが、紅はその忍びを上回る程の影の薄さがある。それを宇髄に売り込んだのである。
宇髄は紅の言葉に少し考えるような素振りを見せた。顎に手を当て、じっと紅を見つめた後、口を開いた。
「お前…確か、賭け事が得意だったな?」
「賭け事…と云うか花札は音柱様をぼこぼこに出来るぐらい得意です」
「お前は一々、一言多いな⁉︎」
紅は宇髄の言葉の通りに花札が得意だった。いや、実際のところ本人は気づいていないが、花札以外の賭け事も得意であった。
丁半博打・富札などをさせても良い結果を得られることが多かった。柱である宇髄も不死川の元を訪れた際に何度か紅と暇潰しで花札をしたことがあった。
だが、一度も歯が立たずにボロ負けしたのである。この時、何も賭けずに唯、花札を楽しんでいただけでなので失うものが無くて良かったと心の中で安堵したのを宇髄は覚えていたのである。
紅が自身で売り込んだ影の薄さに加えて、宇髄は紅の博打の強さにも目をつけたのである。ならば、宇髄が出した答えは唯一つだった。
「影っ子、お前も今回の任務に連れて行く」
其の言葉に紅は大きく頷き「はい。了解しました」と答えた。
紅の背後ではアオイが紅の名を呼び、不安げに紅の紅い羽織を握りしめる。紅は背後にいるアオイへと視線を向けると「大丈夫ですよ。アオイは私の帰りをカナヲ達と一緒に待っててください」と優しい声色で言った。
そして紅はアオイから炭治郎へと視線を向けると炭治郎へ向かって言った。
「炭治郎くんが変態筋肉柱にケツを叩かれない様に私が守りますね」
「え⁉︎⁉︎⁉︎」
「だから、お前はケツから離れろ‼︎‼︎」
紅の言葉に炭治郎の驚いた声と宇髄の叫びが響き渡った。
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
アオイ達と別れ、宇髄の後をついて行った炭治郎達と紅は訪れた藤の家紋の屋敷にて今回の任務の内容を聞かされた。
欲望と愛憎渦巻く遊郭・吉原…其処に鬼が潜んでおり、その鬼の情報を集める為に潜入した自身の三人の嫁が行方不明になったと宇髄は真剣な表情で語った。
其のことを聞いた紅の脳裏には宇髄の嫁である、雛鶴・まきを・須磨の姿が思い浮かんだ。
紅の師範である不死川は風柱である。音柱の宇髄と接することも多く、何かしらの御使いなどで宇髄の嫁が不死川と紅の住む屋敷に訪れることもあり、宇髄の三人の嫁とも紅は接点があった。
明るく元気な須磨
頼れる姉御肌のまきを
優しい物腰の雛鶴
優秀な、くのいちである三人が連絡がつかなくなるなどおかしいと考えた宇髄は更に様子を探る為に他の隊士を遊郭に潜入させることを決めたのである。
その話を聞いて嫁三人を心配していた紅は思わず「アオイをそんなところにぶち込もうとしてたんですか?この人でなし。変態、脳みそ筋肉」と宇髄に暴言を吐き、宇髄から拳骨を喰らい畳へと沈められた。
炭治郎が慌てて頭に星を散らした紅を抱き起こしたが、痛みの影響により自身では座ることが出来ずにそのまま炭治郎の膝へと紅は崩れ落ちた。
紅の行動に炭治郎は思わず顔を赤面させるが、痛みで唸る紅を退かすことが出来ず、高鳴る胸を抑えながら口をむんっと結び、叫び出しそうになるのも手を出しそうになるのもグッと我慢した。
横では更に要らないことを言った善逸が紅に続き宇髄の鉄槌を喰らい畳へと崩れ落ち、その後、伊之助迄もが宇髄の鉄槌により畳へと沈んだ。
炭治郎は困ったような呆れた表情をしながらも宇髄の話を聞いていると不意に部屋の外から屋敷の住人が声を掛けてきた。
宇髄は住人に返事をすると住人から用意していた何かを受け取り、炭治郎の膝に頭を預けていた紅の名を呼んだ。
「影っ子、コイツらの着付けを手伝え」
「…はい?」
紅は痛む頭を抑えながら起き上がると不思議そうに返事をしたが、宇髄の言葉を理解したのか「流石に裸を見るのはちょっと…最後の帯締めだけならします」と答え、宇髄も其れに頷いた。
———そして数十分後…
宇髄から化粧を施された三人の姿に紅は無表情のまま盛大に吹いた。
ぎょーんっと変な効果音が聞こえてきそうな程、不細工に化粧を施された三人に紅は何も言えず唯、無表情のままぷるぷると身体を震わせることしか出来なかった。
笑いと音柱の独特な美的センスに対して笑えば良いのか、泣けば良いのか。なんとも言えない三人の化粧姿は途轍もなく悪目立ちしているように紅は思えた。
「もっと三人のお顔を生かした化粧とかあったと思うんですけど」
「あ?これが一番イケてるだろうが。ド派手で良いだろ」
「いや、これ唯の不細工…」
紅は思わず、心の声を出してしまった。
三人は此れと言って顔が悪いわけではない。寧ろ、途轍もなく良い方だと紅は思っていた。なのにこんな美的感覚がとち狂っている化粧を施されるなんて可哀相だと紅は心の中で三人を憐れんだ。
「その、確かにこの化粧は俺もどうかと思ったんだが…」
炭治郎が苦笑いをしながら紅に近づく。
市松模様の着物に頭には赤いリボンをつけた、その姿は女の子と呼ぶには体型ががっしりとし過ぎている。
いつもとは違う炭治郎の姿を見つめながら紅は此れは直ぐにバレそうだぞと無表情ながらにも音柱のセンスに何とも言えない表情を見せた。
「炭治郎くんの見目はとても良いのにこの化粧で台無しです。勿体ない」
大きく溜息混じりに紅が呟くと炭治郎は頬紅で色づいた頬を更に赤く染めた。
「見目が良いって…そ、そんなことないぞ。俺なんかより、紅の方が綺麗だし…可愛いし…その…俺は…そんな紅が…」
いつものハキハキとした喋り方では無く、モゴモゴと恥ずかしそうに話す炭治郎の声がどうやら紅には聞き取り辛かったようで不思議そうに首を傾げた後、何かに気がつき白い指先でちょんと炭治郎の口元に触れた。
「炭治郎くん、そんなに口をモゴモゴとしていると口紅が落ちちゃいますよ」
宇髄の手により綺麗に塗られていた口紅が炭治郎がモゴモゴと変に口を動かしたことにより唇からはみ出た場所に少し付着してしまっていた。
紅はそのことに気がつき炭治郎の顔を覗き込む様に自身の顔を近づけると炭治郎の口元に触れた指先で優しくはみ出た口紅を拭った。
少し節目がちな紅の瞳と長いまつ毛。吐息が触れ合いそうな程の顔の近さと自身の唇に触れる温かくて柔らかな温もりに炭治郎の喉が思わず、ごくりっと鳴った。
化粧により赤い頬は更に赤みを増し、熱い吐息が炭治郎の口から漏れる。紅の顔の近さと温もりに炭治郎は今直ぐにでも叫び出し、自身より小さい柔らかな身体を抱き締めてしまいたい衝動に駆られるが「俺は長男……っ‼︎‼︎耐え…っ…るんだ‼︎‼︎」と持ち前の長男論を心の中で何度も唱えながらグッと己の身体と心を押さえつけた。
「なぁ」
「……なんですか」
宇髄が炭治郎と紅のやり取りを見て、同じ様に炭治郎と紅をジト目で見ていた女装した善逸へと声を掛ける。善逸は二人を見つめたまま、宇髄の言葉に返事をすると宇髄もそのまま二人に目線を向けたまま、言葉を続けた。
「あの二人はデキてんのか?」
「いや、炭治郎の片想いです」
善逸の言葉に宇髄は「へぇ、あの影っ子に想いを寄せるなんてやるねェ」と顎に片手を当てながらニヤリとした表情を見せた。
新しいおもちゃを見つけた子供の様な、意地悪そうな音が宇髄から聞こえてくる。その音を耳にした善逸は心の中で目の前の二人に手を合わせた。
「さて、影っ子。イチャつくのも其処までだ」
「イチャついてませんけど」
宇髄の言葉に紅は静かに炭治郎から離れると紅い瞳を目の前に居る炭治郎から宇髄へと向け、炭治郎も同じように赤い頬のまま宇髄へと視線を向けた。
宇髄は先程の意地悪そうな表情のまま、紅へビシッと指を差した。
「次はお前の準備だ。影っ子」
そう云うと宇髄は紅へと差していた指をパチンッと鳴らした。
すると先程、荷物を運んで来た藤の家紋の屋敷の人間がスパンッと音を立てながら扉を開け、そのまま呆気に取られる宇髄以外の人間を無視してズカズカと部屋に踏み入れたかと思うと宇髄に向かって「どの方でしょうか?」と問い掛けた。
宇髄は屋敷の人間の問い掛けに目の前に居る紅へ再び指を差すと「そこの市松模様の隣に居るやつ」と告げた。
屋敷の人間は影の極端に薄い紅の存在が見えていなかったのか、一瞬驚いた様な表情を見せたが「承知致しました。さぁさぁ!此方へ!」と紅の腕を掴み、ぐいぐいと引っ張ると別の部屋へと連行したのである。
「え、えぇ?べ、紅⁉︎」
炭治郎が驚き、紅の名を呼びながら着いて行こうとするのを宇髄が「影っ子の着替えを覗くつもりか?」と炭治郎の背中に声を掛けると炭治郎は足をピタリと止めた。
———そして数分後。
スパーンッと云う音と共に炭治郎達が待機している部屋の扉が勢いよく開かれた。
その音に驚いた炭治郎達はその音の方へとすぐさま視線を向けると其処には見知らぬ黒髪の少年が顔を伏いた状態で立っていたのである。
禍々しい怒りを含んだ空気を纏い、どしどしと足を踏み鳴らしながら部屋に入ってくる少年に炭治郎と善逸と伊之助は思わず恐怖で肩を寄せ合った。
そんな三人を見向きもせず、黒髪の少年は唯、真っ直ぐに畳の上に座る宇髄の前迄やって来るとピタリと足を止め、伏せていた顔を上げた。
「女装と次は男装させるとか、クソな趣味にも程があるでしょう」
伏せていた少年が顔を上げた瞬間に見えた、紅い瞳の見慣れた顔に炭治郎達は驚きで思わず声にならない声を上げた。
いつもの黒く長い髪を揺らしているのに、一変して少年の様に切り揃えられた黒髪。いつもは隊服を押し上げている胸は男の様に真っ平らになっている。
愛用している血濡れた様に紅く、白の彼岸花が描かれた羽織は纏うでは無く、肩に羽織っているだけの少年の様な紅の姿に炭治郎達は開いた口が塞がらず、宇髄は紅を指差して大声で笑っていた。
「べ、紅…そ、その格好は…」
「連れて行かれた部屋でいきなり脱がされたかと思うとサラシをくっっっっっっっそ力強く締め上げられた挙句、髪をぐいぐいとヅラの中に押し込められた結果の格好ですが」
なにか文句でもありますか?と無表情ながらにも苛々とした雰囲気を纏う紅に炭治郎は「い、いや何もないです!」と返事を返した。
「まぁまぁ、怒るな影っ子」
「怒ってません」
「わかった、わかった。取り敢えず、お前に男装させたのには理由がある」
宇髄は胡座をかいた片膝に肘をつき紅に視線を向けたまま言葉を続けた。
本人は気づいていないが紅は博打に強い。中でも特に花札は負け無しと言っても良いほど得意なのである。
宇髄は今回の任務に紅を連れて行くにあたり、其処に目をつけたのである。
吉原遊郭から少し離れた場所…裏通りと呼ばれる場所に多くの飲み屋に紛れる様にして賭博場が存在するのを宇髄は知っていた。
其処には飲み屋の金を求める者、純粋に博打を楽しむ者、そして肩入れする遊女に貢ぐ為に金を求める者などが集まるのである。
金と欲に塗れたその場所は情報の多く集まる場所である。だが、其処では何をするにしても博打に強く無いと話にならないのである。
情報を得るにしてもタダでは得られない。巨額の金か、もしくは博打に勝つかのどちらかのみなのである。
ならば、此処に博打に強い影っ子をぶち込もう!唯、女の格好のままぶち込んで何かあったら不死川にブチギレられそうなので一応男装をさせるか。っと云うのが今回の宇髄の考えだったのである。
「つまり、私は賭博場で金と情報を奪って来いと云うことですか?」
「つまりそう云うこった、紅緒(べにお)」
「紅緒ってなんですか?緒と男をかけてるんですか?その顔をぶん殴りますよ」
今にでも飛び掛かりそうな雰囲気の紅に炭治郎が思わず、紅の腕をそっと掴んだ。
そのことに気がついた紅は炭治郎の方へと目線を向けるとそのまま数秒、じっと炭治郎を見つめた。
「………まぁ、今回は我慢しましょう」
無表情のまま、ため息混じりで紅がポツリと呟いたかと思うと静かな声色のまま言葉を続けた。
そして炭治郎の顎に片手を伸ばすと紅は炭治郎の顎を白魚の指先でクイッと持ち上げた。
「もし、危なくなったら私が炭治郎くんを買い取るので安心してくださいね」
そう言って無表情のまま、再びスッと指先で炭治郎の唇に触れた。
炭治郎は紅の仕草と言葉に顔を真っ赤にさせ、そしてギュンッと変な音を奏でる心臓を思わず着物の上から両手で鷲掴みするかの様に握りしめると変な声を上げそうになるのを堪える為に唇を噛み締めた。
「ゔっっっ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
それでも口から漏れた炭治郎の声に紅は目をキョトンとさせ、善逸は再びジト目で二人を見つめていた。
善逸の横では暇そうに伊之助が畳の上でゴロゴロと転がっており、宇髄は紅と炭治郎を見て再び口を開いた。
「え、本当にアイツらデキてないの?」
宇髄の言葉に善逸は早く蝶屋敷に帰りたくなった。
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