ちりーん ちりーんと海風で揺れた風鈴を見上げながら紅は木陰に設置されたベンチの上で一人、棒アイスを頬張った。
七月が終わり八月に入ったことにより更に夏の気温は上がり、毎日ニュースでは熱中症警戒の話や今日は何人搬送されたなどが報じられている。
面倒臭いことに加えて暑さも嫌いな紅は、そのニュースを横目に夏休みの宿題を七月中に終わらせ八月はベーガリーのバイト以外では外には出ないぞと心に固く誓っていたのに何故か今、海に来ているのである。
??あれ?おかしいな?何故でしょうか?そう心の中で問いかけると数時間前の自分が嫌そうな顔をしながら心の中で答えた。
そう、それは今朝の話であった。
突然、同級生である竈門炭治郎とその家に住み着いている小さな守護神・ぽんじろうとぐまべに、別名:かまどベーガリーのバイトリーダーが紅の家を訪れたのである。
しかも訪れた時間帯は陽が出て間もない早朝。夏休み中、バイトの予定がある日以外は昼前にのそのそと起きると云うダラけた生活をおくっていた紅は母に叩き起こされ、寝ぼけ眼のまま炭治郎達の来訪に対応したのであった。
そして朝から元気いっぱいなぐまべにの小さな口から告げられた一言に紅の目はパチクリと目覚めたのである。
「ごしゅじん、ぐまといっしょにおやかたさまのおしりさんのうみのいえでおばいとさんするのですよ!」
「……学園長のケツの膿の家?」
「女の子がケツとか言わない!!あと、膿じゃなくて海だぞ!?」
あれ?昨日、紅のお母さんに連絡したんだが、聞いてなかったか?と炭治郎は不思議そうに首を傾げながらも理解が追いついていない紅に「学園長のお知り合いの方が経営してる海の家でバイトしないかって誘いに来たんだ」と分かりやすく説明をしてくれた。
母に伝えたと言う炭治郎の言葉に紅は顔を顰め、嫌な予感がするのをビシビシと感じながら己の背後を振り返ると其処には己の母がボストンバッグを片手に立っている姿が見えた。
母はニッコリと紅に笑うとボストンバッグを紅へと押し付け言い放った。
「夏休みだからってダラダラしてないでちょっとは人の役に立って来なさい」
実弥くん達も行くみたいだしご迷惑掛けちゃ駄目よ〜と言う母に紅は嵌められたのだとすぐに理解した。
そして、更に紅を逃さないようにと小さな守護神の片割れはぴょんっと紅の肩に飛びつき、もう片割れは小さな手で紅の寝巻きのズボンの裾を握った。
「べにちゃん!いっしょにがんばろう!」
「ごしゅじん、ぐまとうみであばんちゅーるするのですよ!」
「このおちびさん、意味を理解してその言葉を使ってます?」
「多分、意味は理解してないかなぁ」
こうやって紅は学園長のお知り合いが経営する海の家をお手伝いすることになったのである。
それからの行動は早かった。
あれよあれよと言う間に海の家へと連れて来られた紅は知った顔が沢山いる中、海の家で暑さに耐えながら働いていたのだが、等々紅の集中力が切れたのである。
お昼と云う山場を越えた時間帯だからか客はチラホラとは居るが其処までは忙しくない。 人手もそんなに必要に感じなくなった頃に紅はふらりと海の家の中から音もなく姿を消した。
自身の小遣いから支払い済みのアイスを片手に紅は海の家の建物の裏手に回ると休憩用になのか設置されていた木製のベンチの上に腰を下ろした。
建物の裏手だからか少し木陰になっており、太陽の光が当たらず海風だけが通り抜けて行き、軒先に吊るされた花火柄の風鈴が音を奏でる。
その音を聴きながら紅は手に持っていたアイスの袋を開けるとパクリと頬張り、此処に来た経緯について自問自答しながらぼーっとしていたのである。
サボり?違います、休憩です。まぁ、その休憩を自己判断でしてるだけなんですがね。なんて自分の心の中で会話しながら、きっとこの姿をぐまべにや幼馴染である不死川実弥に見つかると「ごしゅじん!おさぼりさんだめですよ!ぐまのめがまんまるなうちはゆるさないのですよ!」「何サボってやがるんだ、クソガキ!!」と尻尾ビンタか拳骨を喰らうかもしれないが、バレなければおーけーなのですよ、と心の中でダブルピースをしながら心配を捩じ伏せる。
そんなことを思いながら、ひやりと冷たいソーダ味のアイスを口に咥えながら風鈴の音に耳を傾けていると誰かの足音と共に「あっ!こんなところに居たのか!」と聴き馴染みのある優しい声が紅の耳に届いた。
紅は風鈴に向けていた視線を声の聞こえた方へと向けるとメカボンを持ち、店の前で呼び込みをしていたはずの炭治郎が瓶ラムネを片手にぴょこりと顔を出していたのである。
炭治郎はベンチに腰掛けながらアイスを頬張りサボる紅を見かけると仕方ないなぁと云うように笑いながら少しため息をついた。
「お疲れ様です、炭治郎くん」
「ありがとう。紅もお疲れ様、でも急に居なくなったからビックリしたぞ?まさか、こんなところに居たなんて…」
「あ、ずっとサボってたと思ってます?違いますよ、さっき来たところなんで」
「あはは、わかってるよ。ちょっと前までカナヲと作業していたのを見かけたから」
ニコニコと笑いながら炭治郎は紅の横に座ると慣れた手付きで瓶ラムネの封を開けた。
プシュッという音と共に蓋にハマっていたビー玉が押し出されて瓶の中でカランっと音を立てる。
炭治郎はその音を聴きながら夏の暑さで熱った体を冷やすようにごくごくと音を立てながらラムネを飲んだ。
動く喉仏を横目に紅も溶けかけていたアイスを齧り飲み込むと口の中に冷たさが広がる。
ラムネを飲む音。海風が鳴らす風鈴の音。仄かに香る炭治郎の服の柔軟剤か制汗剤の匂い。
そしてちょっとだけ熱を感じる距離感に紅は、ぼーっとした思考で思った。
——あ、うん、そうですね。——
「暑いのは嫌いですが……こう云う今の雰囲気は好きかもしれません」
突然ポツリと呟かれた紅の言葉に炭治郎は思わずラムネを飲んでいた手を止めた。カランとビー玉が瓶の中で揺れて音が鳴る。だが、炭治郎はそれを気にすることなく、静かに紅へと視線を向けた。
ぼぉーっとした表情で炭治郎を見つめる紅に一瞬炭治郎の胸が高鳴る。身体の中の熱が増したような感覚さえあったが、炭治郎はハッと我に返りそれを振り払うかの様に空いている片手でパタパタと自身の顔を煽ぐと炭治郎は突然呟かれた言葉の意味を紅へと聞こうとした。
だが、それはすぐにやめたのである。
それは何故だかは分からない。
ただ、炭治郎は何故か己がその言葉の意味を紅から聞くには今はまだ早いような気がしたのである。
まだ違う。まだ入るには底が浅すぎると何故か思ったのだ。
紅は言葉足らずのところがある。でも聞けばきちんと答えてくれるはずなのだ。だが、炭治郎は聞かなかった。
きっと聞けば何かが変わる。それが己か紅かは分からないがそう思ったのである。だからこそ少し怖さを感じたのかもしれない。
【こう云う今の雰囲気は好きかもしれません】そう感じた【彼女の今】を壊したくなかったからかもしれない。
それを本能的に感じ取ったのか、呟きの意味を尋ねることなく炭治郎は残りのラムネを飲み干すと静かに立ち上がった。
紅も同じように静かに座ったまま炭治郎を見上げ、お互いに視線が重なり合うと炭治郎は己の首に巻いていた緑色のタオルを紅の首へと掛けた。
「俺はもう行くよ。紅はもう少しゆっくりしててくれ」
そう優しく紅へと笑いかけると炭治郎は紅の首に掛けたタオルの端で紅の汗に濡れた額を拭くとその場を後にした。
また、ちりんと海風が風鈴を揺らした。
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「…ご丁寧にタオルに名前が書いてある」
紅は己の首に掛けられたタオルの端に可愛らしい丸文字で【かまど たんじろう】と書かれた文字を見ながらポツリと呟いた。
そして、そのタオルに書かれた文字を白い指先でなぞる様にして撫でる。
炭治郎にタオルを掛けられた直後からなんだかよく分からない感情が紅の心を擽っているのである。
コチョコチョコと云うかもぞもぞ。そんな感じの何かが胸の内側を擽るのである。
夏はまだ続き、手伝いもまだまだ続く。
紅はその嫌ではない感情を感じながら、紅がいないことに気がついたぐまべにとぽんじろうに見つけられるまでの間、また静かに風鈴の音へ耳を澄ませるかの様に目を瞑ったのだった。
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