鬼の兄と紅い華4
紅は静かに激怒した。
この目の前にいる理不尽極まりない我が師範に何かしらの復讐をせねばと決意したのである。
紅には『師範』と呼び、慕う男がいる。
その男の名は鬼殺隊・風柱 不死川実弥と言う。
顔が傷だらけの隊服の胸元をガッツリと開け、割れた腹筋を見せびらかす破廉恥助平柱である。
「人の話を聴いてんのかァ?こっち向けやァ、クソ餓鬼」
「あ、すみません。破廉恥助平柱からの理不尽な暴力で思考が他所に旅立っていました」
「手前、このまま片手で頭を鷲掴みしたまま頭蓋骨粉砕してやろうかァ?」
「あ、いたたたたたたたっ、素敵っ素敵ですっ、今日も筋肉仕上がってますねぇー(棒読み)」
「殺す」
♢♢♢♢♢
不死川実弥は激怒した。
この危機感がこれっぽっちも無い馬鹿弟子をどうにかせねば成らぬと決意した。
不死川は色恋沙汰がわからぬ。けれども人が弟子を思い「あの鬼には気をつけろ」と忠告したにも関わらず、人の話を全く持って聴いていなかった挙句『師範のお金で茄子の天ぷら蕎麦が食べたい』といつもの無表情で言ったこの馬鹿弟子を青筋を立てながら説教したにも関わらず、お館様公認の竈門兄妹の兄で鬼と化した竈門炭治郎から求婚されたと言うではないか。
しかも、その事を偶々、用事があり訪れた元音柱が住む屋敷で宇髄が「よぉ!不死川、お前ンとこの影っ子は厄介なのに目ぇ付けられたなァ‼」と言ったことから自身の馬鹿弟子が厄介な事に巻き込まれていると不死川は初めてこの時に知ったのであった。
【継子】と認めるには未だ、紅の事を知らない方が多く、時期柱と考えても経験も鬼殺隊を支えると言う覚悟も足りていないと不死川思っていた。
だが、稽古をつけるとどんなに厳しくても文句も弱音も吐かない紅を大切な弟子とは認めている。そんな馬鹿弟子が恋愛対象としてでは無いが不死川なりに可愛いとも思っており、だから厄介事に巻き込まれないようにと【鬼を連れた隊士には気をつけろ】と忠告したのだ。
それなのに目の前の馬鹿弟子は忠告した鬼を連れた隊士・竈門禰豆子と共に任務に向かったかと思うとまさかの竈門禰豆子の兄で鬼となってしまった竈門炭治郎に懐かれ、しかも先日、求婚までされたと言うではないか。
そんな大事な事を師範である不死川は知らず、ニヤニヤと笑う宇髄から聞かされた不死川は吐き出しそうになる怒りを自身の腹の中で頑張って抑えながらも自身の屋敷へと帰宅すると羊羹片手に本を読んでいた、我が馬鹿弟子である壱師紅へと詰め寄り、問い質した。
一方、馬鹿弟子である壱師紅は帰宅した途端、「其処に座り直せ、馬鹿弟子」と怒る自身の師範に「え、何ですか。怖い。私、何も悪いことしてません。理不尽な暴力はいけないんですよ」と相変わらずの無表情で師範である不死川に何かを察知した紅は抵抗するが、ゴチンと頭に拳骨が落ちて来た事により大人しく正座をしたのであった。
不死川は何処ぞの輩の様に正座をする紅の前に蹲み込み「テメェ、俺が忠告したにも関わらず、鬼を連れた隊士とその兄と接触した挙句に誑し込み、懐かれたかと思えば鬼の方から求婚されたらしいじゃねぇかァ」と睨みつけると紅は「あー、その事ですか…」と無表情ながら面倒臭そうな表情を見せ、不死川は紅の態度に「何でその事を俺に報告しねぇんだよ‼‼」と叱ると「師範に言ったら更に師範の眉間の皺が増えちゃうじゃないですか。そうなったら玄弥くんが可哀想だし正直、言うのが面倒くさかったので言いませんでした」と無表情のまま悪びれた様子も見せないその姿は更に不死川の怒りを募らせるには充分であった。
人が怒っているにも関わらず、己の事を「理不尽な破廉恥助平柱」などと言い出した紅の頭をグリグリとお仕置きをし終えた不死川は紅の首根っこを掴むとその体を引き摺りながらとある場所へと向かった。
途中、「師範、引き摺るのやめて下さい。砂利道と段差は流石に痛いです。痛たたたたたたたたっ」と痛がる紅の声がしたが不死川は聞こえない振りをして足を進めたのであった。
♢♢♢♢♢
胡蝶しのぶは目の前の光景にいつもの笑みを崩し、溜息を吐くことした出来なかった。
其れは数分前の出来事だった。
己の管理する蝶屋敷の一室にて薬の調合を終えたしのぶは少し休憩をしようと手を止めた。
屋敷に篭り切りになるのもいけないと思い、気分転換に縁側で暖かな日差しにでも当たろうかと縁側へと向かい、腰掛けていた時であった。
しのぶが寛ぐ蝶屋敷の縁側に何処からともなく同僚である風柱・不死川実弥が弟子である壱師紅をずりずりと引き摺りながら現れ、しかも同僚である不死川は、いつもに増して眉間の皺が深く刻まれており、肌に刺さりそうな程の怒りと殺気を放っていた。
そんな不死川の様子を横目にしのぶはチラリと不死川に首根っこを掴まれ引き摺られて来た紅に視線を向けると紅もいつもと変わりなく、なにを考えているか分からない無表情でしのぶを見ており、目が合うと紅は「こんにちは、蟲柱様。うちのしは…助平柱がすみません」と挨拶をしたかと思うと首根っこを掴んでいた不死川の手が離れ、その手が拳に変わり紅の頭へと拳骨となって振り下ろされた。
「誰が助平柱だ。クソ餓鬼」
「理不尽な暴力、此れが流行りの闇社会ですか」
「もう一発食らっとくかァ?」
「貴方達は一体、何をしに来たんですか?」
師弟喧嘩をする為に態々、蝶屋敷を訪れたのだろうか?それなら今直ぐに帰れ。しのぶは、そう言葉を含ませながらにっこりと笑みを浮かべながら目の前の二人に問い掛けると二人はピタリと会話を止め、不死川がギロリとしのぶを睨みつける様な表情を見せた。
「胡蝶、テメェん所にあの鬼が居んだろォ、今すぐ連れて来い。ぶっ殺す‼」
鬼と言う言葉にしのぶは、一人の赫灼色を持つ少年の姿が脳裏に浮かんだ。
そして、今この場にいる紅の姿と不死川の口から出た鬼の存在がしのぶの中で結びつき、しのぶは「そう言う事ですか」と小さく呟いた。
「駄目ですよ、不死川さん。お館様にも言われたでしょう。炭治郎くんに手出しはしてはいけないと」
笑みを浮かべながら小さい子を注意する様に柔らかな口調で不死川にしのぶは声を掛けるが不死川は不機嫌そうにチッと舌打ちをして「良いから此処に連れて来い」と一向に引く気はない様に見えた。
「不死川さんは何をそんなに怒っていらっしゃるんです?」
きちんと理由を聞かなければ、炭治郎くんは差し出せませんよ。と言うしのぶに不死川は自身の苛々が増すのが分かった。次いでに横で「あ、蝶々」とよそ見をして完全に自分は関係無いと言う顔をし始めた馬鹿弟子にも苛々が増すのをグッと耐えながら不死川はしのぶの問いに答えようと口を開いた。
「身の程知らずの鬼がうちの馬鹿弟子に求婚したって言うじゃねェかァ」
不死川の口から紡がれた言葉に横に居た紅は少し気まずそうな顔を見せ、しのぶは笑みを絶やす事はなかった。
「良いじゃないですか。恋愛は自由だと私は思いますよ。其れに炭治郎くんは鬼ですが、良い子ですよ。真っ直ぐで優しい、お手伝いもしてくれる働き者の良い子です」
私は壱師さんにお似合いだと思いますけどねぇ。と微笑むしのぶに不死川の眉間の皺は更に深くなり、隣に居た紅は『あ、いなご』と蹲み込んだまま地面を見つめ、呟いた言葉に等々、不死川の堪忍袋の緒が切れた。
紅の頭の左右の米神に拳をグリグリと押しつけたかと思うとそのまま再び拳骨を落とし、バッとしのぶに向き直ると声を荒げた。
「良い子とかそんなのは理由にならねェ‼良い子?優しい?ハッ、信用出来ねェなァ‼人間様だったら信用出来たかも知れねぇが、彼奴は鬼だ。鬼は信用出来ねェな‼鬼は狡賢い生きモンだァ‼求婚や何やでこの馬鹿を油断させて己の懐に堕ちてきたのを喰らい尽くす罠かも知んねェだろーがァ‼」
――罠かも知れねェのに大事な弟子をホイホイと差出せる程、俺は冷徹な人間じゃ無えンだよ。
怒りの表情を見せながらもぶっきら棒に自身の弟子を心配する言葉を言う不死川にしのぶは呆気に取られたかの様にキョトンとした表情を見せた。
不死川実弥は鬼殺隊の中でも飛び抜けて鬼に対して強い憎悪を持っていた。
其れは彼の生きて来た境遇にその憎悪を生み出したのであろう。
母を鬼にされ、家族を失い、母を助けることも出来ず、唯一残った弟である玄弥からも冷たい言葉を投げつけられ、鬼殺隊としての道を示してくれた友人さえも不死川は失い、【鬼】と言う存在が不死川の人生を捻じ曲げたのである。
幾ら、お館様に認められたと言え、炭治郎が鬼である事に変わりは無く、そんな憎き鬼が大切な己の弟子である紅に手を出そうとしているのが不死川は気に食わなかった。
紅は普通の人とはズレている。ズレている上に細かいところに拘らない面倒くさがり屋なのだ。自身が面倒くさいと思えば流されてしまうところもあり、末っ子気質であることも含め、また、紅は女の子である。例え、好みの男で無かったとしても好意を寄せられると言うことに喜びを感じ、注意や警戒心が薄れる可能性だってある。
恋に現を抜かす様な性格では無いだろうと思いながらもそんな事までをも考えてしまった不死川は自身の弟子が心配で仕方がなかったのだ。
「……不死川さんは案外、弟子思いだったんですね」
ポツリと呟くしのぶに不死川の横で蹲み込んでいた紅は無表情のまま、ゆっくりと唇を開いた。
「私、師範のそう云う、変に優しいところ好きですよ。顔は怖くて胸元破廉恥ですけど」
「クソ餓鬼。次、変なこと言ったら口捻るからなァ」
良い雰囲気が流れていたのをズレた感覚を持つ壱師紅は余計な一言で空気を破壊した。
不死川は思わず、ガッと紅の頭を鷲掴みにするとギリギリと力を込めながら自身の口元と顳顬を怒りでヒクヒクとひくつかせた。
「痛たたた。師範、私のことは大丈夫ですよ。炭治郎くんに求婚された後、よく考えたんです」
紅は静かに話しながら己の頭を鷲掴みにする不死川の手をゆっくりと剥がした。
どんな時も変わることのない無表情と太陽の光で輝く紅い鮮血を思わせる様な紅の瞳を不死川としのぶは静かに見つめていた。紅は二人の視線を気にすることなく、言葉を続けた。
「実は【好きだ】とか【愛してる】とか【結婚してくれ】と炭治郎くんから言われて正直、如何返事をすれば良いのか分からず戸惑っていました」
これ程迄の重くて大きい愛情を向けられた事が初めてでどうすれば良いのか紅には分からなかった。
初めての愛に戸惑い混乱している。だが、炭治郎のことは嫌いでも無いし、でも好きだ、愛していると口に出すには何かが足りないと紅は思っていた。
答えを自分から先延ばしにしてもらい、考え抜いたのだが、矢張りきちんとハッキリとした答えを未だ出せない紅は炭治郎の事を考えるうちにひとつの事が頭を過った。
鬼は鬼になる前…つまり鬼となった人間は人間であった時の事を忘れてしまうことの方が多い。其れは家族だったり恋人だったりと大切な人との思い出を忘れてしまうのだ。そして、大切な事を忘れてしまった鬼は唯、人を喰らう虚しい化け物に成り果てる。
そのことが紅の脳裏を過ったのだ。
――ならば、鬼が人に戻れた時、如何なるのか?――
鬼になった人が記憶を忘れるので有れば、鬼から人に戻った時、鬼であった記憶を忘れるのではないのか?と紅は思った。
人を喰らわない鬼など紅も他の鬼殺隊の隊士だって炭治郎以外に出会った事がない。況してや鬼から人に戻った例なんて一度も耳にした事などないのだ。
ならば、覚えていると言う確実な保証は無いに等しいではないかっと紅は考えたのだ。
「求婚されたとき…あの時は咄嗟に無惨を倒して人に戻ったら返事をすると炭治郎くんに言ってしまったけど」
戸惑い混乱する紅の中で出た、その考えを口にした。
「炭治郎くんが人間に戻ったら鬼だった時の記憶は消えると思うんです。求婚してきた事も全部、綺麗さっぱりと溶けて消えて無くなりますよ、きっと」
――だから、私の事は大丈夫ですよ。
「如何せ、今だけですよ」
何処か静かに冷ややかな声で紡がれた言葉に不死川としのぶは何も言葉に出来なかった。
紅とて女の子だ。
炭治郎から己を求められ、無表情ながらにも内心照れた。考えれば考えるほど自身の頬が熱を帯び、赫灼の瞳を思い出す度に少し胸が締め付けられる様な気もした。
だが、考えていた最中に鬼の事について色々と思う事があり、そしてひとつの考えにより暖かった心が一気にひんやりと冷たくなってしまったのだ。
今だけ。人に戻れば如何せ忘れる。もしくは、覚えていたとしてもこんな可愛げも無い、鬼殺隊の中でも幽霊なんて呼ばれている影の薄い女に言い寄っていたことを優しい暖かな日輪の様な炭治郎だって後悔する筈だ。
今だけ、なのだ。精神が幼児退行しているから良いものと悪いもの、愛でても良いもの愛でなくてもいいもの、関わっても良いもの関わらなくても良いものの区別がついていない、ただそれだけなのだ。
だから、与えられた言葉を深く考え無くても良い。
鬼舞辻無惨を倒せば、全て消えるのだ。
これが壱師紅が考えた、答えでもあり炭治郎から向けられる愛への【逃げ道】だった。
だから、大丈夫だ。といつも通りの無表情で、だけど何処か寂しそうに儚げで冷たい表情の弟子の姿を不死川は初めて目にした。
いつもは、ぽけーっと惚けたような無表情でいる紅。だが、今の紅の表情などしのぶも師範である不死川も知らない。
いつもの無表情で居られない程、もしかしたら竈門炭治郎と言う存在は壱師紅の中で気づかぬうちに大きな存在になっていたのではないか。と不死川は思ったが口には出さず、静かに胸の奥に仕舞い込んだ。
「ね、だから大丈夫です。屋敷に帰りましょう、師範」
あ、でも帰りに師範のお金で羊羹が食べたいです。と一瞬にして冷たく儚げな無表情は形を潜め、いつも通りの惚けたような無表情の紅へと戻ったかと思うといつも首元に巻いている襟巻きを少し口元まで上げ、己の師範である不死川に自身の好物である羊羹を強請った。
早く、この微妙な空気になってしまった蝶屋敷から出たい。早く帰りたい、それが今の紅の一番の気持ちであった。
そんな紅の気持ちを察知したのか、師範である不死川はハァ…と呆れたように溜息を吐き、再び、今度は軽くだが紅の額を拳で突いた。
痛いと呟き、片手で額を押さえる紅にしのぶは、ゆっくりと口を開いた。
「紅さんは炭治郎くんのこと、お嫌いですか?」
突然のしのぶからの問い掛けに紅はキョトンとした表情を見せたが問い掛けに返事をするは無かった。
「紅さん、人の想いと云うものは時として奇跡を起こすことだってあります。今回、鬼である炭治郎くんが日の光を克服したのだって禰豆子さんへの想いと…」
――貴女と暖かい陽の下を歩きたい、想いを自分の口から伝えたいと思ったからだと思います。
「貴女への想いで長年の弱点である日の光を克服した彼の想いを甘く見ちゃダメですよ」
自分が痛い目に会っちゃいますよ。とふわりと優しく微笑むしのぶに紅と不死川は息を呑み、見惚れているとしのぶは不死川と紅から視線を逸らし、ある一点に視線を向けた。
紅と不死川もしのぶの視線を辿るようにしのぶの目線の先へと視線を向けると二人は驚いた様に静かに目を見開いた。
三人の目線の先には、赫灼の髪と花札の様な耳飾りを風に揺らした、鬼である竈門炭治郎が日の当たる縁側へと続く廊下の真ん中に立っていたのである。
音も無く現れた炭治郎に微笑むしのぶと目を丸くさせる不死川と紅に対し、炭治郎はむんっと怒った様な不機嫌そうな表情を見せており、その赫灼の瞳はジトーっと一直線に紅を見つめていた。
炭治郎の瞳が獲物を逃がさないと言いたげに射抜く様に自身に向けられていることに素早く気がついた紅は無表情のままスッと不死川の背に隠れ、熱い炭治郎からの視線から逃れようと抵抗したがフワッと風が不死川の横を通り抜けたかと思うと気がついた時には炭治郎が不死川としのぶの視界から消えており、紅の「わっ…」と驚く様な声が不死川の少し離れた背後から聞こえ、しのぶと不死川は視線を声の聞こえた方へと向けた。
その視線の先には紅が炭治郎に抱きしめられている光景だった。
一瞬、紅は何があったのかが状況を飲み込めず、固まっていたがハッと自身を見つめる赫灼の瞳がかなり近い事に気がつき、離れようと抵抗するかの様に炭治郎の胸元に両手をついたが、炭治郎の紅を逃がさないとする力は強く、早々と抵抗を諦め、炭治郎の名を呼び挨拶をした。
「炭治郎くん、こんにちは」
「…………」
紅が挨拶をしてもいつもの幸せそうな日輪の様な温かな笑みは無く、むんっと口は閉ざされたままであった。
紅は、あぁ、めんどくさい事になりそうだ。と思いながらも炭治郎の名を再び呼ぶと炭治郎はゆっくりと不機嫌そうに閉じていた唇を開いた。
「おれ、べにがすき、っていった。あ、い、してるって、いった」
「⁉⁉⁉⁉」
「んだどゴラァ‼」
「ちょっと不死川さんは静かにしてください、良いところなんですから」
炭治郎から告げられた言葉に紅は内心焦り、不死川は顳顬をピクピクと動かし今にでも炭治郎に殴りかかりそうになり、その行動を止めるようにしのぶが素早く不死川に声を掛けたかと思うと横腹に拳で突きを入れた。
うぐっと声を上げる不死川にしのぶは、笑みを浮かべながら目の前の微笑ましい二人へと視線を戻した。
「お、よめさんに、なって、っていった!べ、に、かんがえ、るっていった‼」
「えっとその…炭治郎くん、一回落ち着きましょう。ね?」
炭治郎に抱えられたまま、助けを求める様にしのぶと己の師範に紅は視線を向けるがしのぶは笑みを浮かべるだけで助けてはくれず、己の師範である不死川は痛みで突かれた腹を押さえながら片膝をついていた。
え、師範、弟子がこんなに危機に陥ってるのになんで先に離脱してるんですか。ちくしょー、胸元の破廉恥柱め。と心の中で己の師範に悪態をついていると更にムッとした炭治郎が「こっち、みるんだ‼」と紅を叱ったことで紅は再び、炭治郎へと目線を戻した。
♢♢♢♢♢
炭治郎は静かに激怒していた。今すぐ己の中でぐつぐつと煮詰まる感情を吐き出したくて仕方がなかった。
だが、自分は長男‼長男だから我慢‼と己に言い聞かせた。
蝶屋敷で任務で負傷した禰豆子が治療中と言う事もあり、暇を持て余していた炭治郎は暖かな日の光に照らされながら蝶屋敷内をウロウロとしたり、お手伝いをしたりなどして過ごしていた。
お昼を過ぎた頃には炭治郎のお手伝いする事もなくなり己が好意を寄せている、大好きな紅の瞳と同じ色のビー玉を太陽の光に翳しながら禰豆子のいる部屋へと戻ろうと廊下を歩いていた時だった。
廊下の曲がり角の少し手前からしのぶの匂いとあまり好きでは無い人の匂いがしたのである。
それは初めてお館様の前に連れて来られた際に己が入っている箱に刀を何度も刺して来た挙句、大切な妹である禰豆子を泣かせ、悲しませた男の匂いだと炭治郎は瞬時に理解した。
無意識に顔が顰めっ面になるのが炭治郎自身でも分かったが、この角の廊下を通らないと禰豆子の元へと帰れないと知っていた炭治郎はビー玉を大切に己の懐に仕舞い込むと様子を伺うようにして角から顔をぴょこっと出した。
そして聞こえてきた苦手な男の声としのぶの声に混じり、己の好意を寄せる相手である紅の声が炭治郎の耳に届き、炭治郎は顔を輝かせながら紅の元へと足を向けたのだが…。
聞こえてきた紅の言葉に炭治郎はピタリと足を止めた。
「炭治郎くんが人間に戻ったら鬼だった時の記憶は消えると思うんです。求婚してきた事も全部、綺麗さっぱりと溶けて消えて無くなりますよ、きっと」
はくっと息だけが炭治郎の口から溢れた。
「如何せ、今だけですよ」
かのじょは、いったい、なにをいっているのだろうか。
紅は普段から感情の匂いや音がしない。
それは体質と使用する呼吸によるものである。その為、炭治郎は紅が今、どの様な気持ちであるのかを察することが出来ない。だが、紅の声で告げられた言葉を理解した炭治郎は己の胸の奥がカッと熱くなった気がした。
紅が居るとわかり、ドキドキとしていた心はシンッと静まり返り、ぐつぐつと何かが煮えたぎる黒い感情の匂いが自分から発せられる。
何かを紅と苦手な男としのぶが話しているが炭治郎の耳には届かず、気づいた時には廊下の真ん中に立っており、三人の目線は炭治郎に集まっていたが炭治郎は唯、紅い瞳の少女一人だけを見つめていた。
そして不死川の後ろに隠れた紅に炭治郎の怒りは爆発したのだ。
炭治郎は紅を抱え、不死川から少し離れると己から逃がさないように抱き上げた。
紅い綺麗な瞳が見開かれ今にも零れ落ちそうだが、今はそんな事を気にしている余裕が炭治郎には無かった。
言ったのだ。きちんと己は言ったのだ。
紅が好きだと大好きだと、愛していると…お嫁さんになって、ずっと側にいてとずっと言葉にして伝えたかった事を言ったのだ。
それなのに紅は何と言った?今だけ?人に戻れば全て忘れる?だから大丈夫だと?
目の前で戸惑い、己の腕の中で息を潜める少女は、そう言ったのだ。
あの時、紅は炭治郎に言った。
人間になったら返事をすると言ったのだ。
「だから、時間をください」と無表情ながらにも頬を赤く染め、何処か落ち着きのない視線で炭治郎を見つめながら言ったのだ。
それなのに何だ。時間を与えた結果が【人に戻れば全てを忘れる】と決めつけ、己の紅への想いを【否定する】と言う答えだ言うのなら…炭治郎は紅を許せなかった。
「おれは、べ、べにが、す、きだ‼‼あいし、てる‼‼」
あかいめもしろいはだもくろいかみもかわいいこえもぜんぶ、ぜんぶ、だいすきだ‼あいしてる‼‼だから…だから‼‼
「ちゃんと、しんけんにかんがえてくれ‼」
そんな、こたえなんておれは、みとめないぞ‼‼
「た、炭治郎くん…?」
真剣に考えてくれ‼と言った後、静かに顔を伏せてしまった炭治郎に紅は少し心配になり、静かに炭治郎の名を呼ぶと炭治郎は紅を抱きしめたまま、ふるふると小さく肩を震わせながらゆっくりと顔を上げたのだが、大きな赫灼の瞳は悲しみで歪んでおり、ぽろぽろと涙が溢れているではないか。
突然の炭治郎の涙に戸惑い紅は無表情ながらにも困ったような表情を見せた。
炭治郎の涙を指先で拭う様に紅が炭治郎の頬に恐る恐る触れると炭治郎は、すりっと紅の手に擦り寄り、紅を見つめながら唇を薄く開き、哀願するかのように言った。
「おれの、おも、いを…なか、ったことに…しないで…っ」
おねがいだ、べに…
「…っ」
涙を流しながら紅の顔に己の顔を近づける炭治郎に紅は何も言えず、くっと息を飲むことしか出来なかった。
まさか、自身の考えが聞かれていたなんて紅は思わなかったのだ。
前回の告白から沢山、考えて悩んだ結果に出した逃げ道の答えだったのに今、その逃げ道は炭治郎の手により塞がれそうになっている事に紅は気づき、如何すれば良いのか混乱していた。
鬼だから忘れるから大丈夫だと己に言い聞かせていたのに炭治郎の涙に少し揺らいでしまっている自分が居るのを紅は分かっていた。
面倒くさがりでもある紅は、このまま流されてしまっても良いのではないか?なども考えた。でも、本当に人間に戻った時に炭治郎は今までの事を覚えているのか何て確実では無いのだ。
そうなれば、自分も今、この状態を招いた元凶である炭治郎だって後々、困り悲しむ運命しか訪れない。
だから、簡単に信じることなんて出来ない。
簡単に答えなんて出せないのだ。
でも、炭治郎のどろどろと砂糖を煮詰めた様な感情が篭った瞳で見つめられるのは嫌では無い事に気がついてしまった自分が居ると言うことを今、紅は知った。
近く赫灼の瞳から目が逸らせない。
顔に触れる吐息に紅のふるりと身体が震える。
「べに、おれは、ぜったいに、きみをわすれない。き、みをあいしつづける」
にんげんにもどっても、ぜったいだ。
「たん、じ、ろう、く、ん…」
――だから、もう、おれからにげるのは、あきらめてくれ
そう炭治郎が呟いた瞬間、炭治郎の唇が紅の唇に触れようとした。
のだが…
「させるかァァァァァァァッ‼‼‼」
ブンッと言う音と共に炭治郎の腕の中から紅の姿が忽然と消えたのである。
突然のことに驚き、炭治郎と炭治郎と紅の姿を静かに笑みを浮かべながら見守っていたしのぶは目を見開き、ポカーンと口を開けたまま立ち尽くしていた。
数秒後、少し離れたところから「馬鹿娘‼‼テメェは何で抵抗しねェんだよ‼‼馬鹿かァ⁉あぁん⁉⁉」と不死川の怒りの声が聞こえ、炭治郎としのぶは声の聞こえる方へと視線を向けた。
するとそこには、師範である不死川に頭蓋骨固めをされている紅と言う光景が広がっており、怒る不死川に対し紅は無表情のまま「師範、師範、痛いです。後、頬に胸元の温もりが直に…気持ち悪い…」と自身の頭蓋骨を締める不死川の手をバシバシと叩いていた。
「テメェは‼‼この、馬鹿がァ‼‼鬼に隙を見せるから、そんな事になんだよ‼‼‼」
「あぁぁぁぁぁ、温もりが気持ち悪いぃ…」
「んだとォ‼⁉クソ餓鬼‼‼殺す‼‼」
唖然とするしのぶに対し、炭治郎は素早く我に帰ると直ぐ様、不死川と紅の元へと走り「べにに、らんぼうは、や、める、んだ‼」と紅の頭に回っている不死川の腕を引き離そうと不死川の羽織を掴み、ぐいぐいと引っ張った。
「うるせぇぞ‼‼鬼風情がうちの馬鹿娘に手を出すたァ良い度胸じゃねェかァ‼‼」
「‼む、すめ…⁉」
ハッと不死川の言葉に驚いたように炭治郎は目を見開くと少し、考えるような表情を見せた後、不死川の目を真剣な表情で見つめながら大きく息を吸い込んだ。
「べ、にを‼‼おれの‼‼およ、め、さんに‼‼ください‼‼‼」
「今、何でその言葉を俺に言いやがるんだァ⁉馬鹿かお前はァ‼‼」
不死川の言った馬鹿娘と言う言葉に炭治郎の中では、紅は風柱と住んでいると前に言っていた→この人、紅を(馬鹿が付くが)娘と言っていた→ハッ⁉なら、きちんと結婚の挨拶をしないと‼と言う考えが過り、不死川に「娘さんを僕にください」と挨拶をしたつもりであった。
だが、突然、今の場に合わない言葉を告げられた不死川は怒ることしか出来ず、炭治郎は不思議そうに首を傾げた。
「??ぜったいに、し、あわせ、に‼し、ます‼‼」
「鬼‼人の話を聞きやがれェ‼‼」
相変わらず、紅に頭蓋骨固めをしたまま炭治郎に声を荒げる不死川に紅は静かに表情を変えること無く「頭と耳が痛いです。早く離してください」と訴えるが、不死川と炭治郎の二人には届かず、しのぶだけがくすくすと楽しげに三人の光景を見つめるばかりであった。
「ね、紅さん。想いを甘く見てたら大変なことになりますよ」
――貴女も難しい事を考えずに全てを委ねてしまえば楽なのに。
そう、しのぶが呟いていたのを紅と炭治郎と不死川は知らないのであった。
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