01
働かざるもの食うべからず

じめじめとした湿気が鬱陶しい。梅雨の時期だから、仕方がないとは思いつつも、肌がべとべとしているのを確認すると、やはり、早く梅雨がどこかに行ってくれないかな、と思ってしまう。廊下の板間を踏むと不快な感覚がする。もういっそのこと、板間から水が湧き出してくれれば、湿気の鬱陶しさも、足裏から伝わる不快感も、少しはマシになりそうな気がする。

そんなどんよりとした空気も相まって、洗面台の鏡を見ては、少し太った自分の顔に対して溜息が出た。びっくりするほど、無意識に出てしまったので、慌てて口を引き締める。

「うおーい。名前ちゃーん。」

そんなあたしをよそに、リビングの方で、万年金欠甲斐性なしのロクデナシ暇人があたしを呼んでいる。ハイハイ、と適当に返事をしながら、水分をたっぷり含んだ板間の廊下をまた戻って、リビングに向かう。まったく、こんな仕事も無い暇な一日を、どれだけ積み重ねていくことになるんだろう。あたしの人生は、これの積み重ねで終わってしまうのだろうか。考え出したら、今後の人生がとてつもなく怖くなってしまったので、最近では、そのことについて考えないことに決めていた。また少し考えてしまいそうになった自分を、心の中で叱咤しながら、リビングの扉を開ける。

「何でしょうか、銀さん。」
「“はい”は、一回でしょ。銀さんは名前をそんな子に育てた覚えはありません。」
「名前は銀さんに育てられた覚えはありません。」
「そうか。名前もついに反抗期になったか。」
「反抗期になったの誰のせいだと思ってるんですか。」

死んだ魚の目をした銀さんは、相変わらずの銀さんで、リビングのソファに深く腰掛けて、ぺらぺらと言葉を発する。
要件は結局何なんだ、とあたしが詰め寄ると、心なしか姿勢を正して、けれど、死んだ魚の目はそのままに、またぺらぺらと話し始めた。

「いやぁ、最近さ、考えてたんだよ。名前って、ここの従業員なのにさ、何か毎日毎日主婦みたいな雑用ばっかやってんだろ?ろくに給料もあげれてねぇし、なのに、毎日毎日文句も言わずに家事炊事洗濯、その他全般、やってくれてさァ……」
「銀さん……?」
「あー、アレだよ、アレ。あの、あり、ありが」
「ありが……?」
「……蟻が湧いてきてんだけど、あの“蟻さんポイポイ”的なヤツ買ってきてくんね?」

あ、り、?

あたしの脳はそこで強制シャットダウンしたのだった。











「そりゃ、あの人なりの照れ隠しなんじゃねーかィ。」
「何それ照れ隠しって。ありがとうって言おうとしたけど、恥ずかしくて言えなかったって?ふざけんじゃないわよ。何で蟻さんポイポイだけ買いに行かなきゃいけないのよ。」
「で?蟻さんポイポイは買ったんで?」
「蟻さんポイポイは買ったよ。偉いよねー。あたしってなんて偉い子。」

手提げのビニール袋を目線の高さに掲げて、隣に座る総悟に見せつける。すると、総悟は、むしゃむしゃとリスのように団子を口に頬張りながら、どうでも良さげにちらりと目線をやって、それからまた団子に目線を戻した。
「ああ、そうですよね。どうでもいいよね。こんな話。いや、聞いてほしいだけだから、何も言ってくれなくてもいいんだけどさ。」
「んあ?いいんだけど、なんでィ。俺に楯突こうってんじゃねーだろうなァ。」
「いえ。滅相もございません。」

総悟の言いなりになるのは気が引けたが、なにぶん、この間の高杉に拉致された一件で、真選組を始め、特に総悟には借りを作ってしまった。
この団子屋だって、その件のお礼も兼ねて、あたしの奢りということで付き合ってもらっている。ここの団子は本当に美味しくて、昔ながらの懐かしいみたらし団子を売りにしていて、新しいお店にも負けず劣らず結構繁盛している。だからか、お昼過ぎのこの時間でも満席で、外に設置された縁台に、あたしたちは二人並んで仲良く座っていた。

「まあ、この団子が美味ェから許してやらァ。」
「ん。なにそれ。でも本当美味しいよね。ここのお団子。当たりだわ。」
「また奢れよ。」
「相変わらず横暴ですねぇ。総悟さんは。」

などと、むしゃむしゃ団子を頬張りながら、他愛もない話をしていれば、ふいに正面から覆い被さるように人影が降って来る気配が。あたしは咄嗟にそれを避けた。

「な、なんか、今降ってきたよね?」

降ってきたそれは、あたしたちが座る縁台を見事に飛び越え、お店の壁に思い切りぶつかった。交通事故レベルの大きな音と衝撃に、団子屋の娘さんがびっくりして声にならない悲鳴を上げ、お客さんのお爺さんが腰を抜かしていた。アレを咄嗟に避けていなかったら、あたしもこの交通事故レベルの惨事に巻き込まれるところだった。危ない危ない。
良かったぁ、と呑気なあたしよりも、さらに呑気な総悟は、何事もなかったかのように、団子を貪っている。

「雨かねィ?予報では降らねェはずなんだけどなぁー。」

なんて、湿気を含んだ空を見上げて、これまた呑気に言うものだから、さすがに呆れてしまう。

「雨、ではないかな……。あっ、起きた!ねえ、アレって……」
「んあ?なんでィ、引っ張んな。団子落とすだろィ……。あ、野生のゴリラじゃねーか。珍しいなァおい。写真撮っとけ。」
「うん、解った。携帯…………って違あぁぁぁう!!アレ、アンタのとこの大将でしょ!!?」

よく見ればそうかも、と未だに呑気な総悟に、さすがのあたしもゴリラさんに同情した。しかし、あの衝撃でぶっ飛んできたにも関わらず、ゴリラさんの身体には特に目立った怪我や傷が見えない。ある意味凄い。大方、お妙さんに飛ばされたんだろうと、あたしは予想したが、ストーカーの生命力は本当にゴキブリ並みに凄い。蟻さんポイポイじゃなくて、ゴキブリポイポイを買うべきだったか。

「じゃなくて!またこっち来る!!!」

ゴキブリ並みに生命力のあるストーカーゴリラが、あたしが標的ではないとはいえ、此方に向かって走ってこようとしている。あたしは慌てて、隣の総悟に助けを求めた。すると、それまで呑気に団子を食べていた総悟が、団子を食べ終えたのか、空になった串を置いた。その手でそのままあたしの腕を強い力で引っ張ると、あたしの視界はぐわんと一回転したように回った。反射的にきゅっと目を瞑る。身体の上を何かが通り過ぎてゆく感覚。
暫くして、目を開ける。咄嗟に総悟の腕を握ってしまっていた。さらには彼の膝の上にあたしが飛び込んでいる態勢になっている。

「……あ、ごめ、」

謝罪をしようと恐る恐る顔だけを上げるが、そこには、あたしの予想を覆し、不気味なほどに綺麗な笑顔があった。

「いいんでさァ。名前に怪我が無かっただけで。」
「……え…………」

違和感しかない。
普通なら、重てェな雌ブタ、くらい言われてもおかしくない。いや、総悟なら絶対そのセリフを吐くだろう。なのにだ。笑顔?先ほどのストーカーゴリラよりも、総悟のらしくないセリフよりも、何よりも、その貼り付けたような笑顔が怖い。
女でも見惚れてしまう綺麗に整った顔。嘘の言葉だと解ってはいても、綺麗な顔で優しい言葉を掛けられたら、あたしだって、少しは心もときめくというものだ。

「あ、あの、」

まるで割れ物を扱うような丁寧さで、総悟はあたしの上半身を起こす。うまく言葉を返せなくて、されるがままにしていると、今度は何故か頭の後ろに手を回されて、総悟の胸に顔を埋める形になってしまった。
ここまでくると、冷静に考え始めて、彼はもしかしてあたしをからかっているのでは、とも思ったが、初めて会った時のように悪戯な笑みを携えているわけでもないし、総悟のことを何も知らない人が見れば、本当に好青年のような誠実な顔をしている。

「ちょっと、総悟。ど、どうしたの。ねえってば。」
「うるせェ。」
「え……?」
「静かにしてろィ。」

暗い視界の中で、上から降ってくる低い声。ああ、これはいつもの総悟の声だ。少しだけ安堵している自分が可笑しい。でも、なら何故、総悟はこんならしくない行動をとっているのか。あたしには毛頭解らない。ちっぽけな頭を使って、考えても考えてもやっぱり解らないので、言われた通りにじっとしていると、今度は総悟以外の声が聞こえてきた。

「白昼堂々サボりたァ、良い度胸してんじゃねェか、沖田。」
「サボりじゃねェ。見て解らねーんですかィ、土方さん。デートでさァ。」
「ほおう。お前も一丁前にデートか。だが残念だったなァ。街中で抱き合ってイチャコラしてるカップルは、早く別れるって相場は決まってんだよ。つーか、デートもサボりだコラ。」

真選組、鬼の副長こと、土方さんだ。
あいにく、どうやら土方さんは、総悟に抱かれているのがあたしだとは気づいていないらしい。
早く気づいて土方さん!そして、あたしを解放して!
あたしの胸中の叫びも虚しく、土方さんは相変わらず総悟に説教をたれるだけ。何しろ、胸に抱かれているというより、締められていると言った方が正解だろう、という具合に、きつくきつくホールドされているのだ。声が出せないどころか、これでは息も吸えない。
拳を作って総悟の胸を叩いてみた。ビクともしない。手を開いて総悟の胸を押してみた。ビクともしない。身体全体を使って訴えかけてみた。少しだけ揺れたが、まだ息は吸えない。

「オイ総悟。その女、大丈夫か?なんか、暴れてるぞ。」
「ああ。こいつァ、見られるとちょいと興奮しちまうんでィ。とんでもねェ雌ブタでさァ。」

誰が雌ブタだ!!!
今の絶対、ただの変態だと思われただろーが!!
必死の訴えも総悟には届かず。
あたしはこのまま死んで堪るかと、最後の力を振り絞る。両手を総悟の両脇に差し込み、無造作に動かした。いわゆる、こちょこちょ、というやつである。こちょこちょ攻撃が効いたのか、総悟の腕の力が少し弱まり、何とか脱出に成功した。

「ぶはっ!!!!!」
「へっへっ、やめ、や、へへへへっ」
「えっ。お前、名前か……?」
「土方さん!あたし、変態じゃないです!!」
「へへっ、ひゃひゃひゃひゃ、お、おいっ。やめ、やめろ!」

意外と効果が持続することに気づいて、気が済むまで攻撃を続けた。きっと総悟は、土方さんにサボりの口実を作るためとか、そういうくだらないことで、あたしを利用していたのだ。
許すまじ。



「なにしてんの、お前ら。」



我に帰ると、呆れ顔の土方さんと、笑い疲れて倒れ込む総悟と、団子屋のお客たちの冷めた視線。
ここの団子屋には、暫く来れそうにない。





2019.01.05

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