「仮免許を取った」との報せを受けた直後の土曜日、なまえは雨のなか公園を歩いていた。

冬の雨は冷たい。風もなく真っ直ぐ地面に落ちてくる雨の粒は大きく、道のあちこちに水溜りを作っていた。避けて歩いてもローファーに少し浸水してしまった。傘の柄も冷え冷えとしていて、足と手の指先から伝わる冷たさになまえは白い息を吐いた。


爆豪の宣言通り、電話とメッセージのやりとりはするものの会うことはなかった。その状況はそれまでと何ら変わりなかったが、なんだかんだと2週間に一度程の頻度で顔を見ていたから1ヶ月以上会わないことは初めてだった。
ただ前向きな理由によるものだったから、その期間はさして気にはならなかった。次会えるだろう頃までをカウントしながらもなまえも忙しくしていたし、思っていた以上に日々は早く過ぎた印象だった。


教えられた公園の奥へ進んでいく。
なまえの高校の近くだが初めて来る場所、しかも雨と寒さで身体が縮こまり視界が狭まるなか周囲を気にしながら歩いていると、ふと視線の先に四阿が見えた。
そこに見える金色に胸が鳴った。なまえが立ち止まり見つめていると、スマートフォンを見ていたのか俯いていた顔が上がった。交わる視線にもう一度胸が鳴った後、なまえはスクールバッグを担ぎ直し、四阿へ続く飛び石へ足を踏み出した。


庇の下に入り傘を閉じる。顔を上げると、ベンチに座りこちらを見つめる爆豪と目が合った。

「…ひ、さしぶり」

寒さで声が突っかかってしまった。
まるで怯えているようにも聞こえなくもなかったが、爆豪の表情は特に変わらず静かなままだった。
その真っ直ぐな視線に耐え切れなくなったなまえが視線を外すと「座れや」と声が掛けられた。ゆっくり歩み寄り、爆豪の左隣にそっと腰を下ろした。

「どうだった」
「え?」
「模試」

普段なら学校のない土曜日だが、今日は全国模試を受けに登校していた。
1年生は希望者だけとのことだったがそれは建前で、進学校ならではの無言の圧力でほぼ全員が受けに来ていた。

「…難しかった」

爆豪に尋ねられるとは思っていなかったなまえは少し反応が遅れた。こちらを見る瞳から視線を逸らし、雨水で少し色が濃くなったローファーの爪先を見つめた。


あの高校に真面目に通えばある程度以上の大学には進めるのだと思っていた。
しかし蓋を開ければ高校だけでなく塾や予備校に通う生徒がほとんどで、その中にいて奨学金を得られる成績を取るのは至難の業だった。
今回の模試もそうだった。見たこともない文字の羅列になまえが戸惑うなか、クラスの中では既に知っていたというような会話がちらほら聞こえてきた。

「当たり前だけど、みんなそれぞれ頑張ってるんだなって思った。かなりやってるほうだと思ってたけど、改めて現実を突き付けられた感じ」

親戚にはアルバイトを辞めても良いのではと勧められた。
しかしなまえは断った。高校卒業後に始まる自活の足しになればと始めたアルバイトではあったが、保護者が見つかったから働く必要がなくなったと辞めるのは無責任だと思った。
アルバイトをしながら高校の他で勉強する時間も体力もない。周りが気にならないと言えば嘘になるが、やると決めたからにはやるしかないと思った。放課後職員室を訪ねるなまえに教師達も親身になって教えてくれたし、諦めるレベルの話ではないと思った。

「でも、やるしかないよ」

言い聞かせるように呟く。

「いつ本番が来てもええように毎日準備しとくことが大事やな」
どうしたらヒーローになれるのか尋ねたなまえにそう答えた父は、もしかしたら自分自身に言っていたのかもしれない。その心構えは何事にも通じるのだと今になって感じる。

しばらくの沈黙の後、たった一言「そうか」と声が返ってきた。


「勝己くんこそ、仮免許おめでとう」

なまえは顔を上げ、赤い瞳を真っ直ぐ見つめ返した。
雄英の生徒というだけでも凄いと思うのに、さらにヒーローとしての活動を許可された爆豪になまえは尊敬の念を抱いた。
しかもヒーロー科の中で変わらず成績上位だと聞く。目標を見据え自力で駆け上っていくその姿は時に眩し過ぎるようにも感じられたが、それでもなまえに前向きな気持ちを与えてくれることには変わりなかった。

「…一発で受かってねェ」

心底不満そうな顔になった爆豪が今度は視線を逸らしてしまった。
今日はどこか互いにぎこちない。まるで鸚鵡返しのような反応になまえは微かに笑った。

「何回目の合格とか、その、インターン?で関係あるの?」
「…そういう問題じゃねぇわ」
「ふ、相変わらず完璧主義だなあ」

なまえからすれば受かるだけで立派だと思うが、きっと爆豪はそれで満足できないのだろう。
慰めも励ましも爆豪は望んでいないだろうことだけはわかったから、改めて「おめでとう」と言うに留めた。




しばらくそのままで居るとさすがに身体が冷えてきた。なまえはスカートから覗く膝を摩った。
右に視線をやると、爆豪はアウターのポケットに両手を突っ込み口許も埋めるようにしていた。
なまえより長い時間ここに居た爆豪にどこか入ろうと提案するも、短く「いい」と返ってくるだけだった。

「どこかお店で待っててくれたら良かったのに」

寒そうに肩を竦める爆豪に声を掛ける。その横顔から返事はなく、呼吸に合わせて白い息が吐き出されるだけだった。

「人もいないし寒いし、雨だし。ここであってるのかなってちょっと不安になったよ」
「だからだろ」

そう言うや、爆豪はベンチを跨ぐようにしてなまえに向き直った。爆豪の突然の動きになまえの表情は止まる。

「誰もいないとこ選んだんだよ」

真っ直ぐな視線とあまりにストレートな言葉になまえはたじろぎ、耐え切れず視線を下げた。
四阿の四方は降り注いだ雨が庇を伝い、小さな滝のように落ちていた。それはまるで壁のようで、外の景色を朧げにしていた。

「なまえ、こっち向け」

耳に届いた声になまえは微かに目を見開き、ゆっくりと視線を戻した。
変わらず真っ直ぐこちらを見つめる赤い瞳に見惚れ、なまえの瞳は揺らぐ。

「…なんだよ」

なまえの反応を訝しむように爆豪が眉間に皺を寄せた。
爆豪の一切気付いていない様子に、あれは無意識だったのかとなまえは少し安心した。

「…久しぶりだな、って」
「は?」
「名前。しばらく呼ばれてなかったから」

和解をしたあの時に、不穏な電話をした頃から名前を呼ばれていなかったことに気付いたのだ。
名前を呼ばれる、呼ばれないだけでこうも違う。
ガラリと変わった雰囲気に緊張しながらも胸がほんのり温かくなる感覚に、なまえは自然と微笑んだ。

すると爆豪の顔が近付き、擦り寄るように額が合わされた。突然のことになまえは少し仰け反りつつも爆豪のするがままを受け入れた。

合わさった額は温かく、交わる視線は熱を帯びた。
その近さになまえが恥ずかしさを誤魔化すように再び笑った直後、唇が奪われた。
微かに見開いた瞼も久しぶりの唇の感触に震え、なまえは心地良さに自然と瞼を閉じた。

そのまま柔い愛撫に身を任せていると、ぬるり、とした感触が唇を撫でた。なまえは反射的に顔を離した。

「んだよ」
「いや、あの…」

不満げな爆豪の目は据わっていて、その色になまえの心臓が跳ねた。

「全部言えっつったの、…なまえだろが」
「え?」
「俺は足んねえ」

そう言って頬に伸びてきた右手は冷たく、その温度になまえは思わず瞬きをした。

──長いこと待っててくれたのかな…。

頬を撫でる手があまりに冷たくて、なまえは温めるように左手を重ねた。それを合図に再度近付いてくる爆豪になまえは覚悟を決め、ぎゅ、と瞼を瞑った。

同じように柔く食むようなキスに応えるうち、再び爆豪の舌がなまえの唇を舐めた。またも身体はびくついたが、なまえはおずおずと唇の力を緩めた。
その瞬間、爆豪の舌が差し入れられた。口内を弄る舌の感触になまえは左手で包んだ爆豪の手を握り込む。そのまま止まることのない舌からもたらされる刺激に、反射で右手を上げ爆豪の胸元に縋った。耐えようと思いつつも初めての刺激に逃げてしまいそうになるのを、後頭部に回った爆豪の左手が制していた。

雨音に閉ざされた四阿を水音交じりの籠もった吐息が支配する。

息苦しくなったなまえが顔を下げ酸素を吸っても、すぐ爆豪の唇が掬い上げた。その早急さになまえの頬は上気し、今が冬であることを忘れるくらいには火照っていった。


しばらくして離された唇にもなまえは瞼を上げることができなかった。
そんななまえを促すように少し濡れた口端を爆豪の舌が撫でる。その感触になまえの唇と瞼はびくり、と震えた。
緊張した面持ちのまま、なまえは瞼を上げた。こちらを見下ろす爆豪の視線に頬がさらに上気したのがわかる。

「わかったかよ」
「っか、つき、くん」
「こういうことになんぞ」

そう言ってなまえから離れた両手はどちらも所在無さげに降ろされた。視線も外され、遠く雨の様子を眺めるような瞳は細められていた。


なまえの耳元で心臓が鳴っていた。
ばくん、ばくん、と鳴るそれは警鐘のようにも思えた。ここを越えたら戻れない気がした。


なまえは爆豪の股近くに右手を置いた。
その動きに爆豪の顔が戻ってきたと同時、腰を浮かせて爆豪の唇に自分のそれを寄せた。
初めてなまえからしたキスだった。微かに触れただけ、まるで掠めるようなものだったがそれでもなまえは羞恥に染まってしまう。

腰を戻したなまえは爆豪を窺う。眉間に皺も寄っていない顔はただ真っ直ぐこちらを見ていた。
反応のない爆豪に居心地が悪くなりストールに口許を埋めていると、なまえの左手が握られた。そのまま引かれた勢いでなまえの身体が爆豪に向く。
握る右手の強さに心音が速まるのがわかる。顔を上げると先ほどと変わらずこちらを見つめる爆豪がいた。指を絡め取られ、離さないと言わんばかりに握り直された。


しばらく見つめ合う。
そのままどちらともなく寄り添い、2人は再び深いキスをした。




激しくなる一方の雨音に、握り合う指先の力も強くなった。






この痛いほどの気持ちが伝わって欲しい





甘雨




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