金曜日の昼下がり、爆豪は個性事故に遭ってしまった。

サポート科の教室の前を通った時、開け放たれたドアから飛んできたボールのようなものが爆豪の左頬に向かってきた。持ち前の反射神経で避けた爆豪の前髪にボールが掠ったと思った瞬間、弾けるような白い光が辺りを襲った。
数秒後、閉じていた瞼を開けると廊下が異常に近く映った。身体の感覚も地面に振れる感触もいつもと違う。視線を動かすと、無造作に散らばった制服と金色の毛に覆われた、まるで犬のような脚が視界に入った。

「え、もしかして、爆豪…?」

戸惑いながらこちらに声をかける切島の頭は遥か上にあった。見下ろすんじゃねェ!、と上げた罵声はまさに犬のような吠え声だった。


平謝りするサポート科の生徒は「触れた生物を犬に変える」個性を閉じ込めたカプセルを内包したボールが爆豪に当たったのだ、と言った。初めて成功した試作品だというそれの解毒剤の類いはまだ準備できていないとの言葉に、爆豪は迷わず生徒の脛に噛み付いた。

「その個性を持っている生徒に聞いてきたが、長くて3日で解除されるらしい。そいつ自身も解除能力は持っていないそうだ。悪いが日が経つのを待て」

さらりと言う相澤に抗議の声を上げたが、勿論吠え声では苛立ちの感情しか伝わっていないようだった。

犬に変わっただけでも腹立たしいのに、よりにもよってのタイミングだった。
それでも、もしかしたら明日の朝には元に戻っているかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら自室のベッドに上がった爆豪は、身体を丸めて一夜を過ごした。


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翌朝の土曜日、目覚めた爆豪は視界に入った自らの手に舌打ちを落とした。
念のため姿見で確認したが、どこからどう見ても犬だった。シベリアン・ハスキーのような体躯で、ツンとした毛に覆われた金色の犬が目の前にいた。

元の姿に戻ったらサポート科の生徒をぶちのめそう、と心に決めた爆豪はベッドに飛び乗り、枕元に置いてあるスマートフォンに右前脚を乗せた。
指紋認証のエラーメッセージに唸りながらパスコードを入力した爆豪はメッセージアプリを開き、軽くスクロールした。
目的の人物とのトーク画面を捉える。理由は適当に誤魔化そう、と今日の断りのメッセージを入れようと肉球を向けた時だった。

『おはよう。今日晴れて良かったね』

なまえからの短いメッセージが振動と共に告げられ、爆豪は右前脚を宙で止めた。
休日の早朝にまさか連絡が来るとは思っていなかった。何故起きているのか。以前彼女が言っていた朝の日課をしているのだろうか。

待ち合わせ場所も時間も決まれば基本的にその後の連絡は来ないし、爆豪も送ることはしなかった。
だからこんなことは初めてだったし、そんなイレギュラーになまえのはにかむような笑顔が見えた気がした。

爆豪は数十分程自室をぐるぐる回った後、スマートフォンを咥えて寮を飛び出した。




犬の脚力と体力で果たして辿り着くのかと思ったが、この身体は意外と走りやすかった。
約束の時間に少し遅れて駅に着いた爆豪は、口の隙間からハッハッと犬らしい呼吸をしながら顔を巡らせた。するといつもの場所で柱に背を預けるようにして本を読むなまえを視界に捉えた。

走っているうちに身体が戻ることも期待していたが、一向にその気配はなかった。
犬の姿で会うわけにもいかない。やはり諦めるべきかと考えていると、ふと顔を上げたなまえと目が合ってしまった。

懐かしくも感じる顔に、爆豪は引き寄せられるようになまえに近付いた。
近付いてくる大型犬に警戒しているのかその表情には固さが感じられ、爆豪は少し離れた所で止まり腰を落とした。
きょとんとした顔が爆豪に返ってくる。うっかり近付いてしまったがこの後はどうするべきかと思案しながら見つめていると、なまえの目が微かに見開かれた。

「勝己くんのスマホ…?」

なまえが本を閉じながら数歩近付き、膝に手を当てて屈んだ。
ケースでわかったのだろう。まさかこういう形でばれてしまう可能性を考えていなかった爆豪の尻尾がぴん、と張った。

訝しむような表情のなまえは本をショルダーバッグに仕舞い、代わりにスマートフォンを取り出した。何か操作をしたと思った矢先、爆豪の口の中でバイブレーションが鳴った。突然の振動に危うくスマートフォンを落としそうになる。
なまえはすぐにコールを終わらせたかと思うと、再度スマートフォンを操作し右耳に当てた。

「…あ、もしもし、出久くん?」

犬耳がぴくり、と動く。なまえが呼ぶ名前に爆豪の目つきが鋭くなった。

「おはよう。朝からごめんね、ちょっと聞きたいことあって」

ありがとう、と呟くなまえがちらりと爆豪を見下ろした。

「訳わかんないと思うんだけど…。あの、勝己くんのスマホ持ったわんちゃんが、今、目の前にいるの」

わんちゃん、との単語に青筋が立つ。

「勝己くん、何かあった…?」

爆豪はそのまま会話を続けるなまえを見守った。
電話の向こうの幼馴染には下手なことを言ったら爆殺する、と心の中で呪詛を送り続けた。


しばらくして「じゃあね」と通話を終えたなまえは、爆豪の目線に合わせるようにしゃがんだ。

「ありがとう。勝己くんの代わりに知らせに来てくれたんだね」

緑谷が何を言ったのかわからないが、どうやら犬自身が爆豪だということは伏せたようだった。
ある程度の空気は読んだらしい緑谷に爆殺はやめておこうかと譲歩の気持ちが湧いた。

なまえの左手がおずおずと爆豪に伸びてきた。
そのまま動かないでいると頬に触れられ、優しい手つきで撫でられた。その感触に思わず目を細めると、なまえは右手も添えて顔を撫で始めた。

「きみ、勝己くんにそっくりだね」

そう言いながら顎の下を掻く指が心地良い。

「毛も目も勝己くんと同じ色。綺麗」

その言葉に爆豪の犬耳がぴくり、と反応した。

「凛々しい感じが似てる」

耳裏や眉間も掻きながら呟くなまえに爆豪の尻尾がゆさゆさと揺れた。普段面と向かっては言われない言葉に柄にもなく喜んでしまう自分がいたし、犬の身体はあまりにも素直だった。
その様子に「あれ、嬉しい?」と柔らかく微笑むなまえに左右に振れる尻尾は止まらなかった。人に耳も尻尾も生えていなくて良かった、と心底思った。




その後、爆豪はなまえに付いて歩いた。
なまえには帰らなくて良いのかと心配されたが、ここまで来たら思う存分犬の姿を楽しんでやろうと思った。黙って付いてくる爆豪になまえは微笑みを返して以降、特に話しかけてくることはなかった。

着いたのは図書館だった。よく見知った懐かしい道のりにある程度の予想はしていたが、相変わらずななまえに爆豪は呆れた。
なまえは建物には入らずエントランス脇の小道へ進んだ。
その先にある敷地内の公園に入ったなまえは小高い丘のような傾斜を登った。丘には楠や杉がまばらに生えていて、その中で一番奥にある欅の根元に腰を下ろした。

「来る?」

芝生を叩くなまえに歩み寄った爆豪は隣に伏せ、顎を太腿の上に乗せた。
吃驚するなまえは無視し動かないでいると、しばらくして「かわいい」と笑顔が返ってきた。その態度に不満を覚えたが、どうせなまえにはばれていないのだ。それならばと開き直ることにした。


「良い天気」

揺れる木漏れ日、そよぐ風、草の匂い、温かい体温。それらの心地良さに爆豪は瞼を閉じ微睡んだ。

「疲れちゃったのかな?」

頭を撫でる手の優しさに一層眠気が強くなる。
「寝ていいからね」との声に本当に寝てしまおうかと思う。

「…勝己くんも無理しちゃったのかもね。ストイックだから」

頭上から聞こえる声色は柔らかい。

「でも、疲れたとか辛いって気持ちを出さないから、気付いてあげられない」

微かにトーンの落ちた声色に爆豪はゆっくり瞼を上げた。

「少しでも時間できたら連絡くれて、今日みたいに会う約束してくれて」
「嬉しいんだけどね。色々、もらってばっかりな気がして」

頭を撫でていた手の動きが止まった。

「だから何かしてあげたいんだけど、思いつかなくて。せめて無理だけはしないでって思うけど、言ったら違う意味にとられちゃうし」
「わたしも……会えるなら、会いたいし」

太腿から顔を離し見上げた先には、どこか遠くを見つめるなまえの顔があった。

「………会いたかったなあ」

寂しげな声に胸が狭くなった気がした。思わずなまえの腹部に擦り寄ると、「ありがとう」と柔らかい手つきで耳を撫でられた。

「ごめん、全部独り言。何言ってんのって感じだよね」
「勝己くんには内緒にしててね」

苦笑いが混じったような声に顔を上げることはできなかった。


「でも、熱でうなされて起きれないって相当だよね…」と心配を滲ませるなまえの声に、やはり帰ったら緑谷に噛み付こうと思い直した。
その後はなまえから語りかけられることはなく、撫でる掌の感触に再び瞼を閉じた爆豪は浅い眠りのなかを漂った。




その後家路につくと言うなまえと共に駅まで戻った。「わたしが帰らないときみも帰らないみたいだし」と笑うなまえに見上げた空は青く、太陽はまだ高い位置にあった。

駅のロータリーまで来たところで爆豪はその場に腰を落とした。突然止まった爆豪に首を傾げたなまえだったが、しばらくして目の前にしゃがみ込んだ。

「…もしかして、送ってくれたの?」

まさかという表情を浮かべるなまえに軽く吠える。驚いたように目を丸くしたなまえにもう一度吠えると「ありがとう。本当に優しいね」と笑顔が返ってきた。

「でも、きみはどうするの?雄英まで結構距離あるけど」

そこは行きと同じで走って帰れば良いと思っていた。これだけ早い時間なら門限までには寮に戻れる。
「出久くん呼ぼうか?」と尋ねる声には思わず首を振り、なまえの身体を鼻面でぐいぐい押した。

「わ、わかった。でもちゃんと帰ってね」

再度吠えると、眉を下げて笑うなまえが頭をぽんぽんと撫でた。眉間を掻く親指にまた自然と瞼が下りた。

その後も動く気配のないなまえに微かに瞼を上げた爆豪は、くるりと背を向け歩き出した。ロータリーの端で振り返ると、なまえがまだこちらを見ていた。
爆豪は数秒見つめた後、生垣の向こうへ走り去った。




暗くなってから寮に帰り着いた爆豪に一目散に駆け寄って来たのは緑谷だった。

「か、かっちゃん!!大丈夫だった!?その、色々…」

帰ったら噛み付いてやろうと考えていた幼馴染の顔を睨み上げた。
うぐ、と口を曲げる緑谷をしばらく見つめた爆豪は、フイ、と顔を逸らし脇を通り抜けた。
クラスメイトからかけられる声も無視し、爆豪は階段を登り自室へ戻った。

ベッドの上に蹲った爆豪はそのまま瞼を閉じた。

そして翌日の日曜日の朝、目を覚ますと人の姿に戻っていた。


/////


翌週の週末に約束を取り付けて会ったなまえは心配そうな、けれど嬉しさを滲ませた顔を向けてきた。
「もう大丈夫?」「あと、わんちゃん、ちゃんと帰ってきた?」「あの子によろしく伝えて。すごく良くしてもらったから」と微笑むなまえに、爆豪は何があったのか尋ねてみた。


「内緒」と悪戯っぽく笑うなまえの声が耳を擽った。






ふたりだけの





秘密




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