伝説と逢った日



あの日、朝日に翼を広げ飛び去った真紅の姿を、今でも鮮明に憶えている。


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紙に包んだ薬草を布袋に仕舞い鉈を差したなまえは、腰に巻いたロープを頼りに崖をよじ登った。

最近隣国で内紛が起こっているらしく、戦火から逃れようと国から逃げ出した人々が街に雪崩れ込んできていた。難民はみな長旅による疲労と戦闘による傷で憔悴していた。
なまえも薬師の一人として昼夜問わず難民たちを看病し続けているが、それでも患者は途切れることなく押し寄せ、倉庫の薬は底を尽きかけていた。
崖を登りきったなまえはロープを巻き取りつつ、この後の予定を思案した。

──もっと採らないと。

布袋の中を覗きしばし考えたなまえは、山奥にある薬草の群生地を目指すことにした。
山の夜は早い。今日中に街に戻るにはもう下山するべきだったが、連日運び込まれてくる怪我人の姿が脳裏を過ぎったのだ。
帰れなくなったら岩屋に泊まって、明日の朝早く戻ればいい。そう決めたなまえは布袋を背負い、山深くに分け入った。


歩みを進めるうち、嗅ぎ慣れない匂いが漂ってきた。
眉を顰めその匂いの方向を見やると、その一帯の草が倒れていた。何か大きなものが通った跡のようなそれはさらに奥へ続いている。熊の体躯以上に幅があり、獣道ではないだろうことはわかる。動物たちの習性を熟知しているなまえは彼らの邪魔にならないよう慎重に山を進んでいたので、わりと新しいその道筋になまえは嫌な予感を察知した。

その場から離れようと踵を返した時、道筋の向こうから呻き声のようなものが聞こえてきた。
それに続いて、ドシン、ドシン…、と地響きが鳴り響く。

──縄張り争いの時期じゃない。

何かが争っているようにも聞こえるそれにまさかの事態を想定したなまえは、静かに、でも足早に道筋を辿っていく。よく見ると血痕があり、しかもそれは人のものではなかった。今まで見たこともないような大きな足跡もちらほら見える。

──人喰い熊?食べられたとかじゃありませんように…。

蟲笛を口に咥えつつ弓とダガーの準備をしながら、目と耳、鼻で距離を探りながら近づいていく。もう近い、と悟ったなまえは近くの岩陰に身を潜めた。
よく嗅ぐと匂いの正体は火薬のようだった。隣国から山を越える最中獣に遭遇した難民が銃を使ってしまったのだろうか。群れで動く獣に撃ってしまったら、例えばそれが子どもなら、火薬の匂いに刺激された母親を呼び寄せてしまうのに。
唸り声はまだ続いている。弓を張り一呼吸置いたなまえは岩陰から顔を覗かせた。

その先に見える光景に目を見開いた。


──ドラゴン。


初めて見るその姿に口から蟲笛が落ちた。
真紅の鱗に覆われた体躯、長い尾、大きな翼、熊の3倍はあろうかという体長、その全てが衝撃とともになまえの目に飛び込んできた。

ドラゴンの存在は知っている。人里はおろか周辺の山には下りず、人も獣も入れないどこかの辺境──断崖絶壁やカルデラ、氷山とも言われている──に棲処があると言われているが、実際にその姿を見た者はこの世に僅かといない。それはなまえも同様で、その存在を見聞きするのは文献か吟遊詩人が語る物語だけだった。だからなまえでも難なく入れる山の中、しかもこんな明るい時間に現れるなど到底有り得ないことだった。

ドクドクと振動する心臓を感じつつ、何故こんな所に…と訝しんで見ていると、次第に動きが不自然なことに気付く。
しきりに翼を広げ弱く羽ばたいたり、首を曲げ翼の下辺りを気にする素振りが見える。鼻息も荒く喘いでいるようにも感じ取れる。どうしたのかと目を凝らすと、翼の根元から止め処なく血が流れているのが見えた。よく見ると矢傷も無数にある。明らかに人によって与えられた傷だった。
ドラゴンの美しい鱗や眼球はどんな宝石より高価で、牙や爪、骨は不老不死の薬になると言われている。王侯貴族や富豪がこぞって手に入れようとするため、近頃はドラゴン狩りを生業とする狩人が増えていた。きっと狩人に狙われここまで逃げ延びて来たのだろう。

苦しげにもがくドラゴンの姿になまえは弓を収めた。
火薬の匂いがしているから、きっと翼の近くの大きな傷は銃撃によるものだろう。たとえドラゴンでもあのまま血を流し続ければ死んでしまう。

助けられるだろうか。
そもそも人間が近づくことを許すのだろうか。なまえの姿を見ただけで火を吹かれるか凍らされるか、はたまたその牙で噛み殺されることのほうが容易に想像がつく。
なまえはその場から動くことが出来ず、ただ苦しむ姿を見つめることしかできなかった。


どのくらいそうしていただろうか。ふいにドラゴンの動きが止まった。
天を仰ぐような仕草をした後、ゆっくり頭を下ろしその場に横たわった。呼吸が浅くなり、みるみる力が無くなっていくのがわかった。


────諦めちゃだめ。


なまえは意を決して岩陰から出、ゆっくり近づいていく。
その気配に気付いたドラゴンはこちらに目を向けた途端、ヴヴヴ…、と低い唸り声を出しながら首を上げる。瀕死とは思えないその鋭い瞳に気圧されなまえは震え上がる。足が竦む。間合いに入ったら殺される、と直感が伝えていた。

「…大丈夫、あなたを助けたい」

もちろんドラゴンの姿勢が緩まることはなく、なおも牙を剥き威嚇を続ける。威圧感で冷や汗が吹き出す。一か八かで麻酔を放とうにも手が震えてどうにもなりそうにない。

──お願い、伝わって。

なまえは視線を合わせたまま数歩下がる。その場にしゃがみこむと、弓やダガー、鉈を順番に下ろしていく。荷物を全て足元に下ろしたなまえは再度ドラゴンに近づいた。

「荷物は全てあそこに置いてある。何も持ってないわ。傷を見せて」

手を広げながら語りかける。ドラゴンに言葉が通じるとは思っていないが、これしか方法が思いつかなかった。

「私は薬師なの。薬草を採りに山に来て、たまたま貴方を見つけただけ。貴方を傷付けた人間の仲間じゃない。信じて…」

張り詰めた空気に吐き気すら覚える。このまま威嚇され続ければ失神してしまうかもしれない。
言葉を継ぐことも難しくなったなまえはただひたすらドラゴンに視線を送った。


──あ。

ドラゴンの目力が少し弱まった。と気付くと同時、ふいに空気が軽くなり呼吸が楽になった。気付かないうちに浅くなっていた呼吸を整えながらドラゴンを見つめる。唸り声もしない。

「……ありがとう」

手を広げた姿勢のまま、ゆっくり近づく。
ドラゴンの警戒は解かれていないようで、射るような視線はなまえを捉えたままだった。妙な動きをした瞬間に殺すつもりなのだろう。
なまえは緊張しつつ翼の近くまで来る。間近で見るその大きさに改めて震え上がった。

「翼、上げられる…?」

ダメ元でそう伝えると、微かに翼が動いた。通じたことに微かに感動しながら、翼の下に入り傷を見る。ドクドクと流れ出る血と抉れた肉の動きに眉を顰めつつ、その向こうに鉛が見え隠れするのを確認した。
そのまま翼の下から出て、ゆっくりドラゴンの身体を周る。その他の矢傷はそこまで深くなく毒も塗られていないようだった。

「弾を取って消毒すれば助かる。取る時すごく痛いけど…やらせてくれる?」

こちらを見つめるドラゴンを振り仰ぐ。今までで一番間近で見る紅い瞳はなまえを品定めしているようだった。

数秒の後、瞳が伏せられた。

「ッ!待ってて!」

なまえは荷物の所まで戻り、手際良く準備を始めた。
必要な物だけ持ちドラゴンの元へ戻ったなまえは再度語りかける。

「弾がかなり大きくて、奥の方に入ってる。少し切り開いて私の腕で取る必要があるの。刀、使っていい?」

そう言ってダガーを両手の平に乗せて見せる。先ほどまでと格段に違う空気に恐らく大丈夫だろうとは思ったが、断りなしにやって噛み付かれないとも限らない。

なまえの手元に顔を近づけたドラゴンはダガーの匂いを嗅いだ。突然の動きに仰け反りつつその顔がゆっくり離れていくのを見届けたなまえは、水筒に汲んでいた湧き水でダガーを洗い、摘んだ薬草で包み込むようにしっかり拭った。袖を捲り、腕も同様に清めた。

「……なるべく早くするから、我慢してね」

翼の下に行き、傷口に水をかけ麻酔代わりの葉を当てる。鱗が振動し思わず肩に力が入る。大きな呼吸音に顔を向けると、細められた瞳がこちらを見ていた。

傷口に向き直り息を吐いたなまえは、ダガーの柄を握り直した。




銃創の処置が終わり心持ち力の抜けた紅い体躯から体力の消耗を感じたなまえは、少し思案した後、岩屋にドラゴンを連れて行くことにした。日が暮れているとはいえ、山の中を人が通らないとは限らない。

ドラゴンから離れたなまえは置いていた荷物を身に付けた。その際に岩陰に咲くカモミールを見つけたなまえはその数本を鉈で切り右手に握った。そのままドラゴンを振り返り、「歩ける?」と声を掛ける。こちらを見たドラゴンに右手を振ること数秒後、大きな身体を起こした姿になまえは身震いしつつもほっと息を吐いた。

思いの外素直についてきたドラゴンに付かず離れず、慎重に距離を取りながら山の中を歩いたなまえが岩屋に辿り着いたのは日が暮れ始めた頃だった。
ドラゴンは少し見回す素振りを見せた後、ゆっくりとした動作でその場に臥せた。その後他の矢傷も手当し一息ついたなまえは岩屋を出た。

街に帰ることも出来ず、とはいえ岩屋で眠る勇気など到底なかったなまえは、岩屋の入り口によじ登りそこで夜を明かすことにした。

────言葉がわかるだなんて知らなかったな。

なまえは自身の両手を見下ろした。ドラゴンの鱗は想像以上に頑丈で、渾身の力を込めてダガーを握った手と腕はビリビリと痺れていた。
緊張が解け身震いする身体を抱き込みながら、なまえは星が浮かび始めた夕空を見上げていた。


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顔に当たる生温かい風、足裏を突かれる感覚に、なまえの意識は浮上する。
白んだ光に眩しさを感じつつ瞼を上げると、視界いっぱいにドラゴンの顔が広がった。「うわっ」と声を上げたなまえは危うく岩から落ちそうになる。
一晩くらい寝ないでいようと思っていたのに、いつのまにか眠っていたらしい。

「…もう行くんだね」

なまえは岩を下り、翼の根元を見る。
まだ痛々しく肉が見えているものの血は止まり、銃創は昨夕よりもはるかに塞がっていた。膿んでもいない様子になまえは安堵の息を吐く。ドラゴンの高い治癒力は本当らしい。

そのまま離れドラゴンを見やると、ぐん、と顔が近づいてきた。
突然の動きになまえは後退りするもドラゴンの顔は近付いたままだった。緊張したまま突っ立っていると、大きな口がゆっくり開かれた。その動きになまえは瞬時に瞼を閉じたが、その後何の変化も感じられない様子に今度はおずおずと瞼を上げた。

「……鱗?」

鋭利な牙に囲われたざらついた舌の上に、紅い鱗が見えた。差し出すように舌がなまえに伸びてくる。

「……くれるの?」

まさか、と思った。驚きのあまり見つめていると、ドラゴンの瞳がゆっくりと伏せられた。
恐る恐る手を伸ばし、それを手に取る。なまえの掌より少し大きい鱗は山際から漏れる朝日を受け煌めいた。その美しさに目を奪われる。

「ありがとう。大切にするね」

鱗同様全身に光を浴びて煌めく体躯に語りかけると、返事のつもりなのか、鼻息がなまえにかかった。擽ったさに再び瞼を閉じた。

ドラゴンは首を上げ軽く翼を震わせた。
その風圧に驚いたなまえは慌てて離れ、山肌の岩にしがみつく。

「どうか無事で。もう人の前に現れちゃ駄目だよ」

羽ばたく音に聞こえたのかはわからなかったが、ちらりとドラゴンがこちらを見たような気がした。


風圧が上がる。身を屈めながら本格的に羽ばたき始めたドラゴンは、次の瞬間地面を蹴り出し空中に飛び出した。巻き起こった小さな竜巻に木々は揺れ、思わずなまえは腕で顔を覆う。しばらくして風塵が収まり、なまえは慌てて空を見上げた。

────きれい。

朝の光に舞い出した真紅の姿に思わず見惚れた。




胸元に真紅の鱗を抱き込んだまま、その姿が山の向こうに消えた後もしばらく空を見上げていた。




あの煌めく朝をわたしは一生忘れない



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