夜行



横穴は暗く冷たく、風の動きも感じられない。硬く乾燥した地面の感触がグローブ越しでも伝わってきた。
闇が続く地下を四つん這いになって進むも、先頭を行く少年の腰にぶら下がる洋燈の光はなまえの元には既にないようなものだった。
前を進む爆豪の気配に意識を集中しながら両手足を動かす。最後尾を行く切島は特に視界が利かないはずだが、背後の音はなまえと付かず離れず常に一定の距離を保っていた。
そうして10分程進んだ頃、闇の向こうが霞のように明るくなってきた。近付いていくとそこには幼い男児が座っていて、少年のものより大きく炎もしっかりとした洋燈を膝に抱えていた。
安堵の色を浮かべた顔がにいちゃん、と囁いた。

「誰か通ったか?」
「ううん。ずっと聞いてたけどヘーキだよ」
「ん、よくやった」

頭をぽんぽんと撫でられ、男児の尖った両耳がひくひくと振れた。洋燈にぼんやりと浮かぶ頬が嬉しそうにはにかむ様子に、つい今の状況を忘れてしまいそうになる。

「西には速馬が行ってたって」

振り向いた少年の耳は丸い形をしていた。
血の繋がりがあるのかは知らないし、「通常」の人より特異な力を持つ人間の存在も昨今では珍しくもない。それでも無意識に確認し、そして男児が受けているかもしれない差別や迫害を勝手に想像する自身をなまえは心の中で叱責した。

「ここから北ノ森へ抜けた方がいいっておじさんが言ってた。谷も多いし、馬も速く走れないし」

逃げるなら山か森を経由した方が無難だろうとはなまえも考えていた。穴の向かう方角が分からないながらも、少なくとも宿場の多い西の街道だけは避けようと決めていた。

「ありがとう。夜のうちに少しでも離れるよ」
「道わかるんすか?」
「昼間にですけど、何度も入ってるので」

夜の森にも入ったことはあるが、岩屋でひっそりと過ごすだけで歩き回ったことはない。それでも進むしかなかった。

頭上に右手を当てた少年は、そのままそうっと横へずらした。砂がぱらぱらと落ちる音とともに横穴が仄明るくなっていき、差し込む薄明かりによって空気の動きが視認できた。
少年に促された爆豪が滑らかな動きで頭上の向こうに消えた。続いてなまえも隙間から這い出ると、そこは低木の茂みに囲まれていた。穴の中よりずっと冷たく湿った空気が辺り一面を満たしていて、藍色に落ちた森は曇天の暗さを一層強調しているようだった。夜がもうすぐそこまで近付いている。後ろを振り返ると、木々の隙間から城壁が見えた。
切島が出るとなまえは穴を覗き込んだ。「気をつけて」と囁く声に頷き礼を伝えると、さっと入り口に蓋をした。
辺りの土と草を手早く散らした後、なまえ達は身を屈めたまま、ひっそりと夜霧の漂い始めた森の奥の奥へと駆け込んでいった。




枯れ葉を踏み締める音と緩い風音が五月蝿く感じられる静けさのなか、時折アオバズクの鳴き声が遠く響いてくる。
暗く冷たい森ではひっそりとした声も明瞭に聞こえてきた。

下山したままの恰好で逃げてきたことが救いだった。鹿の毛皮で作った外套は体温を逃さず、晩秋の夜も然程辛くない。雲もいつしか流れていて、木々の隙間から漏れる月明かりで数m先までは視認できるようになった。
寒さと暗闇の軽減によって、夜行の負担はなまえが想像していたより幾分減っていた。
穴から這い出て以降追っ手の気配は全く感じられず、当初は駆け足だった速度も夜半の頃を越えた今では歩みに変わっていた。

「なまえサン」

左に顔を向けると、八重歯が覗く両の口端から白い息が香の煙のように細く流れ出ていた。さすがの切島も森の夜気は堪えるようで、首元に巻いていた襟巻を広げ肩から羽織っている。
初めのうちは「東に向かいたい」という爆豪になまえが先導していたが、頻繁に立ち止まり森の奥に目を凝らすうち「夜目が効かねェだろ」と先頭を替わられてしまい、時折なまえが道筋を助言する形で進んでいた。


「あの人達って……その」

滲む言外の意味に、なまえの脳裏に泥と煤に塗れ空虚な目をした顔が次々と浮かんでは消えた。
土埃の舞う城門、足を引き摺り俯き歩く人々の列、座り込み項垂れる背中、沈黙の唇。
あの日の情景を瞬時に思い出せるのは、日々彼らと関わってきたからではない。なまえはあの日初めて、生きた屍と会ったのだ。

「私はそう思ってません」

眉間に入った力を緩められないまま、なまえは顔を前に向けた。臙脂色の外套は無言で歩みを進めている。
切島が悪いのではないし、なまえ自身も心の何処かでそう思っているのかもしれない。それでも断言しなければならないと思った。
偽善や自惚れではないかと悩みながら、それでも誰かが口に出して否定しなければいけないと言い聞かせてきた。

「難民申請したけど受け入れられなかった人達」
「…」
「罪人じゃありません」

祖国から逃げ延びた先で不法入国者の烙印を押された彼らは、もしかしたら牢で囲われている罪人より不当な扱いを受けているかもしれなかった。

「阿ノ国の戸籍が確認できるものがないと承認できないって。ただそれだけの理由で…」

隣国の内戦が始まった頃は比較的柔軟に承認を下ろしていたらしいが、内戦が激化するに比例して増える膨大な難民に、自国の寛容さはみるみる萎んでいった。
通り一遍の言葉で門前払いをする兵士や役人が冷徹で歯を噛んでいたのではない。下された命令を遂行するために、懇願し縋る手に無関心であろうと努める必死さが虚しかった。

「命からがら逃げ延びて、そんなもの持ってくる余裕なんてあるわけないのに」

確かにそこに人が、命があるのに、国の都合を決める人間によっていとも簡単に対応が変わる、存在が消される。
まだまともだと思っていた自国の手の平を返すようなやり方に、戦争を起こす人間と同じではないかと憤りを感じずにはいられなかった。

言葉が返ってこない様子にはっとしたなまえが顔を上げると、ふっと息を吐いた切島が優しく微笑んだ。

「立派っすね」
「…」
「助けてるんでしよ?あの人達のこと」

柔らかい瞳は真っ直ぐなまえを捉えていて、一瞬当たった月光で瞳の赤が控えめに輝いた。

「なまえサンのことすごい慕ってたから」

喉が引き攣るような感覚に、なまえは曖昧に首を振るしかできなかった。

今まで通りの生活が出来ないとわかっても「命と家族があるだけ幸せだよ」と笑う彼らに、なまえは自らの懐が薄汚く感じられて堪らなかった。そんな罪悪感から逃れたくて始めた行為でしかない。
もし自らも困窮していたとして、同じことができるのだろうか。人々が忘れ去った地下の世界に隠れるように住みながら、絶望することなく、命があるだけで幸せだと言えるのだろうか。他人の不幸によって懐を温め、罪悪感を感じながらも薬師の職を手放せない自分は、政治家や軍人と同罪ではないか。これは自慰行為か。
果てのない沼のような鬱屈を他人に話したとて、否定し労る言葉が返ってくることもわかっている。なまえ自身も労りや気休めが欲しいわけではなく、かと言って誰かに断罪して欲しいとも思っていない。
明確な答えなど無く、少なくとも隣国の戦禍が収束し難民の流入が減るまでは悶々と抱えて生きていくしかないのだろうということだけは理解していた。

「…そういえば、」

別の話題を探すうち、目的地を尋ねていなかったことにようやく気が付いた。
追われる経験など当たり前になく、穴から抜け出た後しばらくは少しでも遠くに行くこと、足手まといにならないことで頭が一杯だった。
なまえが再び振り仰ぐと、切島は気さくな表情で小首を傾げた。

「どこに向かってるんでしょうか?」
「エン」

切島が口を開く前に低音が右耳に届き、なまえは顔を前方に向けた。

「炎、ですか?」
「そこにテメェを送り届ける」

エン──皇国・炎(えん)領──は其ノ国との国境にほど近い此ノ国の自治領で、轟一族が代々統治している。
小さな自治領ではあるが大国と渡り合える政治力がある。領土を囲む豊かな湖から水を引き、農業と産業を発展させている。また轟一族を中心とした精鋭の軍隊が領土を護っていて、他国からの侵略を牽制し続ける戦闘力であることは広く知られている。

「皇子と知り合いなんす」
「……………え?」
「一番下の焦凍。知ってますよね」

切島の言葉になまえは目を瞬かせた。処理速度の落ちた脳とともに歩みも遅れたが、すぐさまペースを戻して切島の隣に戻った。

「俺ら同い年なんです。それで」

同じ歳だからという理由だけで皇子と知り合いにはならない、と指摘を入れることすら忘れていた。

小さな自治領とはいえ、庶民からすれば皇族の姿を見る機会は乏しく、そしてこれから先も出会うはずのない遠い存在である。
そして末の子──確か四番目の子・焦凍──と言えば炎と氷の魔法を操る強者で、轟一族歴代最強と謳われている。

魔力はそもそも人ならざるモノが持ち得る力だが、500年程前から一部の人類にも発現するようになった。横穴で会った男児のように身体に変異が起きるのも魔力の一種だと云われている。
魔力は先天的にしか獲得できない力であり、中でも発現する人間はごく僅かで、1%にも満たないとの報告もある。そのため魔力を持つ人間は貴重で尊い存在として優遇される。
特別な教育を受け魔力を術式として扱うための「魔法」を修得したのち、各国軍隊や政治の要職に就いたり、王侯貴族の側近になることが通例である。
通常修得できるのは単式魔法で、複数・複合の魔法を扱える人間はさらに数が限られた。
だから、轟一族直系の正統な血を継ぎ武術の才能に秀で、加えて2種類の魔法を扱える轟焦凍の存在は稀少で尊く、此ノ国で知らぬ者などいない。
そのような人物と知り合いだと切島は言う。なまえはいよいよ爆豪達の素性を知ることが恐ろしく思えてきて、夜半の寒さとは違う悪寒が胃の底を撫でるような感覚を覚えた。

黙々と前を歩いていた爆豪が口を開いた。

「どこまでの話になってるのか手っ取り早く掴むのもアリかと思ってたが」

爆豪の言葉に、視界の左端で赤髪が揺れた。

「読みが甘かった。マジで悪いと思ってる」
「…いえ、そんなことは」
「だが、エンはこの国でテメェの安全を確実に保障できる場所だ」

「だから安心しろ」と振り返った爆豪の横顔は不機嫌そのもの、不服極まりないと言っているようで、言葉とは正反対の表情になまえは当惑した。
その様子を目敏く拾った切島が「特に轟には天邪鬼なんです」と耳打ちをしてきて、その言葉にいつか見た幼馴染のやりとりが脳裏に浮かんだ。

「……あの」
「あ?」
「出久くんは、大丈夫、なんでしょうか」

なまえにすら敵意を剥き出しにして襲ってきたのだ。
きっと緑谷のことも調べがついているのだろうし、この状況になって軍人達が緑谷を放っておくとは到底思えなかった。
じぃ、とこちらを見る赤い瞳になまえの首裏が騒つく。だんだんと空気が重くなっていくような心地に気道が狭くなる。混乱し焦りを感じながらも、押し黙ったまま見つめ返した。

「自分でどうにかしてる」

言い切る言葉は独り言のようだった。
爆豪が視線を下に外し顔を前に戻すと、周囲の空気が元の軽さを取り戻した。
肩の強張りが解け、微かに汗ばんだ首筋を右掌で拭いながら浅い呼吸をするなまえに対して、切島には何の乱れも起きていなかった。

「動けねェ以上、信じるしかねぇ」
「……緑谷は頭も良くてそこそこ強ぇし、な」

そう言って心配を滲ませる切島の声には溜息の色が混じっていたが、なまえが口を開くより先に舌打ちと叱責が飛んできて、切島は慌て詫びを返しからりと笑った。
「いつまでもウジウジすんじゃねェ鬱陶しい」「ハハ、わり」と空気を戻したように見える2人を見つめながら、なまえは心の中で緑谷の無事を祈っていた。


幾日の旅路を、どうか無事に終えられますよう



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