東へ



武人達の来訪から数日経ったある日の昼前だった。
薬草採取のため泊りがけで山に入っていたなまえは少し眠い目を擦りながら街への門を潜り、大通りを歩いていた。

大通りはいつもと変わらず沢山の人や馬車の往来があり、軒先の屋台や大通りから程近い市場は活気に溢れていたが、これから訪れる冬を目前に控えどことなく忙しない空気が漂っていた。
雪の季節になれば街道は閉ざされ、物流はぐんと減る。そうなる前に商品を売り切りたい行商人や露店主と、食料等の必需品を蓄えておきたい客との間で盛んにやりとりがなされていた。

そんな様子を横目に見ながら、なまえは自宅の地下にある貯蔵庫を思い浮かべた。
患者は季節を問わないから、なまえは冬でも山に入り薬草を探す。それでも薬になるような植物は他の季節に比べてぐんと減るし、ごくたまに狩る鹿や猪もなかなか見つけられない。足りない薬草を業者から購入するとしても物流が滞っているぶん割高になってしまう。今のうちに薬草を採取して加工したり、保存食を蓄えておく必要があった。
周囲のいそいそとした様子に、なまえはもっと採って来たらよかったかと不安になった。

街の中心の大広場に出た。
噴水のある円形の広場はさらに活気に溢れていた。先ほどまでと同じ忙しなさがありつつも音楽と子供の笑い声が聞こえてくるあたり、通りにはない陽気さが漂っていた。

広場からは中小様々な規模の通りが放射状に広がっている。
なまえが広場の端を横切り、その中の1つの通りに入ろうとした時だった。

「いた!なまえサン!!」

快活な声はひどく懐かしいものだった。
立ち止まり振り返ると、大きく手を振りながらこちらへ駆けてくる赤髪が見えた。

「切島さん!お久しぶりです」
「久しぶり。元気?」
「はい。切島さんも?」
「へへ、見ての通り!!」

変わらない明るい笑顔になまえもつられる。ニッカリと笑う口許から覗く白がモノトーンの寂しい街中で一層輝いた。

「家行ってもいねぇし、でも改めるのもなーって思ってたから会えて良かったー」

ほっとした表情を浮かべる切島の額はうっすら汗ばんでいるように見えた。冬前の肌寒い気温の中、どれほど走ったのだろうか。

「すみません。ずいぶん探してくださったみたいで…」
「ああ!スンマセン!そういうつもりじゃねぇっす!」

すまなそうな表情を浮かべる切島が掌で額を拭う。
上着を着てはいるが袖はなく、前身頃も開け放たれている。走ったにせよほぼ半裸に近い服装で過ごし、そのうえ汗もかいている。なまえは心の中で驚いていた。

「うちに来られますか?今から帰るところだったんです」
「そうしたいところなんだけど。なまえさんに確認できたらすぐ戻ろうと思ってて」

再度周囲を見回した切島が身を屈めてくる。なまえもつられて顔を寄せた。

「爆豪、来てねぇ?」

心配げな声に目を見開く。脳裏にいつかの午後の映像が蘇ってくる。

「アイツ、1ヶ月くらい村に帰ってこなくて。1人でどっか行っちまうことはよくあるんだけど……」
「今回はちょっと、嫌な予感っつーか…。それで心当たり探し回ってて」
 
歯切れ悪く頭を掻く切島に伝えるべきか一瞬悩んだ後、なまえは喉に力を入れた。なるべく平坦な声を意識した。

「軍の関係者が、家に来たんです」
「え!?」
「爆豪さんを捜してるって」

そう言ってなまえは過日の出来事を話した。
驚き目を見開いていた切島の顔が次第に眉を顰め逡巡するような表情に変わる様子に、いつか緑谷と爆豪がしていた会話と関係があるのだろうかと思ったが、それを尋ねてはいけない気がした。

「ごめんなさい。嘘つく勇気なくて、切島さん達と会ったことあるって伝えちゃって」
「イヤイヤ!なまえサンが謝らねぇでください!」

強い否定も、すぐ悩ましげな表情に戻ってしまう。

「むしろこっちが巻き込んで申し訳ねぇ…」

ぼそりと告げられた言葉になまえの胸は騒つくばかりだ。その理由を教えて欲しい。けれどみるみる眉間に皺を寄せる切島を目の前にして、尋ねる勇気も空気も皆無だった。

「でも、出久くんのことだけは言ってないです」
「ありがとうございます」
「ごめんなさい。何のお力にもなれなくて」
「十分過ぎます。そんな顔やめてください」

険しい表情のまま気遣う切島になまえの胸の内は落ち着くはずもなかった。
無言のままのなまえに何かを悟ったのか、「マジでごめん」と切島が頬を掻きながら続けた。

「嫌な予感っつったのはホントだけど、俺の心配性が出ただけ、だと思う。マジでヤベー時はちゃんと言ってくれます」
「それに、アイツ相当強いから」

浮かない表情は変わらないままだったが、吐き出すように告げられる言葉は切島の本心のように思えた。
なまえは何を言えるはずもなく、曖昧に頷き返すしかなかった。


なまえと切島の脇を子ども達が走り抜けた。
転がるような笑い声につられたなまえは視線を切島から外し、その背中を追いかけた。

「っ、切島さん!!」

なまえは慌てて切島の腕を叩いた。

「あれ……!」

控えめに指差したなまえの左手を辿るように、切島が顔をゆっくりと動かした。

駆け抜けて行った子ども達の背中の先、広場のずっと向こうだった。軍服を着た数名が広場の端を城のある方角へ進んでいた。
その中ほど、無機質に進む甲冑の隙間から見憶えのある金髪と臙脂色が見え隠れしている。間違いなかった。

「なんで」

襟足に冷水をかけられたようになまえの肩が跳ねた。先ほどまで会話をしていた人間から聞こえてきたものとは思えない、温度を失った声色だった。
顔を微かに右上に向ける。愕然と見つめる横顔に声も出せない。
ギリ、と低い音が鳴った。歯を食いしばった音なのか。口角は小刻みに震え、口許から覗く犬歯は鋭く長くなったように見える。怒りに歪んだ切島の肌にみるみる皺が入っていく。パキリ、と乾いた音が鳴った。

──割れた?

「クッッソ野郎!!!」

怒号を上げた切島が駆け出した。集団の先頭は裏通りに差し掛かろうとしていて、切島は行き交う人々を構うこともなく一直線に向かって行く。

乱れた隊列から聞こえる荒々しい声と金属音が聞こえてくる。広場の明るい喧騒が、波紋が広がるように囁き合うような騒めきに変わっていく。人々が異変に気づき始めていた。

「なまえさん逃げて!!」

遠く飛んできた大声にハッとした時には既に遅かった。
見覚えのある武人がなまえに向かって真っ直ぐ突進してくる。
あの日以上に鋭く放たれる威圧に全身が硬直する。
やっと半歩後退った時には、怒りに満ちた顔がはっきりと視認できる距離になっていた。なまえを敵と判断した顔だった。

黒い影が視界を遮ったと同時、高い音が耳を劈いた。

咄嗟に閉じかけた瞼の向こう、臙脂色の外套と金髪がなまえに背を向けていた。爆豪が振り下ろされた武人の剣を手枷の鎖で受け止めていた。
金属同士が擦れる嫌な音が低く鳴っている。
武人が力を押すまま爆豪の膝が曲がっていく。その後の展開を思ったなまえの唇が上滑りした瞬間、金属の割れる重い音が響いた。
武人が嗤う。しかし赤い瞳はその傲りを蔑んでいるように見えた。
寝転がんばかりに膝を曲げた爆豪が両脚で刀身を蹴り上げた。太く盛り上がった武人の腕が揺れ微かによろめく隙に鳩尾にもう一撃入れ、蹴り飛ばした。石畳に両手を突き跳ね上がった爆豪は躊躇いなく武人に突進し、剣を握っていることにも構わぬままその胸元を掴み上げ放り投げた。背中を打ち息を詰めた武人の顎に間髪入れず蹴りを入れると、武人の頭ががくん、と横に向いた。
石畳に沈む屈強な身体に茫然とするも爆豪に右腕を引かれ反転したなまえは、引き摺られるように走り出した。

「爆豪さん!」
「走れ」

広場の人混みを強引に駆け抜け、出店通りに出る。
追い縋ってくる怒号と蹄の音の近さを感じながら、爆豪に引かれるまま右に左に角を曲がり続けた。

人々の驚く声や物が倒れる音が前から後ろへと流れていく。爆豪の手枷の鎖が重く揺れる。息が切れて呼吸が続かない。あまりの速度に足がもつれそうになる。
それでもなまえは走り続けた。腕を引く爆豪の邪魔にならないよう、ひたすら足を回すことだけを考えた。

突然右に引かれた身体にバランスを崩したなまえは、爆豪の左腕に思い切り引っ張り上げられた。
前に放り出すような勢いに吃驚する間もなく、そのまま爆豪に抱き上げられる。なまえを横抱きにした爆豪は細い路地に入り、更に速度を増して走る。角を曲がり、木箱や樽を飛び越え、配管を避けていく。
その速度と揺れに声もなく身を縮こめ進行方向をただ見つめていたなまえだが、何度目かの角を曲がり、視線の先に行き止まりがあるにも関わらず緩まらない速度を感じた瞬間、まさか、と背筋が冷えた。

「しがみつけ。左手離す」

なまえは胸の前に収めていた両腕を爆豪の首に回し、揃えた脚に精一杯の力を込め小さく縮こまった。
上半身を支えていた右腕が太腿の下まで伸びる。なまえは身体に一層力を込め爆豪に密着した。

爆豪が乱雑に積み上げられた木箱に跳び上がる。リズムよく駆け上がった後、壁の配管を左手で掴んだかと思うと木箱から跳躍した。配管を頼りに壁を蹴りながら前に跳んで行く。
そうして行き止まりの壁をギリギリ越えた瞬間、今度は下腹部に強烈な浮遊感が襲った。
あまりの恐怖に腕の力を強め瞼を力の限り閉じたなまえは、着地の衝撃を感じてもそのまま固まってしまい、瞼を開けることができたのは数十秒程経った頃だった。
立ち止まりしゃがみ込んだ爆豪によって地面に下ろされたなまえは、浅く速い呼吸を繰り返し必死に酸素を取り込んだ。対して爆豪は数度速い呼吸をしただけで、その後は落ち着いたように周りの様子を窺っていた。

「わり、遅れた」

背後から聞こえた声になまえがびくつくと、暗い路地の隙間から切島が顔を出していた。
身を屈めながら寄って来る切島に爆豪が最大に舌打ちを返した。

「ンの、クソ髪…!もっとマシなやり方なかったんか!」
「あんなの見てほっとけっかよ」
「俺がタダで捕まるわけねェだろが。2人して追われるなんざ一番最悪パターンにしやがって」
「……すまねぇ」

「余裕なかった」と呟き項垂れた切島に、爆豪の右の眉尻が上がる。不穏な空気になまえは弁明しようと唇を湿らせたが、肩から力を抜いた爆豪を視界に捉え即座に閉口する。爆豪の首に浮いていた筋が薄くなった。

「まぁ、逃げきりゃ問題ねェ」
「…爆豪」
「今は反省だけしやがれ」

「気ィ緩めたら殺す」との爆豪の言葉に切島の下がった眉尻と口角が元の位置に戻る。苛立ちを露わにする爆豪に再度「悪かった」と謝罪する切島の表情は何処か安心しているようで、幾分浮上しているように見えた。

「あの、わたしの、こと、は、置いて…」

まだ呼吸を落ち着けられないままなまえは言葉を発した。
心臓がばくばくと肋骨を連打しているようだった。腹を空かせた野生動物に遭遇したことはあっても明確に敵意を向けられたことは初めてで、その冷たさに腹の底からくる震えはなかなか治まってはくれなかった。

「無事でいてぇなら俺達と来い」
「…え」
「爆豪!?」

即答された言葉になまえは目を見開いた。驚いたのは切島も同じらしく、焦った様子で爆豪に言い募った。

「なまえさん関係ねぇよ!!連れてったらどうなるなんてもんじゃ……!」
「一緒にいて、名前呼んで、逃げた。それだけでアイツらは十分なんだよ」
「けどよ!」
「理由やっちまったんだ。だから反省しろっつっとんだ」

睨む爆豪に切島がうぐ、と口を噤んだ。
爆豪がなまえに向き直る。凄みを残したままの瞳に見つめられ身を固くした。

「世間からすりゃアイツらが正しくて、この国のルールだ。そして俺達はそのルールに従えない。だから追われてる」

より真剣味を増した声に瞳を見つめ返すことしかできなくなる。

「今話せるのはこれだけだ。全てを説明できねェ事情がある。疑ったままでいい」
「ただ、これだけは誓う」
「俺は絶対にお前を裏切らない。アイツらはお前を捕えるだろうが、俺は違う。守るために連れて行く」

淀みなく告げられる言葉の中にあるのは、有無を言わせない気迫だけではなかった。
確信か信念か。爆豪の確固たるものが何故という疑問を超えて、なまえに訴えかけてくる。

「信じるか信じねぇかはてめぇの自由だが、」
「これは事実だ」

目を逸らすことなく伝えてくる爆豪に、なまえの両手に力が入った。

「一旦、家に寄っても…?」
「ダメだ」

間髪入れずに返ってきた否定にたじろぐ。

「テメェの家は割れてる。もう張ってるだろうな」
「でも…」

なまえの脳裏に患者達の顔が次々と浮かぶ。
ここを離れたら彼らはどうなる。
放ってはいけない。そんな無責任なことはできない。せめて医師か他の薬師に引き継がなければいけない。

「事が収まったら必ず帰す。約束する」

赤い瞳が真っ直ぐなまえを見つめる。
まるでなまえの懸念を知っているかのように、はっきりと強く言い切った。

「ちょっと待てよ…!」
「助からねぇと助けられねぇだろ」

切島の言葉に反応することもなく、爆豪はなおもなまえを見つめ続けてきた。

「今は一緒に来い」

もはや視線が合っているのかもわからないほどだった。黴臭い路地裏の影の中でも光を湛えて赤く輝く瞳がなまえの視界を支配してきて、なまえは呑み込まれるような、身体がぐらつき揺れるような心地がした。
なまえは唇を引き結び、無言で頷いた。切島が息を呑んだが、何かを言ってくる気配はなかった。

「…問題は、どうやってここから出るか」

なまえから視線を外した爆豪が呟いた。
呼吸と心臓を落ち着けようと顔を下げたなまえは、視界の端に入った下水道の蓋を見つめた。
ふと、快活な笑顔と声の数々が脳裏に浮かんだ。

──…どうだろう。

もしかしたらなまえより、何ならこの街の誰より街全体を把握しているかもしれない。
そしてなまえが頼めばきっと二つ返事で助けてくれる。そういう人達だ。
だからこそ迷いがあった。彼らを面倒に巻き込んでしまうことは特に気が引ける。

思案する声が聞こえる。通りを窺いながら無事に逃げる策を考える2人の顔は真剣で、しかし入り組んだ街の構造を把握していないだろう彼らにその算段が難しいことは明らかだった。
2人に比べて動きの鈍いなまえを守りながら街を出るという状況にいて、何もしないわけにもいかなかった。

「…あの、」

なまえは顔を上げ2人を見つめた。

「期待はしないでください。でも、」

巻き込んでごめんなさい、と心の中で呟いた。

「気付かれずに出られるかもしれません」




「ごめんなさい、後ろめたいことをさせて」

屈みながら前を進む2つの背中に声をかけると快活な笑い声が上がった。

「オイオイ、ごめんだなんて久しぶりに聞いたなぁ」
「下の人間に遣う気もないだろうに」

話し声、足音、荷馬車と蹄の音。頭上からは街の喧騒が漏れ聞こえてくる。
一方なまえ達の進む道は狭くて天井が低く、下水の篭った臭いが立ち込めていた。昼間にも関わらず真っ暗で、時折頭上に現れる板場の隙間から漏れる陽の光以外の明かりはなかった。

爆豪と切島に心当たりを伝えたなまえは、下水道の蓋を開け地下に降りた。
「夜目が効く」と言う爆豪を先頭に方々を歩くこと数分後、暗闇の向こうから足音が聞こえてきた。音が聞こえるより先に瞬時に警戒した(ように感じた)爆豪と切島に安全を伝えたなまえは、同じく警戒したように止まってしまった足音に向かって助けを求めた。
地下の迷宮で彼らに出会えるかは一種の賭けだったが、「上が騒がしいから逃げてきた」との言葉になまえは曖昧な笑顔を浮かべながら安堵の息を吐いたのだった。

「軍に追われるなんてよ、先生も意外とやんちゃだったんだな」
「いや、それは…!」

彼らの言葉に切島の言葉が被さるが、なまえは振り返り柔く視線で制した。振り返った際に鼻を覆っていた右手を離してしまい、臭気が鼻腔に広がった。
「兄ちゃん青いなァ」と含み笑う声が地下道に反響した。

「わかってるって。それに俺らからしてみれば別になんでもねぇことよ。残念ながら日常茶飯事だ」
「先生がここまでするって、よっぽどのことだったんだろ?」

なまえが顔を前に戻し苦笑いを返すと、額から口角にかけて大傷のある男に「人が良いってのも考えもんだな」と、またも笑って返された。
「足元気ぃつけて」と先頭を歩く褐色の男の声が聞こえる。足元に目を凝らすと脇道が途切れ、別の下水が横切っていた。軽く飛び越え、正面の脇道に着地する。

「なまえサン……」

どんどん先を行く2人の背中に小走りで追いつくと、同様に小走りで寄ってきた切島に声をかけられた。振り返って見た顔は困惑の色を浮かべていて、その様子を見て初めて彼らのことを話していなかったことに気が付いた。
薄暗く汚い下水道を迷いなく歩く彼らがどういった存在なのか気になるのは当然だった。

「大丈夫、信頼できる方達です」
「なに、見た目はこんなだし怪しいだろうが安心してくれや」
「アッ、いや!!そういうつもりじゃ…!!」

切島の素直過ぎる反応により大きな笑い声が上がった。
「声が大きいぞ」「ネズミしか聞いちゃいねぇよ」と会話を進め出した男達に、切島はまだ微妙な表情を浮かべていた。


狭く細くなっていく道を身を屈めながら進み下水も通らない脇道に出た頃、視線の先に丸い横穴が現れた。
はめ殺しになっている格子を褐色の男が慣れた手つきで数本外し、そのまま踏み出したかと思うや落下するように姿が消えた。なまえも後に続き顔を覗かせると、そこには土壁に覆われた薄暗い空間があった。
見慣れた景色に顔を下に巡らせると、こちらを見上げていた数名と目が合った。なまえは会釈をし、横穴から飛び降りた。

下水道では近かった天井も、この空間では頭上5メートルほどと高くなっている。
途中から暗さが増し平衡感覚が曖昧になって気が付かなかったが、どうやら緩やかに下っていたようだ。そのまま何処かの抜け道に誘われるものと思っていたなまえは、まさかこの空間に出るとは思ってもみなかった。

「兄さん、それ外してやるよ」

最後尾を歩いていた爆豪が着地するや大傷の男が手招きをした。
黙ったまま無言でついて行く爆豪を視線で追っていると、男女数名が近付いてきた。久しぶりに見る顔に挨拶を交わしていく。
10名弱の子ども達に何かを伝えた褐色の男がこちらに戻って来る。なまえ達が軍から逃げる手引きをしている旨を伝えたが特に驚く者はおらず、頷くか相槌を打つか程度の反応しか返ってこなかった。

「今子どもらに調べに行かせてる。傭兵のいない所から逃げな」
「本当にすみません。皆さんなら助けてくださるってわかってて、頼りました」

なまえが頭を下げると「やめてくださいよ」と声が上がった。

「何を謝ってんだ」
「先生が俺らを頼ってくれてよ、むしろ嬉しいよ」

穏やかな笑顔を返され、なまえの目頭に微かに力が入った。
この謝罪はきっと形だけのものだ。こう返してくれるだろうことも心の何処かでわかっていた気がする。
罪悪感を減らしたいためだけの行為に意味などあるのだろうか。

「いつも助けていただいてるんです。これくらいさせてください」

乳飲み子を抱く女性が微笑む。つい3ヶ月前の出産の折は冷や汗をかいたものだが、医師の見様見真似でなまえが取り上げた子は順調に育っているように思われた。

「……ありがとうございます」

天井の隙間から薄日が差し込み、穏やかに眠る丸い頬が柔らかく包まれた。


程なくして方々から駆け戻ってきた子ども達が次々に褐色の男に話しかけた。
そのうちの1人の少年に男が声をかけると、少年は頷きなまえ達に手招きをした。

「あの子について行きな。安全な所まで案内する」

そばに佇んでいた切島を振り返ると無言で頷き返された。
爆豪が去って行った方に視線を移すと、手枷のない手首を摩りながら大傷の男と戻ってくるところだった。赤い瞳と目が合うも、爆豪も何かを言う素振りはなかった。
なまえは男を振り仰ぐ。

「もし誰かに何か聞かれたら、その時は隠さないでください」
「あいよ。まあそもそも聞かれねぇんだけどな」

ケタケタと笑うのはなまえ達を気遣うためだけでなく、きっとそれが事実だからだった。

「あと、ひとつお願いが」

懐から紙とペンを取り出したなまえは膝の上で走り書きをし、四つ折りに畳んで男に差し出した。

「これを時計台の通りにいる医師に渡してください。しばらく戻れそうにないから患者を頼むって書いてあります」
「理由聞かれたらどうする?」

なまえが爆豪と切島を振り返ると、すまなそうな表情の切島が首を振ってきた。

「なら、こっちでテキトーに考える。それでいいよな?」
「…助かります」

徹底的に一切を詮索してこない彼らに、なまえは改めて頭を下げた。
少年の元へ駆け寄ると、「先生を頼みます」「勿論です」と女性と切島の会話が後ろから聞こえてきた。

「先生」

振り返ると、いくつもの顔がこちらを見つめていた。瞬間、迫り上がってきたものになまえは喉が引き攣るのを感じた。

「無事でな」
「…はい」

こちらを見る面々の寂しげにも見える笑みになまえはぐっと唇を噛み締めた。
「はやく」と背中から聞こえた少年の声に促されたなまえは再度一礼し、身を翻した先にある狭い横穴へ潜って行った。


長い旅の予感に、帰ると応える勇気はなかった



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