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平穏と引き換えに胸に迫ってきた切なさも、涙を流すほどではなかった。
なまえは爆豪と会わなくなった。
誘うメッセージが来るたび胸が苦しくなり、何度も返事をしそうになった。抱かれたら傷が深くなるだけだとわかっていても、快楽と爆豪の息遣いを鮮明に思い出し、その体温に触れたいと思ってしまう。
そんな自分を戒めながら、その都度断りの返事をし続けた。そのうち返事をすることも辛くなり、なまえは無言の拒否を返すようになった。
そうするうちに諦めたのか、爆豪からのメッセージは来なくなった。
安堵以上に寂しさを感じたが、涙は流れなかったし身体への異変もなかった。心と身体への負担が減るとこうも安定するものなのかと、なまえは何処か他人事のように驚いた。
それから時は過ぎた。
雄英、とりわけ1-Aは様々な困難にぶつかった。爆豪に至ってはヴィランに攫われるなどし、なまえも心配でたまらなかったが勿論何ができるわけもなかった。無事を願うしかできなかった。
近づく文化祭に校内が沸き立ち始めた頃だった。
この時期になると世話係としての役割はほぼなかった。それでも校内で会うと笑顔で寄ってくる後輩達に、なまえの胸は嬉しさで満たされていた。1年生の時に先輩に貰った分には到底及ばないまでも少しは返せただろうか、と温かい気持ちになった。
移動教室だと言って2-Aの教室の前を横切る後輩達がなまえ達に話しかけてくる。笑いながら相槌を打っていると、ふと視線を感じた。何も考えずにそちらを見てしまったなまえは、真っ直ぐこちらを見る赤い瞳に視線を絡め取られた。
無言で眉間に皺を寄せる爆豪から目が逸らせない。
もう癒えた、忘れたと思っていたものが一気にせり上がってくる。
連絡が来なくなってかなりの時間が経っていたし、そもそも身体の関係に明確な始まりも終わりもない。だからなまえの行動を非難される謂れはないはずだった。
それでも何かを訴えてくるような視線を無視することはできなかった。
──やっぱり、好きだなあ。
なまえは心の中で呟いた。
あんなことになっても忘れることのできない自分を嘲りつつも、その姿を見て高鳴る鼓動を抑えることはできなかった。
それでも戻ってはいけない。なまえは自分自身に言い聞かせた。
見開かれた赤い瞳には気付かないまま、なまえは後輩達の声に顔を引き戻した。
その日の放課後、なまえは教室で自習をしていた。
寮に戻ればついクラスメイトと雑談して時間は過ぎていくし、自室だとどうしても寛いでしまう。だから週の2、3日はこうして教室や図書室で1人勉強するようになった。
高校生の折り返し地点に来て、いよいよ卒業が現実的なものとして見えてきたここ1ヶ月の日課だった。
キリの良い所まで終えたなまえはひとつ伸びをし、帰り支度を始めた。
明日やる予定だった課題も終えることができたなまえは、明日は自主トレに時間を充てよう、などと思いながら窓の戸締りをして回った。
電気を消し、教室の前扉を開けようとした時だった。後ろ扉が開けられる音にそちらを振り返った。
「…あ、おつかれ」
「おう」
同じクラスの男子だった。後ろ手にドアを閉めたクラスメイトがこちらを見て微笑んだ。
「1人?」
「うん。忘れ物?電気点けるね」
「いや、いい」
言葉を交わしながらクラスメイトは真っ直ぐなまえに近付いてきた。その様子に微かに首を傾げると、頬を人差し指で掻きながら視線を逸らされた。どこか照れたような様子の彼になまえの動きが止まる。
「その、みょうじに用があって来たんだ。教室に残ってるって聞いて」
逸らされた視線が戻ってくる。その表情になまえに緊張が走った。
「好きだ。俺と付き合って欲しい」
そして躊躇うことなく発せられた言葉になまえは呆然とした。
あまりに突然の告白だった。仲は良い方だが互いに他の異性とも話すから特段親密というわけでもない。だからなまえにとっては友人で、そしてそれは彼も同じだと思っていた。
反応できないでいるなまえを見つめるクラスメイトの瞼が少し落ちた。「ダメかな?」と尋ねられてやっとなまえは我に返った。
「…ごめんなさい」
想いが届かない辛さを知っているだけに断ることは相当気が引けたが、なまえはその瞳から目を逸らさずに言い切った。
「…そっか」
「ほんと、ごめん」
「ううん、なんとなくわかってた。こっちこそいきなりごめんな」
「これからも友達で、いてくれたら、嬉しい」
「おう」
あっさりと引き下がったクラスメイトになまえは内心ホッと息を吐いた。遅れて鳴り始めた早鐘を落ち着かせるように胸元に左手を置いた。
「……だからさ、相談なんだけど」
そのまま微笑む彼になまえは疑いもせず顔を向けた。
「セフレだったら、いい?」
その単語に驚き危険を察知したと同時、クラスメイトに左腕を掴まれた。腕を捻り逃れようとするが相手もそれはわかっていたようで、なんと個性を使ってきた。痺れる左手になまえが怯んだ瞬間を逃さず体重を掛けてきたクラスメイトに足を取られ、なまえは床に押さえ込まれた。
痺れる腕と打った背中が痛む。普段の温和な姿からは想像できない行動になまえの背筋を冷たいものが走った。夕暮れの薄暗さのなか見上げた顔には影が落ちていた。
「ッ個性使っちゃ…!」
「ふは、この状況でもルール遵守かよ」
早く逃げなければと脚で蹴り上げようとしたが、こちらもクラスメイトの脚と触れた箇所から痺れが広がり動かせなくなった。その痛みと違和感になまえの顔が歪んだ。
「みょうじって優しいっつーかお人好しだよな。性善説で生きてる感じ」
「離して」
「だからつけ込まれんだよ」
なまえは息を呑んだ。
やはり彼は知っている。なまえはクラスメイトを睨み上げた。
「こんなこと許されない」
「それ、みょうじが言う?」
可笑しそうに笑う表情は普段の彼と変わりなかったが、それがかえってなまえの中の恐怖を増幅させた。
なんとか力を入れようと踠くがビリビリと痺れる四肢は思うように動かない。
「ほんと、ふざけないで」
「わかんねぇもんだよな」
「離して!!」
「みょうじって真面目そうだし、実際今だってそうなのに。でもセフレはオッケーなんだもんなあ」
側から見たらそうなのだろう。
でもなまえにとっては違う。身体の関係だとしても、なまえがそれを許すのはたった1人だけなのだ。
「最近爆豪と会ってなさそうだけど、関係解消したとか?」
普段と同じトーンで話しかけてくるクラスメイトを無視し、なまえはなんとか脱け出ようと身体を捩り続けた。それでも四肢の感覚は戻らず、なまえは唇を噛んだ。
「大丈夫、終わる頃にはちゃんと戻るように調節してるから」と微笑む顔を再度睨み上げた。
「こんなことして、退学ものだよ」
「んー、でもまあ、みょうじ優しいから。言わないかなって」
そう言って左頬を撫でられ、なまえは目を見開く。
「俺、誰にも言ってないよ。みょうじの印象悪くなるとかやだし」
そう言って口角を上げる彼に戦慄する。
「みょうじのこと、前からいいなって思ってたんだよ」
ヒーローを目指す人間がこんなことに屈してはいけない。
「優しくするから。少し静かにして、な?」
「…や、だ」
恐怖し懇願するなど、あってはならない。諦めてはいけない。
それでも女の本能が恐怖を訴え、心臓と脳を激しく揺さぶってくる。
なまえは激しく頭を振った。その勢いに一瞬頬から離れた右手が、今度は首筋に触れてきた。急所をとられたなまえはぴたりと固まってしまう。
「そんな顔すんなよ」
「やめて……っ!!」
近付いてくる唇に顔を背ける。首筋に生温かい息がかかり、その嫌悪感に全身が一気に粟立った。
「オイ、離れろ」
なまえがギュッと瞼を閉じたとほぼ同時、ドアがスライドする音がした。そして聞こえてきた声は懐かしいもので、なまえは弾かれるように瞼を上げた。
視線の先の爆豪の姿になまえは息を詰まらせた。
「聞いてンのか」
久しぶりに聞く低音に身体が反応してしまう。
爆豪のことを考えたり思い出すことなどめっきり減ったのに、今日の昼間同様、いざその姿を目にすると爆豪への感情や触れ合った時の感覚が昨日のことのようにまざまざと蘇ってくる。
どれだけ奥底に仕舞っても、そしてこんな状況下でもいとも簡単に姿を現わす恋心に辟易しつつ、なまえは爆豪から目を逸らした。
「お楽しみのとこワリィが、それ、完全アウトだろ」
「…どの口が言ってんだ」
押さえる力が緩む気配になまえはすかさず腰を捻り転がった。まだ手脚が痺れていて立つことが出来ない。なんとか身体を起こしたなまえは近くの机に寄り掛かり、乱れてもいない着衣を直すように身体を抱き込んだ。
「俺は知ってる」
「はぁ」
「とぼけんな。お前もみょうじに同じことしてただろ」
「一緒にすんじゃねェよクソカス犯罪者」
一層ドスの効いた声が響き、なまえはびくりと身体を震わせた。
「全然ちげェ」
眼光鋭く言い放った爆豪になまえは竦んだ。その視線は強く冷たく、クラスメイトを射抜いていた。その剣幕に圧倒されたのか、クラスメイトの背中が声もなく後退ってきた。
呆然とするなまえをちらりと見やった爆豪に微かに身体が震える。見つめ合うこと数秒後、爆豪が口許だけで笑った。
「俺とはゴーイの上なんだよ。なァ、センパイ?」
冷たく笑いながらこちらを見下ろす顔になまえは目を見開き、そして俯いた。
そのまま小さく頷くと「ホラな」と笑う声が聞こえた。
「勘違いのサルが盛んじゃねェわキメェ」
そう言って小さな爆発音が響き、なまえはさらにきつく身体を抱き込んだ。舌打ちの音が聞こえる。
なおも立ち去る気配のないクラスメイトになまえは一つ深呼吸をした後、俯いたまま声を掛けた。
「黙ってるから。だから、もう行って」
声が震えてしまわないかが心配だったが、思いの外平坦で無感情な声が出せた。その声色に怒りを感じ取ったのか、クラスメイトは再度悪態をつき走り去って行った。
そのままの状態が1分程続き、なまえがスクールバッグを手繰り寄せようとした時だった。
爆豪がこちらに近付く気配がした。
なまえは伸ばした手を瞬時に引き戻し、身体の前で握り込んだ。
早く立ち去らなければと思うのに、愛しい気配に身体が止まってしまう。先ほどの冷たい表情が脳裏に焼き付いているのに離れたくないと思ってしまう。
来ないで、と願うなまえの視界の端に靴が入り込んだ。その近さを認識してなまえは顔が熱くなるのを感じた。
「逃げろよ」
呟かれた言葉に微かに目を見開いた。
「なにボケっとしてんだ」
「え…?」
言葉の意味を測りかねたなまえはゆっくり顔を上げた。
いつも通り、眉間に深い皺を寄せた爆豪がこちらを見下ろしていた。ただその瞳は嗜虐的でも嘲るものでもなくて、どちらかといえば苦しんでいるような、辛そうな色だった。
「逃げねぇんかよ」
「え、なに、」
「嫌なんだろ」
「ばくご、くん」
行動と言葉が裏腹な爆豪になまえは混乱する。
その真意を測りかねていると、突然しゃがんだ爆豪に左腕を掴まれた。先程の恐怖と重なる行動になまえの身体が強張る。思わず瞼を閉じたなまえの右耳にあの低音が響いた。
「それとも、久しぶりにシてぇの?センパイ」
愛しい声に乗って届く心無い言葉に胸が切り裂かれた。涙がせり上がってくる。
なまえは左腕を捩り、爆豪の右手を振り払った。
「だめ」
やっとそれだけ発したなまえだったが、相変わらず足が言うことを聞かない。
途端に下りた沈黙に居心地の悪さが増していく。
「やっぱ嫌なんじゃねぇか」
ポツリと呟かれた言葉は諦めのように聞こえた。次いで聞こえた鼻で笑うような気配に身を竦める。
「コケにしやがって」
苛立ちを隠そうともしない声になまえがさらに身を縮こめていると、唐突に左肩を掴まれた。その強さに反射で顔を上げると、こちらを冷たく射抜く赤と目が合った。
「もう関わんな」
目を合わせてしまった昼間のことだろうか。その口から発せられる冷たい感情がなまえを容赦なく抉った。
そのまま爆豪は立ち上がり、教室から去って行った。
足音が聞こえなくなって、なまえはその場でさらに小さく蹲った。
耐えていた涙がぼろぼろと溢れ、口を両手で抑えるも嗚咽は止まらない。
あんなにはっきりと嫌悪を向けられたのは初めてだった。
一方的に離れたことで嫌われただろうことはわかっていたが、いざ本人の口から聞かされると一切の望みがなくなったことを思い知らされ、目の前が真っ暗になる。傷つかないなど到底無理だった。
────なに、期待してたの。
爆豪がクラスメイトを詰めた時のあの一言。違う、と言い切った姿を思い出す。
あの時、「違う」の指す意味に期待してしまった。身体目的、セフレ、そういったことを否定してくれるのかと思ってしまった。あのタイミングで現れた爆豪にまさか助けに来てくれたのかと浮かれてしまった。
しかしその直後の冷たい嘲笑になまえはどん底に突き落とされた。なまえに寄せる心など無いとわかっていたのに、そうであって欲しいというなまえの願望が、期待が、かえって自分を深く傷つけてしまった。
なまえは泣きながら自らを罵倒した。もう2度と期待する気力も湧かないように自分で自分を傷つける必要があった。
こんな思い、もうしないはずだったのに。
頭の片隅で冷静な自分がまた呟いた。
遅すぎた無垢
暮れていく教室で1人、止まらない嗚咽を拾い続けた