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この恋を捨てるしかない。
でもどうすれば恋心が消えてくれるのか、わかるはずもなかった。
幾分回復したところに爆豪とのあんな接触があって、なまえは再び気落ちしていた。
その変化を隠そうにも隠しきれていないなまえを友人は心配してくれたが、「なんでもない」と意味のない嘘をつくしかできなかった。
「できることあったら言いなよ」と背中を叩く友人に話すこともできなかった。信頼する友人を裏切り、爆豪を不快にさせ、自分自身を蔑ろにする。そんな自分がもう嫌だった。
全てなまえの自業自得だ。
早く立ち直って、もしくはしっかり隠して、周りに気取られないようにしようと誓った。
今度こそ振り切るように勉強や演習に集中した。突然に調子の上がったなまえに「今までサボってたのか」と担任に笑われるほどだった。
インターンでも同様だった。正直そのしんどさに何度も根を上げそうになったが、「良い動きするようになったじゃん」とMt.レディに言われてからは何があっても食らいついていこうと気合を入れ直した。クラスメイトと同じ教室にいなくて済む安心感もあり、なまえはインターン活動にのめり込んでいった。
ヒーローになる以外のことを考える余地を自分に与えたくなかった。泳ぎ続けなければ死んでしまう魚のように、なまえは来る日も来る日も動き続けた。
そうして経ったある日の放課後、なまえは図書室で勉強していた。インターンに主軸を置きながら目前のテストに向けて遅くまで勉強する日々を送っていたからか、この日は眠気と吐き気、そして頭痛があった。さすがに危ないかもしれないと早めに切り上げ席を立ったが、その瞬間に足元が少しフラついた。なんとか持ち堪え、図書室を後にした。
廊下の壁に手を伝せながら覚束ない足取りで歩く。
進む先は1年生の廊下だったが、その時のなまえはその道を避けて迂回しようなどと考える余裕がなかった。
「なまえセンパイ!?」
「大丈夫ですか!?」
その声を聞いてから、しまった、と思った。
ただもう引き返す気力もなく、廊下の向こうから駆け寄ってくる芦戸と麗日にへらりと笑うしか出来なかった。
「久しぶり。だいじょぶだよー」
「いや、ぜんっぜん大丈夫じゃなさそうです!病人顔してる!」
「リカバリーガールのとこ行きましょ。ついていきます」
「ただの睡眠不足だよ。部屋で寝たら治る」
「でも、身体熱いですよ…」
「ほんとに平気。ありがとう」
──弱いなあ、結局気取られてる。
なまえの背中を撫でる麗日の眉の下がった表情に罪悪感が募る。誰にも気取られないようにと心に決めたことを完遂できない自分に嫌気が差した。
「なら、寮までついていきますから。ね、麗日」
「うん。鞄持ちます」
「…ごめんね、ありがとう」
なんて優しいんだろう。そして自分はなんて弱くて甘えたなんだろう。
今日はしっかり寝て休もう、と2人に寄り添われながら再び歩き始めた。
辛すぎて頭を上げられない。芦戸が話しかける声が聞こえるが、その声も膜を張った向こうの音のように遠ざかっていく。やばい、と思ったなまえは少しでも早く立ち去るべく歩みを止めずに進んだ。
途端、なまえは浮遊感に襲われた。芦戸と麗日の驚く声が聞こえる。なまえは朦朧とし、そのまま意識を手放した。
視界に広がる白が天井だと理解するまでに5秒ほどかかった。蛍光灯の明かりの強さになまえは眉を顰めた。
緩慢な動作で瞬きを数回しながら天井を見つめた後、なまえは顔を横に向けた。カーテンがゆらゆらと揺れていた。
────保健室?
ズキリと痛む頭と左半身に廊下で記憶が途切れたのを思い出した。
──2人には悪いことしたな。
何が世話係だ。自己管理ができないうえに後輩達に迷惑をかけてしまった。
きっと保健室へ連れて来てくれたのだろう。もしかしたら近くにいるかもしれない、礼を言わなければとなまえは上体を起こした。
カーテンに手を掛け開いた先には、椅子に座るリカバリーガールがいた。カーテンを引く音に振り返ったその顔は柔和な笑みを浮かべていた。
「気分はどうだい?」
「少しはマシになりました」
椅子ごと回転しなまえに向き直ったリカバリーガールが頷いた。
「ちょっとした過労だろうね。アンタ、まともに寝てないだろう」
「仰る通りです…」
「やることはいっぱいあるだろうけどしっかり休みな。でなきゃヒーローなんて務まらないよ」
「はい。すみませんでした」
そう言ってベッドに座ったまま頭を下げると、歩み寄ってきたリカバリーガールに500mlのミネラルウォーターを差し出された。
「連れて来てくれた子からだよ」
まだ少し震える手で受け取る。冷たいだろうと思ったそれは常温だった。蓋を開け一口飲むと貼り付いた喉が潤う感覚に少しほっとする。飲みやすい温度にさらに口をつけた。
「すごい心配してたさ。回復したらちゃんと礼を言っとくんだよ」
「はい」
芦戸と麗日の顔が浮かぶ。彼女達の言うことが正しかった結果になまえは本当に情けなくなった。
俯き肩を落としたなまえに「慕われることは良いことだ」と穏やかな声がかけられた。
週末を挟んで回復したなまえは芦戸と麗日に謝罪と礼を伝えた。眉を下げながらこちらを見る2人にもう無理はしないと笑ったが、それでもその顔が晴れることはなかった。
どこまでも優しい後輩達になまえの心は温かく痛んだ。
放課後はバンド練習で絞られていると嘆いていた上鳴の話の通り、教室に爆豪の姿はなかった。勿論そのタイミングを狙ったのだが、それでもその存在を意識せずにはいられなかった。
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「インターン中もなまえ先輩と一緒とかマジラッキー!」
「わたしも嬉しい。頑張ろうね」
「今度こそコスチューム破れる系のラッキースケベ期待してます」
「え?」
「お前先輩にまでそうなのかよ」
例年であればインターンへの参加は任意であるはずの1年生が、今年は必修になった。
そしてエッジショット、シンリンカムイとのチームアップをMt.レディから聞かされていたなまえは、上鳴、峰田、瀬呂と今後の予定を確認していた。
「もう体調大丈夫なんすか?」
「うん。ただの寝不足が原因だったし今はもうすっかり。その節はごめんね…」
「廊下で気ぃ失ってんだもん。ビックリなんてもんじゃなかったですよー」
「う…」
恥ずかしい話題を掘り返すのはやめてほしかったが助けてもらった側のなまえが強く止められるはずもなく、乾いた笑いを浮かべる他なかった。
「そういえば、先輩」
「ん?」
悪戯っぽい上鳴の声に顔を戻した。
「なまえ先輩って爆豪と仲良いんスか?」
ニヤニヤと笑う姿になまえは微かに目を見開く。
クラスメイトに組み敷かれた時の映像が脳裏を過ぎる。血液か冷えるような感覚に指先が痺れた。
「…入学したての頃にちょこちょこ話したくらいだよ」
「へー」
上鳴はそんな子じゃない。その手の話題をしたいだけだとわかっていても、なまえの脳内にはあの日の影がこびりついていた。
何故そんなことを聞くのか。たった一言尋ね返すだけなのに、重く鼓動する心臓に口を開くことができなかった。
なおも興味津々といった様子でこちらを見る上鳴の表情に、机の下で握り締めた左手を右手で押さえつけた。
「不躾すぎんだろ。みょうじ先輩スンマセン」
「あ、ううん」
瀬呂の言葉に微かに肩の力が抜けたが、それでもなまえの緊張は残っていた。
「いきなりなんなんだよ」
「えー、あん時の爆豪思い出して、ただなんとなく」
「…え?」
揶揄いの色が薄れた上鳴が頭の後ろで腕を組んだ。
「ちょっとソッチ方面疑ったっつーか。なあ?」
「俺に同意を求めんな」
呆れたような声を出した瀬呂の横で、「野郎の恋愛事情なんてどうでも良いんだよォ…!」と峰田が缶ジュースを煽った。
「ば、くごうくん、なにかあったの?」
その名前に、鋭く威嚇してきたあの日の赤が蘇る。
少し突っかかってしまった声になまえは内心焦ったが、3人は特段何も思わなかったようだ。
「あれ?先輩のこと保健室まで運んだじゃないすか」
キョトンとした上鳴の表情に食堂の喧騒が一気に遠退いた。
表情も動きも止まってしまったなまえだが、「知らなかったんですか」との瀬呂の声に瞬時に我に返った。
「う、うん。倒れる直前まで話してたの、お茶子ちゃんと三奈ちゃんだったから。てっきりそうだと」
「2人も付き添ってはいたんすけどね」
「そっか。3人もなんて、ほんと恥ずかしいや」
惚けるのに必死だった。
「心配してくれてありがとう」と一層明るく笑ったなまえはそのまま会話を本題に引き戻した。強引に切り上げた様子にも、特に何を思われたわけでもなさそうだった。
そうだ、なんでもないことだ。
爆豪だったからどうしたというのだ。
気絶した人間を女2人で連れて行くのが難しかったのだろう。2人に手助けを頼まれて仕方なく運んだとかそういった理由はいくらでも浮かぶし、そもそも人が廊下で倒れていて助けないヒーロー科の生徒などいないだろう。
苛烈な嫌悪を、冷たい眼光を忘れてはいない。
あの日、なまえに向けられた感情の全てが事実だった。嘲り見下ろす視線は確かになまえに向けられていた。肩を掴む手の力に手加減など一切なかった。
だから、「もしかしたら」などと意味を見出そうとすることがいかに愚かなことか、なまえが一番わかっていた。
早く消えてしまえ。
貼り付けた笑顔の裏側でただひたすら唱え続けた。
空っぽの心臓が哭いた
誰にも届かない、届ける気もないんだ