完全に脱力した身体を抱え直した爆豪は到着したエレベーターから降り、静まり返った内廊下を迷いなく歩いた。
目的の扉の前でカードキーを差し込むとピ、という電子音と共にカチャリ、とロックが外れた音が鳴った。
小さな身体を左腕と左肩で抱えながら右手でドアノブを掴んで引く。玄関に足を踏み入れ踵でスニーカーを脱ぐと、そのまま続く廊下を突き当たりのドアまで進み、今度は押し開いた。
陽の光で暖かく温もったリビングに視線を右にやると同時、ソファに座ったなまえが振り返った。
「おかえり」
「寝た」
「ちょっと待ってね」
ソファから立ち上がったなまえが手近のクッションとタオルケットを手に取る。ソファの向こう、窓近くのカーペットの上に寝床を用意するなまえに近付いた爆豪は、「ありがとう」との声を合図に腕の中の息子をそっと降ろした。一瞬身動ぎをしたが深い眠りは解けないようで、寝息に上下する胸と鼻腔以外は動かなかった。
息子にタオルケットを掛けるなまえから顔を外した爆豪はソファを振り返った。その上には家を出る時にはベランダで干されていたはずの洗濯物が整然と並んでいて、爆豪は微かに右眉を上げた。
「休んどけっつったろが」
顔を戻して言うと、「洗濯物取り込んだだけだよ」と微笑みながら息子を見つめるなまえがいた。
その横顔と眠る姿に束の間の日常を実感する。
軽く息を吐くと疲れていると思ったのか、「コーヒー淹れたげるね」となまえが腰を上げた。
すかさずなまえの手を握った爆豪は柔い力で引き、ソファに座らせた。きょとんと見上げてくる瞳に「いいから休め」と言い切ると、その瞳に憂いの色が浮かんだ。
「過保護だよ。むしろ動かなきゃ」
「そういうことじゃねェんだよ」
「じゃあどういうこと?」
素直に甘えればいいものを出掛けの出来事がある手前なのか、少し意地を張った物言いが返ってきた。
「自分のことは自分でする」
「せっかくの休みの日にのんびりしてほしいっていう思いやりだよ」
「そりゃテメェもだろが」
「わたしは毎日ぬくぬくさせてもらってるよ」
そんなわけねェだろ、と言うつもりで開きかけた口を閉じる。
こちらをじっと見上げてくるなまえに無言を返した爆豪は、全ての洗濯物を手に取りリビングから出て行った。
3分そこそこでリビングに戻ると、今度は左手のカウンターキッチンからゴリゴリ、とミル挽きの音がした。
その姿に眉を顰めると同時、電気ケトルのスイッチがカチ、と軽い音を立てた。
「ごめん。わたしがイライラしちゃいけないのに」
手元から顔を上げないままなまえが発した謝罪にも無言を返した爆豪は、そのままカウンターキッチンに入った。
頭をポンポンと軽く叩いた後、後ろの食器棚からマグカップを2つ取り出しカウンターに置いた。そのまま食器棚横の麦茶のペットボトルを手に取り、黄土色のマグカップに注ぎ入れる。
「里帰りしねぇなら次はシッターか家事代行雇うからな」
「え…、いいよ。高いしもったいない」
「産後なめんな。車に撥ねられて休まねぇヤツがいるかよ」
「なにその妙にそれっぽい例え」
「勝己っぽくない」と笑うなまえに爆豪の眉間の皺は深くなる。その様子に気付いたのか、なまえは笑うのを止め、代わりに眉が八の字に下がった。
「あんなふうに怒っちゃ勝己も不安だよね。ほんとごめん」
「……ちげェわ」
つい2時間ほど前、何度言い聞かせても喚く息子に苛立ちを抑えられなくなったなまえが怒鳴り散らした。
しかし息子は全く気にする様子もなく自由に振る舞い続け、なまえの顔には苛立ちに加えて疲労の色が浮かんで見えた。その光景に爆豪は「休んでおけ」とだけ言い残し、息子を外遊びに連れ出したのだった。
休めというのは心の底からの言葉だったし、なまえが疲れるのは当然だとつい先程身に染みたところだった。
久しぶりに──2ヶ月の長期遠征振りに息子と過ごした。
最初のうちはたった2ヶ月でこんなにも変わるのかとその成長ぶりに感心したし、嬉しそうに自分の脚に纏わりついてくる姿にやりたいようにやらせよう、とことん付き合ってやろうと思っていた。
しかしそんな気持ちは公園に着いて30分で立ち消えてしまった。
こうもフラストレーションが溜まるのかと絶望した。
同じことを繰り返し尋ねてくる、かと思えば突然違うことに興味を持つ、勝手に道路に飛び出す、危ないから手を繋げと言えばイヤだと首を振る、叱れば喚く。
大人の常識や親の心配など関係なく自由奔放に振る舞う姿に何度怒号を浴びせそうになったか。正確には一度だけ雷を落としたのだけれど、息子とベンチに座っていた老夫婦の固まる様子にこれは不味いと改めたのだった。
子供だから当然だとわかってはいる。
それでも自分も人間、常識が備わってしまった大人だからこそ、その振る舞いに苛立ちを感じてしまう。
そしてなまえは毎日たった1人で向き合っているのかと思うと少しゾッとする思いもした。
だから、言うことを聞かない息子を感情的に怒鳴ったことを非難するつもりなど微塵もなかった。そんなことが多くはないということは、なまえに向けられる息子の表情を見ていればわかる。
育児は仕事とは違う。
仕事はある程度の共通認識を持つ大人同士がコミュニケーションを取り、対価もある。
片や育児は親の義務、愛情という形のないものによって接し、何があっても守らなければならない。何をしていても常に何処かの神経がピンと張っているような感覚がある。
望んで得たのだからそれを受け止めるのは当たり前だし、そこに何かを言うつもりはない。けれども疲れるのは事実で、弱音を吐く場所が身近にないのかもしれないなまえを思うと何かを言えるわけがなかった。
この小さい世界を守る負荷は当事者にしかわからない。
「確かにさっきのはやばかったけど。でもママ友とかお母さん達とお茶したりしてさ、それなりに気晴らししてるし」
「…」
「そんなに気遣わないで。役割分担なんでしょ?」
黒色のマグカップにセットしたドリッパーにお湯を注ぐ横顔は申し訳なさそうだった。
そんな顔をするな、との言葉は呑み込んだ。
今回の長期遠征中、他のサイドキックが「こんだけ遠征が続くと、また『たまに来るオジサン』に戻っちまうなー」と苦笑いを浮かべていた。
何のことを言っているのかわからず無視していると「爆心地、お前息子くんに父親認識されてんの?」と話題を振られたのだ。
「ヨメさんがどんだけ言ってもダメ。泣かれるか、遊んでても夜になったらバイバイって言われる」
「そのうち『帰ってこないからでしょ。本当に仕事なの?』って言われるし」
「マジで立場ねー」と肩を落としながらくどくど続けられる言葉は爆豪には全く当てはまらなかったし、息子が自分を父と呼ぶのは当然のことだと思っていた身としては思いもよらない話だった。
息子が周囲を認識し始めた頃から遠征が増え、触れ合う時間がぐんと減った。帰宅できても息子は寝ていたし、朝も日が昇らないうちに家を出ることがほとんどで息子の頭をひと撫でするしかできなかった。考えれば、起きている息子と顔を合わせたのはひと月に5回もないのではないだろうか。
では何故息子が自分を父親と認識し懐いているのか。そう考えた時、やはり過ったのは目の前で眉を下げるなまえのことだった。
「勝己がたくさん働いてくれるから私たちは何の心配もなくぬくぬくできてる。だから休みの日は休んでよ」
守るだけじゃない。毎日毎日、たった1人で、あの小さい世界に色々なものを与えてくれているだろうことが息子を見ていてよくわかる。だから息子は自由奔放で無邪気でよく笑い、我が儘も言うし駄々も捏ねるのだろう。
そしてほとんど帰ってこない自分に不満はあるはずなのに、なまえは非難や泣き言を向けてこない。何か言いたげな視線を感じることはあるがそれはほんの一瞬で、そうして耐えてくれることに甘えていたのも事実だった。
正直、頭が上がらなかった。自分の性格上、面と向かって言えるわけはないのだけれど。
マグカップを2つ持った爆豪はソファに向かい、ローテーブルに置いた。ついてきたなまえとソファに並んで座る。左端に視線をやると、窓から差し込む陽の光がレースカーテンを通して水面のように煌めいていて、息子の無防備な寝顔を撫でていた。
「なんか欲しいモンねぇんか」
ソファに浅く腰掛け、黄土色のマグカップを手に取ろうとしたなまえがくるり、とこちらを振り返った。伸ばした右手はそのままにこちらを見る瞳は驚いていた。
「どうしたのほんとに」
「ア?ンだその顔は」
なまえの不遜にも取れる反応に昔の自分なら軽く引っ叩いていたところだが、口で言うに留めた。
「人の思いやり受け取るんじゃなかったんかよ」
「いや、何か裏があるんじゃないかなって、つい」
「……へぇ、ヤサシイ旦那様に向かって随分な態度じゃねェか…!!」
「そういうとこだよ!」
慌てたように両手を振ったなまえが思案するように視線を上にやったが、数秒後「ないかなぁ」と零した。
「ごめん、思いつかない」
「可愛くねぇな」
困ったような表情を浮かべたなまえが顔を正面に戻し、黄土色のマグカップを取る。
「何欲しいとか何したいとか、ゆっくり考えることがなくて」
そんなことを言われてはまた閉口するしかない。
なまえに倣うように顔を正面に戻した爆豪はローテーブルに置いた黒色のマグカップを手に取り、ソファに深く座り直す。背凭れに沈みながらコーヒーを飲むと、なまえも麦茶に口をつけた。
正面のテレビでは大して面白くもない話題でタレント達が楽しそうに笑っていた。
「……あ、あった」
なまえの声に顔を左に向けると、少し躊躇うような顔色がこちらを向いた。そのまま無言で見つめていると「物じゃないんだけど……」と、先ほどよりゆっくりとした言葉が続いた。
「産まれる前に、勝己と2人で出かけたい、かも」
そう言ってなまえは空いた左手を下腹部に当てた。
少し膨らんできたそこを撫でた後、今度は顔を向こうに向けた。爆豪もつられて視線を向ける。すると息子が寝返りを打ち、その拍子にタオルケットがずり落ちたのがなまえの肩越しに見えた。
なまえがマグカップをローテーブルに置き立ち上がる。
「この子には悪いけど、産まれたらいよいよデートなんてできなそうだし」
息子のそばに膝を下ろしたなまえがタオルケットを掛け直した。その後振り返った瞳は窺うような視線を寄越してきた。
なんだそんなことかと思ったし、そんなことでさえ遠慮させていたのかと少し反省した。
爆豪が「今度ジジイとババア招集する」と返すと、なまえは「やった」と頬を緩ませて微笑んだ。少女のように綻んだ表情が久しぶりで、胸が擽られたような気分がした。
その後ソファに戻ってきたなまえが眠ってしまうと、その髪に指を差し入れるように撫でながら、爆豪は母親にメッセージを送った。
俺らがいなかったら泣くかもな、と思いながら見た息子は、温かそうな光のなかで変わらず無防備に眠っていた。
春が温む午後
はじめまして、うまこです。
「2歳の子どもと3人でおうちでまったりしながら過ごす」とのことでSNS中心に調べてみましたが、世の親御さんの忍耐力にただただ頭が下がる思いでした。そんな気持ちを爆豪くんに代弁してもらいました。ただ2歳児を正確に描写にできる自信がなく、ねんねしてもらいました…。ご期待に添えていませんでしたら申し訳ございません。
リクエストありがとうございました。