想い出

『キバナが俺の事倒すの、いつになんのか楽しみだな』

「…………はっ、」

しまった、寝てしまっていた。突っ伏した机にはぐちゃぐちゃになった書類と涙で濡れて滲んだ判子の痕。あーーーあ、やらかしたどころではない。幸いここの相手には直接謝りに行けば許してもらえるからいいが、他の書類だったらおそらく俺は社会的に死んでいた。数日間睡眠を取らないと、人間は限界を迎えるらしい。真っ暗な外から漏れ出す月の明かりがやけに眩しく感じた。と思ったらなんだ、部屋の灯りがついていないだけだった。デスクライトだけが頼りになる唯一の光だったわけだ。そりゃ月も明るいわ。

懐かしい夢に魘されてしまった。その中で笑っていた彼は今どこにいるんだろう、恋人と仲良くやっているのだろうか。いや、下品な意味じゃなく。普通に。仲良く。どうしようもなくなった紙をくしゃくしゃに丸めながらぼんやりと考えた。すると頭の中はそれでいっぱいになってしまいまたじわじわと涙が滲み出す。会いたい、会えなくても声が聞きたい、なんか励まされたい、甘やかされたい……だんだん我儘になっていく欲求と仕事から離れていく思考。早く終わらせて帰らなければならないのは分かっているし、このまま続けたところでまともに回らない脳じゃ仕事もできないことなどとうに理解している。けれどさっきから脳裏にチラついて離れない十年前の彼の優しげな笑みを振り切りたくて、でも縋りたくて堪らないのだ。

「………………あいたい」

他人の恋人になんて感情を抱いているのか! 我ながら愚かすぎる。好きだ、好き。会いたい、お疲れって言って欲しい、頑張ったなって褒めて欲しい、おやすみって頭を撫でて欲しい。無意識にポケットに手を伸ばし、ロトムの入っていないスマホを取り出した。シュッシュッと少しだけスワイプとタップを繰り返すと会いたい人の名前を見つけて、思わずメッセージ履歴を眺めてしまう。最後の会話はポケモンに関するものであったが、それを見れただけで何故か満たされた。すいすいと親指が勝手に動く。……ダメだ、仮眠を取ろう。ロングソファに勢いよく横たわり腕で顔を覆って目を瞑る。よほど限界に近かったのか、すぐに睡魔が襲ってきて意識は沈んでいった。







『俺はダンデに勝てたから、もうポケモンバトルは十分なんだ』

「………………ぅ……、はっ!!」

今何時だ、思いっきり寝てしまった! と一気に覚醒する。くそ、また夢なんて見たせいで寝た気がしない……。時間を確認しようと壁にかけてある時計の方へゆっくりと視線を向ける。と、視界にに入ったのは時計ではなく人の顔だった。

「おはよ、キバナ」
「っは!?」
「起きるには早すぎるかな?」

向かい側のソファに腰掛けて携帯を眺めていたらしいその人は俺が文字通り夢にまで見た好きな人で、こちらに顔を向けて人好きのする笑みでおはようと呑気に声をかけてくる。いや、どうしてここに居るんだ。というかどうやってここに入った? なんで来た? 疑問点はいくつだってあるが、寝起きドッキリを仕掛けられたような頭は正常に働かない。まだ疲れが取れていないのもあるから仕方が無いが……。

「会いたいって言ってたろ」
「言った…………いや言ったっけ?」

たしかに呟いた。ぽつりと、誰にも聞こえない声で、誰もいない部屋で。それがどうして本人に伝わってしまっているのか全く想像がつかない。もしかして盗聴? いやまさか、そんな事をする男ではない。この××というお人好しは。

「メッセ見てみ」
「え、……あ゙っ」

眺めてニヤニヤしていた彼とのメッセージ履歴。その一番最後に「あいたい」とだけ送信済みになっており、既読だけでなんの返信もないその画面を数秒見つめた後にふと我に返りガバッと上半身を起こす。ぱさりと落ちた毛布は彼がかけてくれたのだろうか、優しい、好き。

「ごめん、オレ」
「謝ることじゃないよ。むしろあんな遅くまでお疲れ様」
「今何時……?」
「朝の五時」

昨夜の時間は……メッセージの送信時間が深夜三時になっているので二時間も寝てしまったということか。逆に、その二時間の間に彼は会いに来てくれたのか。シュートシティからナックルの中心に位置するスタジアムまで。わざわざ、俺のことを心配して。

「仕事まだ残ってるの?」
「まだ全然終わってない」
「大変だなぁ」

薄いTシャツに軽いサンダルの圧倒的軽装備。そのサンダルの音をぱかぱかと鳴らしながら俺側のソファまで歩いてきた。スマホを向こうに置いたまま。

「なにか俺にできることある? 手伝うよ」
「…………××、」

疲労困憊の寝起きにそんな優しい笑顔で心配されてときめかない訳が無い。わざとやっているのか? 俺をもっとおかしくするつもりか? ひどい男だ、だけど、だから好きなんだ。ゆっくりと彼の顔に手を伸ばした。頬をするりと撫でても抵抗しないので、そのまま真っ直ぐに瞳を見つめる。そこに映る自分があまりにも情けなくて鼻の奥がつんとした。泣きそ。

「……好き、付き合ってくれ」
「……………………キバナ、」
「それはダメだぜ!!」
「うわぁっ!!?」

××の肩からひょいっと顔を出して大声を出したのはダンデだった。少し濡れている髪、こちらも薄い……なんかちょっとダサめなシャツ一枚。あの家特有の光溢れるニコニコした眩しい笑顔は寝起きの俺には刺激が強すぎる。というかうるさい。

「浮気か? 許さないぞ」
「いや俺何も言ってないじゃん」
「キバナもキバナだ! 俺が居ない時はいつもそうやって××を誑かしているんだろう」
「まあ……好きなのは事実だし」

二人してダンデから説教をくらい気まずい雰囲気になってしまった。××の腰にはダンデの腕が回っていて、抱きしめられているのが正面から見て分かる。ダンデは納得いかないようでじっと俺を見つめてくる。

「ふふっ……ほんとお前らは幸せそうだな」
「幸せだぜ、俺は」
「××は?」
「俺? うーん……幸せ……?」
「なんだそりゃ」

この二人を見ていると馬鹿馬鹿しく思えてきた。悩んでいたことが吹っ飛んだかのように気持ちが軽くなる。なんだろう、マイナスイオンでも放出しているのか、このカップル。俺の大好きなライバルと、俺の大好きな彼。本当にお似合いだ、素直に祝福しよう。

「なあ××」
「ぅん?」
「バトルしよーぜ」
「…………仕事は?」
「そんなん後だ後!! 俺は今、お前とバトルしてぇの」


夢の中で笑った彼に、未練を残したくなかった。彼と一度たりとも勝負をしないまま、彼ら二人を認めたくなかった。俺が彼に恋焦がれるようになったきっかけ、それは約束だ。ジムチャレンジの場で勝負をしようと約束したのに、目の前の男はダンデに勝てたからといってジムチャレンジを辞退したのだ。それが信じられなくて背中を追いかけているうちに好きになっていた。約束を破るようなそんなずるい所でさえも、大好きなのだ。


「オレが勝ったらキスしてくれ」
「それは俺が許さないぞキバナ!! キスは俺を倒してからにしろ!!」
「なんかの悪役かよ。いいよ、バトルしよっか。……ただし」

頭に暖かい感覚が乗っかった。彼の大きな手だ。俺よりは小さいが、存在が大きくて、たくさんの人を喜ばせてきた手。

「ゆっくり休んでからな。おやすみ」
「ぁ……」

その一言で一気に眠気が襲ってくる。ソファに寝転びすぐにすやすやと寝息を立て始めてしまった。

「××、負けたら許さないからな」
「……勝算はないけどさ。小さい頃の約束があるし」
「約束?」
「キバナが俺の事倒すの楽しみだな〜〜って言ってたんだ。お前に勝てて有頂天になる前だよ。懐かしいな」

二人が仲良くしている。その音が聞こえなくて本当に良かったと思う。多分、聞いてしまったら泣き出してしまったから。





目を覚ました時、昼を超えていてダンデはいなかった。××曰く仕事でシュートシティへ向かったらしい。お前は仕事は? と聞いても「今フリーなの」と返されて少し心配になった。ダンデがいない今なら、と思って彼の頬を手で包み唇を寄せたけれど、彼の人差し指一本に遮られ叶うことは無かった。でもいいのだ、俺は何度でも、こうして彼に迫り続ける。そうだな、具体的に言えば俺か彼が死ぬまで。