幸せの呪文


甘やかされたいって、そんなの初めてなんだ。

「…………ただいま」
「おかえ……うわっ、どうしたの?」

明らかに疲労困憊な様子の彼が、フラフラとした足取りでこちらに向かってくる。ロングソファの左側に寄りスマホを弄っていた私の横に、全てを投げ出すようにぼすんっっと勢い良く座った。背もたれに体重を預け私のスマホを取り上げる。

「構って欲しい」
「はいはい、分かったから。お仕事お疲れ様」

彼はバトルタワーのオーナーだけでなくリーグ委員長も務めている。ローズ前委員長がやっていたことを継いで、新しいことも始めて……本人が楽しそうにやっているので私は何も言わないが、やはり負担は大きく疲労も溜まる。各ジムのトレーナーやジムリーダーたちもたくさん協力しているらしいけれどそれでも大変だろう。よしよし、と頭を軽く撫でてあげれば、眉間にあったしわが少し緩和された。少しは癒せているのかな、それはなんか嬉しい。

「もう動く気にならない」
「うんうん、よく頑張ったね。お腹は?」
「空いた。……けど、食べる気力はない」
「あらら、もう寝ちゃう?」

おそらく数日の間まともに睡眠を取れていないのだろう。食欲と睡眠欲で喧嘩しているのかもしれない。とりあえず今は寝てもらうのが最優先かと提案してみても、彼は一向に動かない。岩か。

「せっかく君に会えたんだ。せっかくならもう少し起きていたい……」
「でもこんな調子じゃあなにもできないよ。早く寝て明日の朝ゆっくりしよう」
「一晩で起きれる気がしない……ゔっ」

そうごねながら私の肩に頭を預けたかと思えば、ずるっと勢い良く滑って私の太ももまで落ちていった。重っ! と文句を言ってやる気にもならない。多分ダンデ本人も相当痛かったと思う。唸ったのはそのせいか。

「……やわらかい、好きだ」
「なっ、きゅ、急に」
「いつだって言いたいと思ってるぜ。タイミングが合わないだけで」

いわゆる膝枕の状態、ホットパンツのせいで露出された脚に触れる彼の髪がくすぐったい。私の太ももに顔を埋めるようにすりすりと顔を寄せるが、髭が擦れるたびにちくちくして痛いからやめてほしい。私のスマホはいつのまにかソファの端っこへ投げ出され、ぴこん、とメッセージが来たことを知らせる通知の音だけが耳に響く。
それにしてもいきなり「好きだ」なんて。最近会えてなかったし、寂しかったのは私も同じなのであって、そんなことを言われては嬉しさと恥ずかしさでおかしくなりそうで……。

「撫でてくれ」
「ん……こう?」
「ふふ、そう」

寝返りをうつように身体を反転させ、膝を折り縮こまって窮屈なソファに入り込む彼。このソファに彼の大きい体躯はさすがに受け止められないようで足が肘置きから投げ出されている。

「ん……もっと」
「……子どもみたい」
「男なんて好きな人の前ではみんな子どもだ」

恥ずかしいことをぽんぽん言ってくれるなぁ。普段から案外甘い言葉をくれる彼らしいが、疲れで少し酩酊しているのだろう。目を細めて気持ちよさそうに私の手を受け入れる。きっとチョロネコならばゴロゴロと喉を鳴らしてゆっくりと睡魔が襲い始めるころ。しかしダンデは私の太ももを右手で撫でながらちらちらと私の顔を伺うように視線を寄越す。

「なぁに」
「落ち着くなと思って。君の手は暖かくて心地が良い」
「そう。……ベッド行こっか? 眠たくない?」
「ねむたい。……君と一緒に、寝たい」
「わかった。じゃあ退いて」
「む………………ここで寝ちゃダメか?」
「だーめ」

そんなに私の足が安らぐのか。目に見えてしょぼーんとしている彼が可愛くて許してしまいそうになるが、やはり疲れているならふかふかのベッドでしっかり寝て欲しい。身体も精神もそっちの方がいいはずだ。頭を撫でていた手を止め、彼の上半身を起こす。重っ!

「ほらほら、一緒に寝てあげるから」
「だきしめてねてほしい……」
「わかったから。もう寝惚けてるでしょ! ほら立って!」
「う〜〜…………」

立ち上がり彼を抱えるように脇に腕を通して持ち上げようとしたのだが持ち上がらない。当たり前だ、彼を支える力など私には無いのだから。それでなくとも筋肉質でがっちりした体型だというのに。とにかく立ってほしいのに本人は完全に脱力しきっていて重力に身を任せてしまう。こうなったら仕方ない。

「ほら、寄っかかっていいから」
「ん〜……」

彼に背を向け膝立ちになり、おんぶさせるみたいに腕を首に回す。私がそのまま立ち上がって歩き続ければずるずると引き摺られてダンデがついてくる。重い……! けれどなんのこれしき、ここを耐えねば私がベッドで寝れぬ! ダンデをソファで寝かして私だけがベッドで寝るなんてできないのだ。私ってば優しいから。

「ゔっ……マジで重い」
「きみには俺はおもすぎるだろう」
「分かってんなら歩いてよ〜〜!」
「やだ」

イヤイヤ期か! 本当に子どもみたいだ。掴んでいる手から彼の体温が分かる。眠いせいか暖かく、首元にあたる彼の吐息がくすぐったい。やだ、なんか変な気分になりそう……。さっさと運んでネッコアラのごとく寝てもらわねばならない。
寝室がこんなに遠いなんて……いつもはすぐに運ばれるせいでもっと遠くなればいいのになんて思っていたが、今ではもっと近くに来て欲しい。私が寝室に行くんじゃなくて寝室がこっちに来い。

「ふふ、声に出てるぜ」
「ぎゃっ! うるさい〜! そろそろだからね!」
「うん、はやく」

くそっ……いつか痛い目に遭わせてやる。寝室のドアノブを回し真っ暗な部屋の明かりをつけて、二人がスッポリ収まるほどの大きなベッドに彼を投げ飛ばした。

「うわっ、もっと丁重に扱ってくれ……」
「文句言わないの。ほら電気消すよ」

一旦扉近くへ戻りぱちん、と電気のスイッチを戻した。ベッドヘッドに設置したオレンジ色の間接照明だけが照らす室内。そこへ向かい、思いっきりベッドにダイブする。ぼふっと深く沈み、ふあ〜と欠伸をしたらゆっくりと眠気が襲ってきた。

「だっこ」
「赤ちゃんか」

服をちょいちょいと引かれた方を見ると、ダンデが両腕を広げておねだりをしてきた。普段なら絶対言わない言葉に微笑ましさを覚え、体を横向きにして「ほら」と左腕を広げる。そこにすぽっと入り込んできた彼が、すりすりとさっき太ももにしていたように身体に顔を填めた。そこ胸なんですけど。

「やらかい……」
「そりゃそこ胸ですからね」
「きみのはほんとうに心地が良いな……」
「いいからさっさと寝なさい!」
「ぅん…………」

目を閉じて静かになったダンデ。右腕を私の背に回して抱きつき、私の心音を聴きながら睡眠に耽ける。胸の位置に顔があるので、肩から背中にかけて腕を回してかるーくさする。いい夢が見れますようにのおまじない。これは彼が私にいつもしてくれるものだった。


「……すき、だいすき。愛してるよダンデ」

おやすみ、と呟いて目を閉じる。会えなくて寂しかった私のわがままは、明日たくさん聞いてもらおう。柔らかい髪をひと撫でして、彼の寝息を聴きながら意識を落としていった。


「……寝すぎた」
「おはよう」
「ダンデ早起きだね……」
「昨日はぐっすり寝れたからな!」
「そう……」

むしろ私が少し寝不足なのが納得いかない。つい昨日「一晩で起きれない」とか言ってた癖にこんな朝早くに起きて私の寝顔を眺めていた彼になぜか無性に腹が立ち鍛え上げられた腹筋を拳でぺしぺし叩く。まさに赤ちゃんの猛攻、エレズンの駄々こね。情けなくも完敗。

「すまなかったな。寂しい思いをさせただろ」
「まあね。でも慣れてる。チャンピオンだった時も忙しかったでしょう?」
「確かにそうだが……しばらく構えなかったから、正直俺も寂しかったんだ。そうだ、昨夜は随分構って貰えたし今は俺が君を甘やかそう!」
「…………あの、当たってますが」

太ももにごりっと何かが当たる。いやなんなのかは分かってはいるが分かりたくない。分かってしまっているが理解したくない……どうしよう今この場から逃げ出したい。冷たい私の脚に、彼の暖かくしなやかな脚が絡められ退路を塞がれた。ああこのままでは死んでしまう。

「当ててるんだ。それに君が言ったんだぜ? 明日の朝ゆっくりシようって」
「…………ちがーう!! そういうことじゃなーい!! ほらお腹空いたでしょ? ごはんたべるよ!」
「食欲より性欲だ。起きたばかりだからな。鎮めてくれ」

バサァッとシーツを床に蹴落としながら上に乗ったダンデの表情は、数時間前の疲れ切った死人のような色などひとつも見えず、むしろイキイキしているように見えた。下手に一緒に寝たりするんじゃなかった。彼は食に無頓着で、割とその他の事に熱意を燃やすということは私が一番知っているというのに。手首はシーツに縫い付けられ、退路どころか動く術さえ失われてしまった。やばい、喰われる。

「好きだ。大好き。愛してるぜ、××」

それは、しあわせのじゅもん。