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「トム、お願いだから今日は大人しく部屋にいてね、今日は子供を引き取りたいって人が来るんだから」


がちゃりと外側から鍵を掛けられた二階の一番端の部屋の窓を開けて、僕は今日子供を品定めしに来るらしい大人を待っていた。とは言っても、僕の部屋は表通りに面しておらず、その大人が通る可能性は元より低かったのだが。窓の外の道は人っ子一人通らず、春だと言うのに暖かな陽気すら感じなかった。
鍵穴を爆発させて院長先生の部屋へ行って、それから指先一つ触れずに花瓶を割って驚かせてやろうか。それとも床に穴をあけて下の遊戯室で遊ぶ子供達を泣かせてやろうか。どちらを選んだとしても僕が今日来るらしい大人に気に入られて連れて帰って貰うことは無いと分かっていたが、それでも幾らか気は晴れることには違いない。そうすればきっと大人は気味悪がってこの孤児院から子供を引き取るなんてことはしないのだ。僕を置いて幸せになる子供なんて生まれはしないのだ。


「ふんっ、猫なで声で僕だけ部屋に閉じ込めるなんて、馬鹿みたいだ」


先程僕の部屋に鍵を掛けて出て行ったまだこの孤児院に来て間もない使用人を思い出しながら、狭い裏庭に伸びる庭木の枝に手を伸ばす。剪定すら面倒なのか、それとも枝が伸びる先の部屋の持ち主が僕だから手をつけないのか、理由は定かではない。けど、僕には都合が良かった。この枝を伝って裏庭に降り、外へと抜け出すことが出来るのだから。その逆もまた然り。
たった四足しかない靴下が汚れるとまた院長先生に怒鳴られるけれど、そんな事構うものかと枝を引き寄せ、窓から足を出した。すっかりすり減った皮の靴底にため息を吐きながら枝にぶら下がり、さして高くなくなったそこから飛び降りる。
今日は何処に行こうか。近所の公園には行き過ぎてしまって、化け物が出ると噂になってしまったし、かと言って人の多いロンドンの街を歩く気分にはなれない。一昨日街を歩いている時、公園でわざとボールを爆発させてやった奴に見つかって化け物だと叫ばれたのだ。


「……嫌な奴」


その時奴が握っていた両親の手を思い出しながらぽつりと呟いて、僕は裏庭を仕切る塀に手をかける。まだ背が高くない僕にとってその塀は少しばかり高くて、背伸びをすると足が震えた。ぐ、と手に力を込めて、いつもやっている通りに塀によじ登った。そして、塀の上に座って一息吐く。これも、いつも通り。後は、いつも塀の向こうに置いてある木箱を使って降りるだけだった。


「……無い」


だったのだけれど、下を見れどもいつもそこにある木箱は無く、あるのは石畳の地面から伸びる枯れた雑草だけだった。どうしていつもの木箱が無いんだろう、あれが無くても降りられるけれど、この塀を越えるのが面倒になる。何て言ったって僕は背がまだ高くないのだから。
一体何処に、と決して日当たりの良くない裏通りを見回して、僕は目を丸くする。今の今まで気付かなかったが、僕からそう遠くない場所には僕と同じ年齢位の女の子がいたのだ。僕が先程していたように、裏通り側から孤児院の塀に手をかけて。そして、彼女の足元には僕が探していた木箱。


「……ねえ、何やってるの?」

「え?」


どうやら彼女もまた僕に気付いていなかったらしく、僕がそうしたように彼女も目を丸くした。驚いて揺れた肩から、ダークブラウンの髪が落ちる。
僕を見るその顔は、変わっている、と思った。変だとかそういうのではなく、何か違和感があったのだ。目も鼻も口もちゃんと付いているのに、今まで見てきたものとは何かが違う、そんな顔。それが何なのか、分からないけれど。


「それ、僕のなんだけど」

「え?」


しかし、そんな事はどうだって良い。僕は目を丸くして動かない彼女にそれだけ言って、彼女の足元の木箱を指差す。彼女が一体何を思って塀をよじ登ろうとしていたのか、はたまた覗き見たかっただけなのかは分からないが、僕がいつも使っているそれを勝手に使われるのは気分が悪い。まあ、ただいつからかそこにあって、僕の、というわけではなかったが。
え、としか口にせず、尚且つ動こうとしない彼女に痺れを切らし、僕はすい、と人差し指を動かした。すると木箱は石畳の地面をずりずりと擦りながら僕の足元へとやってきて、それと同時に木箱に乗っていた彼女はバランスを崩し地面に落ちた。ぺた、と力無く手をついた彼女は何とも間抜けな顔をしていて、少し笑ってしまう。その上最近は、直ぐに気味悪がって泣き出す孤児院の子供達しか見ていなかったから、泣き出す気配のない彼女に少し気分が良くなった。


「君、何してたの?此処の人間じゃないでしょ?」


気分が良くなった僕は、未だ僕を見上げてくる彼女にそう問いかけてみる。単なる気紛れだった。彼女が僕をどういう目で見ていたのか、僕は知らなかった。
クリーム色のカーディガンは、彼女によく似合っていた。それについた砂を払いながら彼女は立ち上がり、また僕を見る。心なしか、その表情は明るい。


「あなた、名前は?」

「……今は僕が訊いてるんだけど」

「ああ、そうだった!私ね、父さんに黙って着いてきたんだけど途中ではぐれちゃって、暇だったからここを覗こうと思って」

「へえ、そう。覗けなくて残念だね」

「ううん、そうでもない。それで、名前は?」


ぺらぺらと興奮気味に話しながら、彼女は僕の足元の木箱に乗った。おかげで距離がぐんと近くなる。何がしたいのか分からないが、悪意はないんだと思った。だから、戸惑った。あからさまな好意が向けられたのは、生まれてこのかた初めてだったから。
無意識なのだろう、彼女は白い小さな手で僕に手を伸ばしてきて、塀の上に乗せられていた僕の手を握る。にこにこと笑う彼女の前髪は眉の上にあって、無垢なそれを隠しはしなかった。


「……トム。トムだよ」

「そう、私はね、カザリって言うの」


よろしくね、トム。
ありきたりなこの名前を呼ばれることは嫌いだったが、ふにゃりと下がった眉に、僕は手を振り払うことも文句を言うことも忘れてその顔を見つめていた。僕の穿いていたズボンのポケットに、一つのヌガーが宙をさ迷った末に入り込んだ事にも気付かずに。
1937年の春。僕が10歳の時のことだった。





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