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「あら、今日はやけにご機嫌じゃない」
耳に貼り付くような声を出せなくなる魔法があるとしたら、彼女は一言も言葉を発することが出来なくなるだろう。とん、と指先で肩をつついてきた彼女、ヴァルブルガを振り返るとその顔はどこかしたり顔で、僕は思わず眉を寄せる。機嫌が良かった覚えは無いが、たった今ほんの少し機嫌が傾いたことだけは自覚出来た。
いつも下ろしている髪を珍しく後ろで一つにまとめた彼女は、襟足を触りながら次の授業へと向かう僕の隣に並んで歩く。一人で行け、と言ってやりたいが、どうせ向かう場所は同じなのだ。言ったところでまたしたり顔をしてどうせ行き先は同じだなんて言うに決まっている。
「何かあったの?アブラクサス、ねえ、私も楽しい気分になりたいわ」
「君はいつも楽しそうだよヴァルブルガ」
「そうかしら。まあ、楽しくないことはないけれど」
「……いつもの取り巻きはどうした」
「別に。あなたこそ今日は一人なのね、どうかしたの」
「別に何も」
僕がそう言って足を早めると、ヴァルブルガもまた足を早める。それが嫌で今度は立ち止まってみれば、ヴァルブルガもまた同じように立ち止まった。立ち止まった上に、に、と目を細めて笑って僕の顔をのぞき込んでくる。僕の機嫌とやらが目に見えるものならば、それは今真っ逆様に地面に向かって落ちているところだろう。
「君は僕を苛めたいのか?」
「あら!苛めるだなんてそんなこと!私、そんな酷いこと一度だって考えたことがないわ!」
「……よく言う。君は僕より良い性格をしていると思うけど?」
「まあ酷い!私がスクイブを相手にする悪趣味なあなたより良い性格だなんて!」
僕の心が繊細だったらどうするつもりなのだろうか。わざとらしく甲高い声を上げるヴァルブルガに機嫌とやらが地面を掘り進めて一向に上がってこようとしない。こういう性格なのだと分かってはいるが、どうにも彼女の趣味とも言える悪意に満ちたからかいが自分に向けられると、分かってはいるもののそれを理解したくなくなるのだ。その悪意が他人に、あのダークブラウンの彼女に向けられた時は、腹の奥でじわじわと何かが疼くほど心地が良かったというのに。まあ、彼女にとっては悪意の欠片も無いのかもしれないが。
ぶるぶると震える緑の葉と鉢植えを抱きしめ下を向くダークブラウンの瞳を頭に思い浮かべながら、ぴたりと止めていた歩みを再開させる。に、と再び笑ってそれについて来たヴァルブルガを振り返ると、それと同時に彼女があら、と声を上げる。すい、と滑らかな動きで彼女が指差した先には、間抜けな顔をして天井を仰ぐダークブラウンの彼女、カザリ・ヴィッセルがいた。
「ああら、良い顔。私ああいう惨めったらしい顔、とっても好きよ」
今にも泣き出しそうな間抜けな顔を見て、ヴァルブルガが笑う。やっぱり僕より良い性格だ、と思いつつもそれを言わないのは、その矛先が僕を振り返りつついてこないようにするためだ。
ローブのポケットから懐中時計を取り出し、時間を確かめる。授業が始まるまであと五分。それはヴァルブルガが彼女に悪意の矛先を向けるには、あまりにも少なすぎるものだった。
「ヴァルブルガ、行くぞ。あんなスクイブに構ってる暇はない」
「……何よ、つまらないわね。せっかく楽しいことを思いついたのに」
「楽しいこと?」
「ええそうよ、とても楽しいこと」
地面を掘り進めていた僕の機嫌とやらが、ひょっこり顔を出す。それに気付いたヴァルブルガは形の良い唇の口角をきゅっと上げ、真っ黒な瞳で僕を見た。
「ええ、でもそうね、今はだめね。今度、また今度にしましょう」
真っ黒な瞳が、ダークブラウンに向けられる。ふわふわとした足取りで授業に向かう彼女は、やはり泣きそうな顔で天井を見上げていた。
革靴のつま先が校庭に出てくるまでに蹴り上げた土で汚れているのを、私は一人木陰で膝を抱えて睨みつけていた。誰にも気付かれぬようにそっと視線を上げると曇り空の中カナリアイエローと青のネクタイがはためいていて、気分がぷすぷすと音を立てて萎んでいく。
「……早く、終わらないかな」
飛行術の授業をこんなにも楽しくないと感じたのは、初めて自分で捕まえることが出来た蛙チョコレートを父さんに見せたくてずっと手に握りしめていたらどろどろに溶かしてしまった日くらいである。
アンバーの瞳を持つバービリー先生は、飛ぶのが苦手な生徒には決して無理強いせず見学を認めてくれる優しい先生だ。深紅のローブはよく似合っているし、父さんと変わらない歳のはずなのに父さんよりも若く見える。無茶な飛び方をした生徒には杖を一振りして箒を取り上げとんでもなく難しい課題を言いつけるけれど、下手だ下手だと言われる私の飛行術を豪快で面白いと誉めてくれたのは彼だけなので、そんなバービリー先生を私が嫌えるはずがなかったのである。それなのに、私は今はやく授業が終わって欲しくて仕方がない。理由は、考えなくとも分かっていた。
「バービリー先生!次は俺がビーター!」
「待って!私がビーターよ!」
「おいおいレイブンクロー生、もっと仲良く楽しもうじゃないか」
青のネクタイをはためかせ、名前も知らないレイブンクロー生が箒の上で手を挙げる。ぴんと伸ばされた腕がまるで自分の知っている問いかけの答えを披露するかのようで、思わず指の先の先まで魅入ってしまうほどだ。あんなに綺麗に手を上げられる生徒を、レイブンクロー以外ではミネルバしかいないんじゃないだろうか。
「よくやるよねえ。僕、飛行術って苦手なんだよ」
「イアンは動きたくないだけだってえの!やれば出来るくせに!」
「ジャックよりかはね」
「な、なにおう!?」
つま先の土を払って、ちらりと少し離れた場所に座る三人を見る。私と同じように膝を抱えたストロベリーブロンドのイアンがくつくつと喉を鳴らして笑い、その隣では赤毛のジャックが足を放り出すように座り、怒ったように眉をつり上げている。そして、その隣ではいつもの藍色が眠たげな顔をしてクィディッチの練習をする生徒達を見上げていて、私は唇をそっと噛み締め視線を逸らした。
しかし、逸らした先にはくすんだ赤毛が待っていて、私はとうとう視線のやり場を失いつま先へと逆戻り。土を払い終えたそこは少しだけ剥げていて、クリスマスプレゼントは新しい靴が良いな、とちらちらと視界の端に映るくすんだ赤毛と藍色に気付かない振りをして考えた。
「ヴィッセル、こっちに来りゃあ良いのになあ」
「止めなよ。ジャックはすぐうるさくするからヴィッセルが可哀想だよ」
「どういうことだよ!?」
名前を呼ばれたことに驚いて思わず顔を上げるとジャックがわっと勢いよくイアンに飛びかかるところで、私は慌てて視線を戻す。見なかったことにしよう、と何だかあまり良いとは思えない考えが浮かんでしまって息が苦しくなったが、それでも顔を上げて彼らに話しかけるよりは砂糖のいない苦い苦い珈琲を飲むよりは容易いことだった。
「……変な奴」
ぽそりと呟いたその言葉が誰のものか、誰に宛てたものか直ぐに分かって、バービリー先生が作る箒の影を視線で追いかける。薄暗い中で校庭を走るその影ははっきりとしないが、それでも人一倍早く、人一倍沢山動くその影はバービリー先生のものだとよく分かった。ヒュー・ガーランドのつまらなさそうな声と同じくらい、よく分かった。
「あっ、先生!梟便よ!」
つま先を見つめる私の心にじわじわと藍色が浸食しそうになっていたのを止めたのは、先ほどのレイブンクロー生の声だった。
思わず顔を上げたのは私だけではなく、ほら、とレイブンクロー生が指差した方角に一斉に顔が向けられる。ゆったりとした羽ばたきで此方に向かってくる三羽の梟からは、きっと皆の顔がよく見えているのだろう。その中でも一番大きな黒い梟がじっと私を見つめ返した気がして、ほんの少しだけつま先が浮いた。
大きなバスケットを運ぶ二羽の梟の後を、大きな黒い梟が茶色い紙に簡素に包まれた荷物を運んでくる。だんだんと近付いてきた彼らは、きっとこのまま送り主の元へと行くのだろう。大きな黒い梟が、まだ私を見つめている気がした。
「本当に梟便だね。荷物が多いから朝の便に間に合わなかったみたいだ」
「誰のだろう。ハロウィンのお菓子かしら」
「山ほど入ってるよ、あれ。良いなあ」
青のネクタイ二人がそう言って、その内の一人がクアッフルを先生に投げ渡す。ふわりと浮いたそれの間を梟は滑るようにくぐり抜けて、大きな翼がとうとう私の真上を通り過ぎていった。
どさりと目の前に荷物が落ちたのは、その時だった。
「…………え、え、」
簡素な茶色い紙に包まれた荷物が、浮いたつま先の直ぐ先に落ちている。包みが開かぬようにくるくるときれいに巻かれた麻の紐は何かが織り込まれているのか時折きらきらと銀や金に煌めいて、ちらりと星の屑を弾く。そ、と周りを伺ってみると皆は大きなバスケットにしか興味が無かったのか、私の前にある荷物には気付いていないようだった。藍色と、くすんだ赤毛以外は。
つま先をそっと下ろして、私は手を伸ばす。ミネルバのように綺麗ではない私の指先がそれに触れるとかさりと音がして、茶色の包み紙と麻の紐は、まるで初めからそこになかったかのように消えてしまった。芝生の上にあるのは、一冊の赤い日記帳だけ。
「………………」
金の文字の走るその表紙に触れて、ゆっくりと引き寄せる。引き寄せるのには時間がかかったわりに、まるで上級生が持つような大人びたそれに胸がどきどきと弾んで、開くのは一瞬のことだった。そして、これが誰から送られてきたものなのかが分かるのも、一瞬のことだった。
分厚くてつるつるとした上等の頁の間に、一枚の紙が挟まっている。ミネルバや先生達とはまた違う、それでも丁寧で綺麗なその文字が、酷く胸を締め付ける。まるで、ダンブルドア先生の好きなレモンキャンディのように。
「あーあ、行っちゃった……。バービリー先生、お腹空いてきた……」
「仕方ないなあ……。ようし、レイブンクロー、ハッフルパフのみんな、そろそろ終わるとしよう」
バービリー先生の声にあちらこちらから言葉にならない声が上がるが、私は一人木陰の中、そっと赤い日記帳を抱きしめた。
──今夜 ベッドの上 寝静まる頃 日記帳を見て
つま先を揃え、ゆっくりと立ち上がる。それから日記帳をローブの下に隠し、箒を片手に校庭を後にする彼らを追いかけた。
日記帳に触れた指先が、じわりと熱を持つ。まさかベッドの上に先ほどのバスケットがあるとも知らず、私はミネルバを迎えに魔法史の教室へと走るのだった。
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