19




赤い背表紙を親指でなぞりあげ、ふ、と息を吹きかける。小さな埃がふわりと浮き上がって、ぱたぱたと手を振ってそれを払えば、目の前の黒と赤はずっしりと重く光った。


「ダン、ありがとう。本当にありがとう」


いつぞやカザリが箒を持ってダイブしたソファに、今はダンが沈んでいる。最近新調したばかりの深緑色のローブにくるまるようにして沈み込むダンからは疲れの色だけが見えて、僕はたまらず彼の隣に座り彼の大きな胸にしがみつく。出張先のノルウェーから煙突飛行で帰ってきた彼は、どうにも埃と煙臭かった。どうやら出張先の暖炉は掃除をされなかったらしい。
うう、とダンのうなり声が聞こえてきて、僕はすぐさま彼から離れ、腕に目当てのものを抱えてダンの顔をのぞき込む。するとダンは両腕に大鍋でも持っているかのような重い動きで腕を上げ、それに気付いたハツが料理をほうって駆けてくる。無言でローブを脱がし脱がされる二人を、僕はもう何回見たのだろう。


「こんなに酷い案件は初めてだ……」

「それは僕のこと?それともノルウェーでの無差別マグル記憶忘却事件?」

「これと、それと、あと一つ。埃まみれの暖炉だね」

「それは確かに酷いね。僕のお願いが可愛く思える」

「誰に似たんだその性格は……」

「さあ。どっちに似たのかな」


煤で汚れたグレーのネクタイを弛めながらダンが目を細めて僕を見たので、僕は知らんふりをして肩をすくめる。すると彼は小さくハツに似た、なんて呟いたが、きっとそれは間違っている。ハツなら知らんふりをせず、どうだ、とばかりに笑うのだから。そんなハツに良いように振り回されているのを、僕はちゃんと知っている。何と言ったって、この僕もまたカザリに振り回されていたのだから。
しゅるしゅるとネクタイがほどけて、ダンは漸くほ、と息を吐く。それからダンはソファに沈めていた体をほんの少しだけ起こして、ちょい、と僕を手招きした。


「なに、ダン」

「いや、なに。明日はハロウィンだろう。何か食べたいものはあるか?」

「……特に思いつかないけど、あ、でも、」


とっさに頭に浮かんだのは孤児院にいた頃にお粗末程度に配られたねっとりと半分溶けたヌガーで、あんなものを思い出すなんて、と僕は頭を振って眉をひそめる。そして次に浮かんだのはカザリがいつか焼いてくれた珈琲の香りがするマフィンで、僕はぴたりと動きを止めて腕の中のそれを見下ろす。
カザリが僕を迎えに来たあの日、結局ベッドの下で転がるだけだったマフィン。ほろほろと苦くて甘いだろうそれを、カザリは好きだろうか。カザリは僕を思いだして、目尻を下げて笑うだろうか。
じ、と背表紙を撫でて、視線を上げる。僕の視線に気付いたダンはとっさに笑みを浮かべたが、僕は笑みを浮かべなかった。


「ダン、ねえ、うんと沢山の梟を頼まなきゃ」







ほくほくとした甘い匂いと、チョコレートの香り。パイ生地の焼ける香ばしい匂いに、それから蝋燭の香り。ぷかぷかと浮かぶカボチャを指で弾いたのは隣に座るミネルバで、弾かれて飛んできたそれをこつりと額で受け止めてしまったのは私だった。


「ああ、ごめんなさい。カザリってば、いつもより気が抜けてるんだもの。ついやってしまったわ」


つい、だなんて、ひどい。
思ったよりも固かったカボチャを余所へ払いのけて、私は額を撫でながらミネルバを見る。真っ黒いローブにきっちりまとめられた髪。白くて細くて長い指先を唇に当てて、テーブルに並ぶケーキを眺める。そんなミネルバがいつもよりも魔女らしい魔女に見えて、私は喉元で膨らんでいた文句が音もなく萎むのが分かった。


「ミネルバ、ミネルバって、魔女みたい」

「……私は魔女よって、そんなに何回も聞きたい台詞かしら」

「ふふ、違う、違うの、本当に。なんだかね、今日は本当にぴったり、ぴったりなの」


そう言って思わずゆるんだ口元を隠そうと手をやれば、そんな私を見てミネルバはお皿にパンプキンパイを二切れも乗せる。どうやら彼女は周りの空気に心が躍っているらしい。だっていつもの彼女なら、朝からパンプキンパイを二切れもお皿に乗せたりしない。それも、特別大きな二切れなんて。


「さて、じゃああなたは何が良い?今日は魔女のミネルバがあなたの好きなものをとってあげるわよ」

「じゃあ、じゃあ、当ててみて。魔女なら魔女らしく私の食べたいものを当ててみて」

「あら、乗せたものは外れても食べてもらうわよ?そうねえ、それじゃあ……キドニーパイ!」

「ふっ、ふふふっ、ミネルバってば、」


私の分のお皿にキドニーパイを取り分けて、演技がかった声色でミネルバは言う。意地悪く笑うのは、彼女の頭の中の魔女がそういう顔をしているからだろう。彼女の見せる魔女の姿は、昔読んだことのあるマグルの本に出てくる魔女のようだった。


「お、梟郵便だ」

「今日は多いなー」


お皿にちょこんと乗ったキドニーパイをフォークでつつけば、テーブルに丸い陰がいくつも滑る。ぱ、と顔を上げるとちょうど大きな梟が籠を掴んで頭上を通り過ぎていくところで、私はぼんやりと大きく広げられた翼の模様を眺めていた。あの子の翼から羽ペンをもらえるとしたら、きっと大きくて持ちやすいふわふわとした羽ペンなのだろう。
ちらり。頭の隅をハシバミ色が過ぎったが、それが何なのか私には分からない。


「わっ」

「あ、」


ふわふわと頭の隅で揺れて消えていったそれは何なのだろうかと首を捻っていれば、どさっと隣で物音がして、目の前でハシバミ色が弾けた。驚いて振り返ると私よりも驚いた顔をして小さな籠を手にするミネルバがいて、彼女はまん丸い目で私を見つめた。デイジーの花が、オレンジと黒に染まって持ち手に飾られている。中に入っているものはミネルバによく似た綺麗な文字の走る手紙と、きらきらと光るキャンディだった。
ミネルバの白くて細くて長い指先が、キャンディを探る。その中から一等大事そうにつまみ上げられたのは緑色の包みのキャンディで、ミネルバは目を細めてそれを私に差し出した。


「母さんからだわ。カザリ、これ、私のお気に入り」

「く、くれるの?いいの?何味なの?苦くない?」

「あげるわ、いいわ、その色はあまり甘くないけど、苦くないわ」


ふふ、とミネルバは笑って、小さな籠を膝に行儀良く乗せて手紙を開く。その時何かがちくちくと胸を刺したので、私はそれと目を合わせないようにそうっとキャンディを手のひらで転がした。
あちらこちらから弾んだ声が上がって、そのたびに大きな梟がすい、と大広間を飛んでいく。時折綿毛のような小さな羽が頭に降ってきて、私はキャンディを両手で包みながらそれを避けた。ちくり。ちくり。くすくす妖精だろうか。


「……ねえ、」


ミネルバ、と名を呼ぼうとして、私はそれをこくりと飲み込む。気付いただろうかとちらりと彼女を見やれば、どうやら私の声は周りにかき消されてしまっていたらしい。ミネルバの綺麗な横顔が、手元の手紙に向けられている。瞬きをする度に星が弾けているような気がするほど、とても綺麗だった。
いつの間にか頭に乗っていた羽を摘まんで、床に放り投げる。頼りなく落ちていくそれを見送って視線を上げた先にくすんだ赤毛があったので、私は誰にも気付かれないようにそっとフォークを握った。


「蛙チョコレート……」


ミネルバ、私、蛙チョコレートが食べたかった。
キドニーパイを小さく切り分けて、ゆらゆら揺れ出した視界を誤魔化すようにそれを口に入れる。ソースのかかりすぎたそれに涙が出て、くしゃくしゃのローブで拭った。
トムから返事がこないまま迎えたハロウィンの朝は、とてもじゃないが飲み込めないほど不味かった。







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