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「あ、おはようカザリ」

「え、あ、お、おはよう、……おはよう?」


消える階段から落ちて五日、足の骨がぽっきり折れて眠っていたらしい私が起きて二日。その右手ひとつで足りてしまう時間の中で、何か変わってしまったことがあったらしい。
まずひとつに、同室の赤毛の女の子から時折声をかけられるようになった。ジェインと呼ばれる彼女はジンジャーの真っ赤なふたつの三つ編みを背中でゆらゆら揺らして、にっこり笑って談話室へとおりていく。いつもは残りの二人に挟まれて森フクロウのようにぱたぱたと忙しなく逃げていた彼女だったのに、一体どうしたのだろう。ぷい、と余所を向いてなおらない後ろ髪を櫛で撫でながら、私は首を傾げた。


「おはようミネルバ、えーっと、ヴィッセルも」

「おはよう」

「あ、おはよう、……おはよう?」


そしてもうひとつに、ミネルバに話しかけるグリフィンドール生が増えたこと。これはきっと彼女の綺麗な瞳だとかすっと通った鼻筋だとか、それから真面目な白くて長くて細い指先が時折悪戯に踊ることだとか、彼女の魔法よりも素敵な魅力に気付いたからなのだと私は思ったが、どうやらそうでもないらしい。


「……初めての減点がスリザリンとの喧嘩だったから、仲間意識が出来たのよ」


あまり嬉しくないけれど、とミルクティーを飲む彼女の瞳の下がほのかにオペラ色に染まっていたので、彼女の気持ちはきっとオペラ色なのだろう。今日もきっちりまとめられた髪にちょこんと座って私を見下ろすデイジーの銀が、大広間の天井から降り注ぐ日差しに照らされて得意気な顔をしていた。そんな銀を眺めながらポリッジを食べていたせいで私はスカートにそれをこぼしてしまったのだけれど、仕方無さそうにハンカチを出してそれを拭ってくれるミネルバの頬がますます綺麗なオペラ色に染まったので、気持ちがしぼむことはなかった。


「えー……ヴィッセル、あいつと組むの……?」

「うん、うん。組むの」

「ヴィッセルがそう言ってるんだからそうさせてやりなよ。どうせヒューが余るから僕らと組むことになるんだし」

「どうせって何だよ、どうせって」


それから変わったのは、あとひとつ。
ミネルバと別れて、錆びた大鍋で名前も知らない薬がぐつぐつと煮込まれる真ん前で、イアンがジャックの肩を叩く。そっと鼻を隠して隣に立つ藍色に目を向けると彼は相も変わらず私をじっと見ていたので、これはいつもと変わらない。


「あ、あの、カザリ……」

「サミュエル!」


変わったのは、私とサミュエルが堂々とペアを組むようになったことだ。
げ、とニガヨモギを噛み潰したような顔をしたジャックをイアンが困ったように笑いながら引っ張って、彼はひらひらと私に手を振ってから教室の一番後ろの席へと戻っていく。遅れて藍色が動き出したところで、サミュエルは漸く大鍋の真ん前、魔法薬学の教室で一番先生に近い席に鞄を置いた。


「あの、隣、いい?出来ればその、君と、ペアになりたいんだけど……」

「うん、うん。もちろん。だって私、そのために此処に座って待ってたんだもの」

「……そっか。うん、そっか」


くすんだ赤毛をかきあげて、サミュエルは綿毛が飛ぶより優しく笑う。まるで雪解けを感じたような気がしたが、季節はまだ冬の一歩手前なのだった。





「おっ、めっずらしい組み合わせー」


この薬には角ナメクジ、この薬にはユニコーンの角の粉末で、この薬にはドラゴンの爪。でもこっちの薬は角ナメクジの粘液じゃない。だからこっちは粘液で、この薬は角ナメクジをそのまま。
ぽんぽんぽんと両隣から少しの間もあけずに飛び出してくるその小難しい言葉達に、まるで私を挟んでブラッジャーを打ち合ってるのではないかと、私が目の前に広げられた魔法薬学の教科書の頁を指で撫でながら錯覚していたその時、すい、と平気な顔をしたシーカーが飛び込んできた。角ナメクジの粘液まみれになっていたブラッジャーがひゅるると地面に落ちていき、両隣の二人、サミュエルとミネルバは顔を上げる。私はほう、と息を吐いていた。


「カザリの顔死んでんじゃん……お前達、カザリの前で難しい話はしてやるなよ……」

「す、すみません。でも、魔法薬学で分からない所が……あ、」

「あ、駄目。俺に訊くなよグリフィンドール。優も良も取ったことない」


飛び込んできた優しいシーカー、アンドリュー先輩はそのまま私達の前に腰を下ろし、魔法薬学の教科書を広げられたせいでテーブルの隅に追いやられていた私の夕食の残り、ヨークシャー・プディングをつまみ上げ、それをそのまま口に放り込んだ。行儀が悪いとでも思ったのだろう、サミュエルとミネルバは二人そろって眉根を寄せ、アンドリュー先輩を見る。そんな二人にアンドリュー先輩は気付かずに、グレービーソースのついた指を舐めていた。
アンドリュー先輩の手はとても大きい。大きいし、今日は何故だか傷だらけで泥だらけだ。それにどういうわけだか、今日は休みでもないのに制服を着ていない。まるで、そうだ、クィディッチをしてきたかのような。


「おー、アンディ、練習終わったのか」

「おう終わった終わった!ニックもこっちに来いよ!ついでにそっちのスープと一緒に」


離れたテーブルからニコラス先輩がアンドリュー先輩にかけた言葉に、私は漸く気付く。そうか、アンドリュー先輩はハッフルパフのクィディッチチームに入っているんだった。
スープを器に入れて此方にやってくるニコラス先輩の少し緩んだネクタイを眺めながら、アンドリュー先輩の言葉を思い出す。シーカーなのだと言っていた彼に一度だけ箒の乗り方を教わったが、彼は滑らかに風に乗っていた。試合ではもっと速く飛ぶのだろうか。稲妻みたいになるのだろうか。アンドリュー先輩を押して私の目の前に座ったニコラス先輩の緩んだネクタイを眺めながら、稲妻のようにスニッチを追いかけるアンドリュー先輩を思い浮かべた。


「押すなよ!こっちは疲れてるんだから労ってくれ!」

「来年にはキャプテンだろ、疲れてるとか言ってる場合かよ。ほら、スープ。オニオンたっぷり」

「オニオン嫌いだって知ってて入れたなお前」


ニコラス先輩のネクタイから目を外し、アンドリュー先輩のグレーの瞳を見る。不満げに細められたグレーはニコラス先輩の言葉通りたっぷりのオニオンを見下ろしていて、隣に座るミネルバが呆れたようにため息をついたことでますます不満げに細められる。その不満げな瞳がまたため息をついたミネルバに向けられた時、ミネルバは知らん顔をしてテーブルの端に現れたティーポットを引き寄せ、ゴブレットに注いでいた。中身はホットミルクだった。


「アンドリュー先輩、オニオンは、オニオン嫌いなんですか?」

「……もともとは弟が嫌いだったんだよ。で、代わりに食べてやってるうちに食い過ぎて、嫌いになった」

「カザリ、はい。メイフィールドは?」

「あ、ぼ、僕はいいよ。ありがとう」

「ありがとう、ミネルバ」


びくっと肩を揺らしたサミュエルを横目に、私はホットミルクを受け取る。白い湯気から蜂蜜の匂いがしたので、頬がとろけるように緩んだ。
あー、だとか、うー、だとか言いながら、アンドリュー先輩はスプーンでオニオンをよけ、ベーコンだけを器用に掬って食べていく。蜂蜜の入っていないホットミルクを持つミネルバの指がとんとんとん、とゴブレットを叩いた。レポートに適した本が見つからなかった時にたまに見せるその仕草の意味が良くないものだと、私は知っていた。


「アンドリュー先輩、試合はいつ、いつですか?」

「んー、あー、うー、明後日」

「確かレイブンクローとだよな。因みにグリフィンドール対スリザリンは来週。ん」


ん、と言いながらニコラス先輩が手を伸ばしてきたので、不思議に思いながらとりあえずゴブレットを手渡せば、ニコラス先輩はにっと笑ってホットミルクを飲んだ。どうやら彼も甘いものが好きらしい。
オニオンを見下ろすアンドリュー先輩の顔がどんどん険しくなっていくのを四人で眺めながら、私は一人考える。父さんに買って貰ったあの箒を、トムは今日も乗っているだろうか。彼はとても上手に乗っていたから、彼がホグワーツに入ればクィディッチのチームに入れるかもしれない。少なくとも、危なすぎるから止めてとトムだけじゃなくミネルバにも言われた私より、チームに必要とされるだろう。


「アンドリュー先輩、アンドリュー先輩」

「あー、うー、うーん?」

「私、たくさん応援します、たくさん応援しますねっ」

「……おう、じゃあ、俺、頑張っちゃう」


アンドリュー先輩はそう言って、歯を見せて笑った。器の中のオニオンは、これっぽっちも減っていなかった。








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