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「本当は図書室で天文学のレポートを仕上げたいの。でもほら、あなた夢中になったらとんでもないことするじゃない?観覧席から飛び出しでもしてあなたが怪我したら私はきっと後悔するから、あなたと一緒にハッフルパフを応援するわね」


ハッフルパフ対レイブンクローの試合を午後に控えた日曜日の朝。生ぬるいミルクに浸したポリッジとレーズンをスプーンですくい上げながら、ミネルバはまるで何度も練習した呪文のようにすらすらとそんなことを口にした。テーブルを挟んだ正面に座るサミュエルがグレーの瞳を押し出してしまいそうな程に見開いていたのを、私は横目に見ながらこっくりと頷くしかなかった。それもそうだ、と思ったのだ。私はいつも何をするにしても、ちょっと待って、とトムが異議を唱え、何かしでかそうとする私を引き止めてくれていたのだから。私は決して何かしでかしてやろうなんていう気持ちはこれっぽっちもないのだけれど。


「ゴー!ゴー!ハッフルパフ!良いわ!そこよ!そこそこ!」

「ま、待って、待ってミネルバ……!おちっ、落ちるからっ!」


けれど、まさかトムと同じように異議を唱える立場だったはずのミネルバが、何かしでかそうとするとは誰も思いもしなかっただろう。試合が始まって直ぐに降り出した雨を飲み込んで深い真紅の色をしたグリフィンドールのマフラーを、まるで庭小人を退治するかのようにぐるんぐるんと振り回し、ミネルバは周りの生徒に紛れて声を張る。カナリアイエローの中にぽつんと混ざる真紅は自分の色を忘れていて、初めから同じチームだと言わんばかりのものだった。


「ああ!見て!ねえカザリ!あのレイブンクローの選手とっても上手いわ!」

「う、うん、うん!本当……!」


ミネルバが観覧席から落ちてしまわぬように彼女のローブをしっかりと掴み、大きく頷くだけ頷いてみせる。身を乗り出してマフラーを振り回す彼女から意識を逸らせば真っ逆様に落ちていってしまう気がして、とっても上手いらしいレイブンクローの選手なんて本当は見えてなかった。それでもミネルバはそんな私に気付かずマフラーを振り回し続けるので、もしかすると何も答えなくても気付かないのかもしれない、とさえ思ってしまう。


「ああ!もう!この雨邪魔だわ!遠くの選手が全然見えない!」


遠くから歩み寄ってきているのか、それとも遠ざかっていっているのか。お腹の奥を揺らすような低い音が重たい灰色の空から降ってきて、それと一緒に落ちてくる雨粒にミネルバが乱暴な言葉を吐き出す。同時にゴールが決まったことを告げる鐘が鳴り響いて、私ははっと顔を上げた。
びゅんびゅんと飛び交う箒の矢の向こう側に、得点板が見える。ハッフルパフは、三十点差で負けていた。


「あの人達何やってるの!ねえカザリ!そう思うでしょう!?」

「み、ミネルバ、ミネルバ、落ちちゃう……!」


雨を飲み込んで氷のように冷たいミネルバのローブごと彼女にしがみつき、彼女と同じように悪態を吐く声に知らんふりをする。何をやっているもなにも、私には何をしているのかも見えていない。私に見えているのは観覧席の手すりに乗せられたミネルバのすっと伸びた細くて綺麗な足だった。
ハッフルパフが負けている。負けている上にミネルバの足が今にもアンドリュー先輩達に走り出そうと手すりに乗せられている。胸の辺りが冷えていくのに、心臓はタップダンスを踊っているかのように軽快だ。きっと、悪い意味でなのだろう。


「おっと、危ないよヴィッセル」

「わっ」


突然の声と引き寄せられた体に、タップダンスが激しくなる。ミネルバにしがみついたまま驚いて振り返ると、ローブのフードをすっぽりかぶったイアンが私のお腹にぐるりと腕を回していて、見知った顔にタップダンスは休憩だとばかりにステップをゆるめた。
お腹に回された腕が身動ぎして、イアンは私の頭に顎を乗せて何かを呟く。重い灰色が低いうなり声を上げたので彼の言葉は聞き取れなかったが、灰色が放った一瞬の光の筋が杖を握る彼の手を浮かび上がらせたので、彼が呪文を唱えたのだと理解する。


「わ、わ、わ。凄い、凄い凄い!」


そして、みるみるうちに私とミネルバのローブが飲み込んでいた雨は乾きあがり、冷え切っていた体がもとの温もりを取り戻す。頭上で振り回される真紅のマフラーを見ればそれは雨を弾き風を巻き起こしていて、私はミネルバの足をそっと手すりから下ろしながら円を描く真紅を見つめた。


「マクゴナガルならこれくらいの呪文知ってそうだけど、どうやら呪文どころじゃないみたいだね」

「う、うん。うん。あの、イアン、その、ありがとう……」

「いや、いいよ。ヴィッセルがまた誰かに巻き込まれて医務室で寝込んじゃうのは可哀想だし」


芝生を撫でる風のような穏やかな声で、イアンがほんの少しだけちくちくとした何かを吐き出したような気がして、私は彼を振り返る。頭から退けられた彼の顔を見ればまるで談話室でジャックと戯れている時のように何でもない顔をして口元を緩ませていて、私を見下ろす瞳はたまにミネルバが見せる呆れたような、諦めたような、それでも決して私が悲しい気持ちになることはない瞳をしていた。まるで、小さな弟妹を見るような。
イアンが右手で私を抱き寄せ、空いた左手でミネルバのローブを引っ張る。男の子の力には勝てなかったミネルバが一歩手すりから後退り、落っこちる心配のない、本来いるべき場所へ戻された。イアンはまだ、私を見下ろしている。


「ヴィッセル、この試合勝つと思う?」

「え、わ、分からない。だって、だって私、全然見れてなかったから……」

「うん、そうだろうね。でも今負けてるってことは知ってるでしょう」


イアンはそう言って私のお腹から腕を離し、私と視線を合わせるようにほんの少しだけ膝を曲げ、遠くを指さした。飲み込むまいと雨を弾くイアンのローブの下から伸びるその手の先にはうすいコーラルの爪がついていて、さらにその先にはいつの間にか五十点差になっていた得点板があった。心臓が、思い出したかのようにタップダンスを始める。


「負けた日の談話室って、すっごく雰囲気が悪いんだってさ。嫌だよね、そんなの」

「う、うん!うん!嫌だ……!」

「だよね。でも、うーん、この点差は難しいよね」


イアンの言葉と同時にゴールを報せる鐘が鳴り、カナリアイエローがまた悪態をつく。あ、と眉を寄せた目の前の彼に点差が開いてしまったことは私でも想像が出来て、じわりと手のひらに汗をかいてしまった。


「ああもう!頑張りなさいよハッフルパフ!」

「……マクゴナガル、凄いね。グリフィンドールじゃないみたい」


ぽつりと呟いたイアンの言葉も、ミネルバの耳にはもう受け入れて貰えないらしい。彼女の耳が受け入れるのはきっと、ゴールを報せる鐘の音だけだ。
びゅんびゅんと雨を切り裂くように飛び交う箒の矢に、私は目を凝らす。一際速いカナリアイエローは青とぶつかりながらぐんぐん此方へと向かってきていて、思わず手すりに身を乗り出して彼等を見つめた。こら、とイアンが私の手を引っ張る。カナリアイエローと青は、もう目の前に迫っていた。


「が、頑張って、頑張って!アンドリュー先輩!」


カナリアイエローが一瞬此方を見たのは、気のせいだろうか。
観覧席に突っ込む寸前で彼等は方向を変え、重い灰色へと向かっていく。ホグワーツを全て覆ってしまいそうな灰色の切れ間を真っ先に見つけたのは、きっと私だろう。ゴールを報せる鐘の音に周りはまた悪態を吐いていたし、ミネルバは頭を抱えていたし、イアンはため息を吐いていた。そして二人のシーカーは灰色の切れ間のその手前、差し込んだ光に照らされたスニッチだけを見ていたはずだから。


「わあっ……」


きらきら光る金色を、カナリアイエローの手が追いかける。アンドリュー先輩のその姿は、まるで稲妻のようだった。






「あ、終わったみたい……」


『冬の満月の夜から』の頁を指でつまみ上げながら、僕は窓の外に目を向ける。先程まで窓を叩きつけていた雨はクィディッチ場の真上の雲が割けると共に雨足を弱め、空から差し込む光が今日の勝者を照らしていた。残念なことに図書室からその勝者が誰だか分かるほどクィディッチ場は近くに建てられてはおらず、隊列を組んで凱旋を続けるあの箒達に誰が乗っているのか分からない。視界を遮るくすんだ赤毛の前髪を耳にかけて目を凝らすが、百味ビーンズの半分程もないそれに頭が痛くなるだけだった。


「……後でカザリに教えて貰おう」


早々に百味ビーンズの半分程もないそれらから目を逸らし、天文学のレポートに役立ちそうな頁を探そうと視線を落とす。月の満ち欠け、マグルの星座、流星群の意味。視線を巡らせながら文字を指でなぞり、絵を確かめながら頁をめくる。あまり、役立ちそうにはない。
がたん。強い風が窓を揺らして、僕はまた顔を上げる。凱旋が終わったクィディッチ場からぞろぞろと人が出て来るのを見て、もう直にカザリがマクゴナガルを連れて戻ってくるだろうからと本を閉じた。彼女は、カザリは図書室の静かな空気があまり得意ではないようだから、早く本をもどして迎えに行った方が良いだろう。


「え、と、わっ……」


本を棚に戻そうと椅子から腰を上げたその瞬間、ばらばらと膝から鞄や羊皮紙やインク瓶が転がり落ちる。膝に鞄を置いていたことをすっかり忘れていた僕は慌ててそれらを拾おうとするが、今度は手から『冬の満月の夜から』が滑り落ちてしまう。ごん!と分厚い背表紙が床とぶつかり、僕は思わず息をのむ。
あたりがしん、と静まりかえり、耳がじわりと冷えていく。誰かが席を立ち此方に歩み寄ってくる足音が聞こえてきて耳の冷えは消え去ったが、代わりに冷や汗が出て来てしまった。誰かが来てしまう前に、はやく、拾い集めなくては。


「……なんだ、お前かよ……」


そう思いインク瓶と本を拾い上げた頃には、もう手遅れだったらしい。本棚の向こうから現れた足音の正体が小さなため息を吐き出して、僕の体は石のようにびしりと固まる。顔を上げることも出来ずに視線だけを動かせば、僕の鞄から飛び出した羽根ペンを足音の正体が拾い上げているところだった。
一瞬にして、僕の体は息を吹き返す。足音の正体が、藍色の髪と瞳を持つハッフルパフ生が手に持つのは、ハシバミ色の羽根ペンだった。


「あ、そ、それっ……!」

「……これ、お前のか?」

「あの、それは、その……」

「…………何か、違うんだよなあ。見たことあるような、無いような……。……お前の羽根ペン、これじゃなかったよな?」


藍色のハッフルパフ生は、よく人を見ていた。何の気もなしに弱虫サミュエルと言葉を紡ぐ赤毛とストロベリーブロンドの一歩後ろに立つ彼は、いつも、人を見ていた。どうすれば人は怒らず、どうすれば人が喜び、どうすれば自分にとって一番良いのか考えるように、彼は、人よりも一歩下がった場所から黙って見ていた。誰が僕に何と悪口を言おうと、彼だけは黙って、どうすればこの面倒事が終わるのかと、その藍色の目で僕を見下ろしていたのだ。
僕は、陰でくすくすと笑う緑や青より、紙屑を投げつけてからかう真紅よりも、彼が怖かった。


「……これ、お前のじゃないだろ」

「そ、れは、」

「……分かった、あいつだ、あいつのだ」


カザリ・ヴィッセルだ。
藍色の瞳が初めて嬉しそうに細められ、僕は思わず後退りする。違うのだと一言いって、羽根ペンを奪い返すことが出来ればどれほど安堵出来るだろう。身動きひとつ出来ない僕は、ハシバミ色の羽根ペンを指先で弄る彼の瞳を見つめることしか出来なかった。
陽に照らされたわけでもない羽根ペンが、微かに煌めいた気がした。


「おーい、ヒュー!試合終わったぞー!」

「ちょっとジャック、図書室では静かに。じゃないと怒られるよ」

「分かってるって……!ヒュー!ここにいるんだろ!出てこいよー!」

「全然分かってないよね……」


突然飛び込んできた声にばちん!と耳の奥で誰かが手を叩いて、僕は弾かれるように鞄を拾い上げ、床に落ちた羊皮紙や教科書を鞄に放り込んでいく。あ、と声をあげた藍色には一切目もくれずに中身のつまった鞄を抱き抱え、僕はその場から逃げ出した。


「うわ!あっぶねえじゃん!気をつけろよ!」

「おっと……、だからジャック、声が大きいってば」


本棚と本棚の間をくぐり抜け、赤毛とストロベリーブロンドの目の前を横切り、出口へと急ぐ。途中で上級生や先生に怒鳴られた気もするが、止まるわけにはいかなかった。
ばたばたと図書室を飛び出して、雨のせいで湿気った廊下を駆けていく。どこかから雨漏りでもしているのか、一度右足が水溜まりにはまり爪先がじんじんと冷えたが、それでもあの藍色に全て言い当てられるよりは良かった。
カザリの羽根ペンを、返す機会を失った羽根ペンを未だに持っている僕をもしも彼女に告げ口されてしまったら、彼女は何て思うのだろうか。
その羽根ペンを陽にかざしたとき、彼女は。


「あ、サミュエル、サミュエル!」


中庭へと飛び出したその瞬間、すっかり聞き慣れた柔らかな声が僕の名を呼んで、僕は漸く息をつく。サミュエル、と僕の名を呼びながら向かいの廊下から中庭へ飛び出してくる彼女は何も知らず、鼻先を赤くして笑っていた。
短い前髪が風で乱され、彼女の髪に座る銀のデイジーが隠れる。ダークブラウンの細められた瞳を見ると、胸が甘い香りで満たされていくような気がした。


「サミュエル、聞いて!聞いて!私ね、アンドリュー先輩にスニッチを触らせて貰ったのよ!箒でね!後ろに乗せてね!クィディッチ場をぐるーって!まわったのよ!」

「……そう、じゃあ、ハッフルパフが勝ったんだね」

「うん、うん!途中まではレイブンクローが勝ってたんだけど、アンドリュー先輩がスニッチをとったのよ!」


カザリは勢いよく僕に駆け寄ってきて、冷えた指先で僕の手に触れる。思わず鞄を落としそうになったがどうにか耐えて、僕は肩で息をしながら鞄を右手に持ち直した。
カザリの冷えた指先が、僕の左手を包む。僕が彼女の手を包んでやりたいくらいなのだが、僕にはそんな余裕などなかった。


「凄かったのよ、凄かったんだから!稲妻みたいに飛んでいってね、きらきら光ってね、凄かったのよ!」


カザリが駆けだしてきた廊下から、真紅のマフラーを手にしたマクゴナガルが出てくる。疲れたように喉をさする彼女を不思議に思ったが、僕は黙ってカザリの話を聞くことにした。


「今度は一緒に見ようね!三人で見ようね!」

「……うん」

「約束、約束よ!」

「うん、約束、約束する……」


短い前髪が揺れて、ダークブラウンの瞳が僕をのぞき込む。僕はこっそり奥歯を噛みしめながら、どうかあの藍色のハッフルパフ生が、ヒュー・ガーランドが何も言いませんようにと心の中で祈ることしか出来なかった。





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