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「ねえジャック、見てごらんよ、あそこ」


雨が降った後の地面の泥濘が大鍋の中でぐつぐつと泡を弾かせながら、見た目とは随分とかけ離れた甘ったるい匂いの煙をもやもやと広げていく。それを手で払いながら大鍋の中身をぐるぐるとかき混ぜれば泥濘はハッフルパフカラーとも言えるカナリアイエローに変わって、煙を吸い込んでさらりとした液体に変わった。
あとは砂時計を二回引っくり返したらニガヨモギの粉末を入れれば済む所まで進んで、教科書とレポートに羽根ペンを走らせる。左手に杖を持っていたせいか字は左下がりに曲がりくねって、とても提出出来るようなものではなくなってしまった。


「なんだよ、どれどれ?」

「ほら、あそこ。見て。見える?」

「……どれ」

「……ごめんね、ジャック、君は小さかったんだった」

「悪意なら目の前に見えるぞ!」


わっと叫んで、目の前で赤毛とストロベリーブロンドが取っ組み合う。ストロベリーブロンドよりも手のひらひとつと半分程背の低い赤毛、ジャックは確かに背は高くないが、自分から言わせればストロベリーブロンドのイアンが歳の割りに背が高いだけだった。
左下がりの字が這いつくばる羊皮紙を破いて、ローブのポケットに突っ込む。ジャックの拳を笑いながら受け止めたイアンが此方に目を向けた気がして顔を上げれば、やはりイアンは此方を見ていて、ほら、と顎で甘ったるい匂いが立ち込める教室の端を示した。


「僕さ、たまに思うんだけど、いや、魔法薬学の時はいつも思うんだけど、ヴィッセルとジャックはペアを変わるべきじゃないかな」


何も知らない魔法使いが見れば、彼を穏やかで品のある魔法使いだと誉めるだろう。刺があるのか無いのか分からない声色でそう言ったイアンは穏やかで品のある笑顔を浮かべながら、ジャックの頭を掴んでそちらを向かせる。けれど、その目の内側にあるものはきっと、あのくすんだ赤毛にとっては痛いものだろう。それに気付かないふりをして、俺は砂時計をひっくり返し、羊皮紙に捻挫薬の材料を書き出していく。
左下がりじゃない字が羊皮紙を滑っていくのを確かめながら、すっぽりと被ったローブのフードの下から盗み見るようにダークブラウンとくすんだ赤毛の横顔を見る。今日も一番に薬を作り終えた二人は小さなガラス瓶に透き通るようなカナリアイエローの液体を注ぎながら、目を細めて何かを話していた。


「……それって暗に俺が役立たずだって言ってんのか?」

「暗にって言うか、まあ、割りとはっきりと」

「んだよ!役立たずなんかじゃねえってえの!もっ、もう朝起こしてやんねえからなっ!?」

「あ、」


あ、とイアンが声を漏らした瞬間、目の前の大鍋からぼこん!とまるで固い何かがへこむような音がして、それからつんつんと尖った臭いが真っ黒い煙と一緒になって目や鼻や口に飛び込んでくる。咄嗟に袖で口と鼻を覆って杖を振れば視界は冴えたけれど、真っ黒い煙の中にぽつんと居座るのは大鍋だったはずの錆色の塊だった。
ジャックの手から、ニガヨモギの粉末がさらさらと落ちる。砂時計はまだ、一度しかひっくり返していなかった。


「……ヴィッセル、ヴィッセル、ねえ!次から僕と組まない?僕、もうこんなのはうんざりだ」

「ごめんって!悪かったって!もう余計なことはしねえってば!」


こらこら、とほんの少しだけ眉を寄せながらクロムグリーンのローブから杖を取り出しながら歩み寄ってくるスラグホーン先生を他所に、二人はまた取っ組み合う。思わず奥歯を噛み締めそうになって、は、と頭を振った。


「これ、止めなさい。時間がないから早くやり直して、出来なければ課題を出すぞ?」


こつんとスラグホーン先生の杖の先端がジャックの額をつつく向こう側で、グレーの瞳が此方を振り返る。気付かれないように盗み見れば、グレーの瞳は二度宙を泳いで、それから自分の手元にある小瓶に泳ぎ着いた。
生白い肌の奥から、不安が滲み出てくるのが見える。くすんだ赤毛の頭にちらついているのは、きっとハシバミ色の羽根ペンだ。


「……俺、大鍋取ってくる」

「ありがとう。じゃあ僕は材料を取ってくるから、ジャックは大人しくしてて」

「わっ、かったよ!分かったよ!あーっ!」


フードを外して立ち上がり、ダークブラウンの横顔を盗み見た。青白くなって黙りこむくすんだ赤毛に気付かず、羊皮紙に羽根ペンを滑らせる彼女の文字は、左下がりになった俺の文字よりも癖のあるものだった。
小さな手に握られる羽根ペンは、ハシバミ色ではなかった。







「余り贅沢なことをしたり幸せなことが続くと、たまにさ、昔の僕が言うんだよ。それは当たり前のことじゃないって」


そう言いながら、クリスマスから続いていた細く細く切ったクリスマスプディングとミンスパイを全て食べ終えた次の朝に、トムは温かいスープでもマッシュビーンズでもなく、テーブルの片隅にあった前の晩の残り物の冷たいサンドイッチを選んだ。誕生日から二日が過ぎたその日、トムはまるで今朝見た夢を話すように何でもないことだとぽろぽろと話したので、私の頭からすっかりこぼれ落ちそうになってしまっていた。けれどどうにか私の前髪を掴んでぶら下がっていたそれを思い出し、私は随分と久しぶりに感じる一人きりの夜を過ごしていた。


「…………サミュエル、遅いな」


固くなって塩気ばかりが気になるチーズの挟まったサンドイッチを食べながら、ぽそりと呟く。頭に浮かんだくすんだ赤毛は確か少しだけビンズ先生の所に顔を出すと言っていたけれど、少し、とはどれくらいなのだろうか。
サンドイッチの具を確かめたり、普段は怒られてしまうからと食事中に広げたりしない図書室の本をこっそり広げたりしていたせいで、大広間で食事をする生徒の数は両手で足りてしまう人数になってしまうくらいに随分と時間が経っていたけれど、ミネルバどころかサミュエルすら姿を見せない。


「……何だか、美味しくないな」


もしかするとビンズ先生と三人で魔法史の教科書を隅から隅まで読み込んでいるのだろうか。ぼんやりと考えながら、大広間に浮かぶ金色の蝋燭を見上げる。いつもの背の高い蝋燭に戻るのは、一体いつなのだろうか。ゆらゆら揺れる火を見ていると段々瞼が重くなってきたけれど、膝に広げた『ヴィーラと歩くマグル界』にカチカチのチーズが落ちそうになって、慌てて頭を振った。図書室の本を汚すと医務室送りだぞ、と名前も知らないグリフィンドールの上級生が話していたのを、私はしっかり覚えていた。
何故だかいつもより美味しくないサンドイッチをほうばって、テーブルの上に本を置く。指が汚れていないことを確かめて本の表紙を撫でていれば、不意に表紙に影が落ちた。
甘い、チョコレートの匂いがする。


「……お前、そんなの読むんだ」


固くて塩気の目立つチーズが、時間をかけて食べていたせいでパサついたパンと一緒に喉に引っ掛かりそうになったのは、後ろから本を覗き込んできた藍色のせいだった。
呼んでもいないのに直ぐ様飛んできたくすくす妖精が喉のまわりをくるくる回って、息苦しくなる。咄嗟に鼻を隠そうとすれば、それに気付いた藍色の瞳が後ろから私の肩に手を置いて、顔を覗き込んでくる。飲み込んだサンドイッチが、お腹の中で暴れまわっていた。ちくちくと、お腹が痛い。


「……そんな顔するなよ。何もしねえよ」

「あ、ご、ごめん、なさい」

「…………別に良いけど」


胸のあたりからぞわりと嫌な何かが指先へと走って、私は結局鼻を隠す。すると藍色の彼、ヒュー・ガーランドはそんな私を見て、直ぐに何でもなかったかのように目を逸らし、私がしていたように本の表紙を撫でる。
『ヴィーラと歩くマグル界』を手に取った彼はそのまま私の隣に腰をおろし、ミネルバが此処にいたら嫌な顔をするだろう片膝を立てた、所謂行儀の悪い座りかたをして、本をぱらぱらと捲っていく。埃の匂いが指の隙間から鼻先を撫でて、頭がくらくらした。
どうして彼が、ミネルバでもサミュエルでもなく、ガーランドが私の隣にいるのだろう。


「これ、もっと詳しく書いて欲しいんだよな……」


コベントガーデンのマグルの花売りと路地裏で話し込む頁から、ビスケットの欠片がぽろぽろと落ちてくる。私の食べこぼしではないそれをガーランドが私のものだと勘違いしていたらどうしようかと思って思わず手が宛もなく宙を泳いだけれど、彼は気にする素振りも見せず膝やローブに落ちたそれを右手で払い落とすだけだった。


「コベントガーデンか……どんな所なんだろうな」


テーブルの端の銀皿から薄く切られただけのパンを取って、ガーランドはそれを口にくわえる。まるで私をジャックやイアンと間違えているかのようにするすると言葉を吐いてパンを食べるので、私の手はまた宙を泳いだ。けれどやはりそれは泳ぐだけで、答えどころか答えの切れ端すらも掴めない。
冬用のローブにすっぽりと身を包んだガーランドが、相変わらず行儀の悪い座り方をして頁を捲っていく。黄ばんだ紙の隅に書かれた数字が大きくなるにつれて彼の藍色の目は楽しそうに細められていって、そして私の手は泳ぐことに疲れ膝の上に戻った。


「……マグルの住宅街…………」


あと五回私が瞬きをする間に、きっと彼はヴィーラとの旅を終えるだろう。ぱらぱらと流し読みをしていた彼がぽつりと呟いた頃には端に書かれた数字がとても大きなものになっていて、それの半分すら読めていない私は何故だかとても焦ってしまった。
何も塗っていないパンを口の中に押し込んで、ガーランドは『ヴィーラと歩くマグル界』をテーブルに置く。横目で盗み見たその頁には大きな地図が載っていて、私は彼の向こう側を見ている振りをして本を覗きこんだ。
虹の家と書かれたレンガ造りの建物が、地図の左に座り込んでいる。頭の中で、父さんの薄いトレンチコートの裾が揺れた。


「あ、」


そうだ、これは確か、赤レンガ色をした小さな建物だ。
思い出した瞬間口から声が漏れていて、ガーランドが藍色の髪を揺らして私を振り返る。慌てて口を結んで天井を見上げたけれど、彼はそんな私を先回りして顔を覗きこんできた。藍色の瞳は、よく見るとダークグレーの星が広がる形の良い不思議な瞳をしていた。


「お前、此処行ったことあるのか?」

「あの、えっと、……うん、うん、行ったこと、ある……。あの、この、虹の家……」

「……すっげえ、この辺りってマグルばっかりなんだぜ?この虹の家は魔女がやってるらしいけど、ほら、こことか、こことか、全部マグルの家と店だ!」

「え、あの、あの、」


ぼわり。まるで彼の頬や喉に、火が灯ったようだった。
肩を上げて私に向き直った彼の頬がたちまちオペラ色に染まって、いつも閉じられていて滅多に開かない唇からサミュエルよりもほんの少し地面に近い声が飛び出してくる。柔らかくも穏やかでもないその声を追いかけることが出来ずに瞬きをすれば、彼は藍色の髪を揺らしてぐっと私に近付いた。
甘い、チョコレートが鼻を撫でる。


「俺、グルグモンドに住んでるんだ!マグルで言うとカンタベリーって所なんだけど、ハイストリートから一本入ると魔法使いと魔女の住む横丁になっててさ、でも俺みたいな匂い付きは滅多に横丁から出れないんだよ」

「カンタベリー、カンタベリー……」

「凄いな、お前、俺だって大人としか歩いたことないんだぜ?それもほんの一時間、パンを買いに行くだけだ!」


彼の目には、私の部屋の窓から見える景色はどう映るのだろう。藍色の瞳の中に浮かぶダークグレーの星が瞬いて、彼は嬉しそうに笑う。薄い唇の間からこちらを覗く白い歯を見つめれば、彼の瞳がぱちりと大きく開いた。
『ヴィーラの歩くマグル界』を横目に見て、彼は口をきゅっと結び、そろりそろりと私から距離をとる。オペラ色がゆっくりと音も立てずに引いていくのを見ながらごくりと唾を飲み込めば、彼は小さく悪いとだけ呟いて、一瞬瞳を震わせた。
藍色の瞳が、ぐるりと大広間を見回す。ぽつりぽつりとテーブルに座る黒いローブの背中はどれも私より大きくて、そこから伸びる手足は私よりもずっと長くて大人に近かった。


「……お前、この辺りに住んでるのか?」

「この辺り……、この辺り?」

「ここ、これだよ。コベントガーデン」


喉に灯った火も消えてしまったらしい彼は、私にだけ聞こえるような小さな声でそう言って、テーブルに広げられたままになっていた本を指差す。小さな爪が地図の真ん中を引っ掻いた。
コベントガーデン、虹の家、ひらひらと揺れる父さんの薄いトレンチコート。夢中で追い掛けた道程の長さを、私は思い出せない。けれど、トムが窓の鍵をあけて待っていたあの孤児院よりはずっと遠かったように思う。


「ううん、私の家はメリルボーンよ、メリルボーンにあるの」

「メリルボーン?……マグルの町の名前か?」

「そう、そうなの。多分そうだと思う」


トムが頬杖をついて路地裏を見下ろすその姿が、額の裏側にぷかぷかと浮かび上がってきて、私はこっくりと頷きながら答えた。彼はそんな私に目を細めて、『ヴィーラと歩くマグル界』を撫でる。
そうっと本を閉じて、彼、ガーランドの瞳がまた大広間を見回す。ふと何かを見付けたように彼の瞳が動きを止めて、彼の唇が半月を描いた。


「今度ゆっくり話そうぜ。俺と、お前だけ。二人きりで」


ぽろぽろと、唇から言葉がこぼれ落ちるかのように、彼は言う。甘いチョコレートがまた鼻を撫でたかと思えば視界の半分が藍色で埋まって、頬に冷たくてさらさらとした何かが触れる。彼の藍色の髪だ。


「あとさ、良いこと教えてやるよ」


耳を、温かい空気が擽る。目の前にはくすくす妖精が飛び交っているけれど、不思議なことにくすくす妖精はただの妖精で、口許を押さえてそこにいた。くすくすと笑って良いのか悪いのか、分からないらしい。


「あいつ、お前と仲の良いレイブンクローのメイフィールド、」


とん、と腕をつつかれて、視線を下げる。真っ黒いローブの下から伸びる彼の手が揺れて、それから指先が私の鞄から覗くハシバミ色の羽根ペンを真っ直ぐ示したかと思えば、彼の指はそのまま私の後ろへと進んでいく。
振り返った先にいたのは、狼人間に囲まれたかのように真っ青な顔をしたくすんだ赤毛、サミュエルだった。


「あいつはな、」


小さくて掠れた声を聞きながら、私は目を見開く。彼、ガーランドの口からこぼれる言葉が目の前で弾けて、勢いよく頭の中に飛び込んでくる。大広間の天井に浮かんでいる金色の蝋燭の火が、とても眩しく感じた。
チョコレートの匂いがゆっくりと離れて、彼は立ち上がる。藍色の髪を揺らす彼の回りにはやはり口許を押さえて首を傾げるくすくす妖精がいて、私は思わずスカートの裾を握りしめた。


「じゃあ、またな、カザリ」


ぽん、と彼が私の肩を叩いて歩き出せば、くすくす妖精はたちまちぱちんと泡が弾けたような音を立てて消えてしまう。は、と振り返ればガーランドとサミュエルがすれ違った所で、ガーランドは一度ちらりと此方を見て、それから小さく笑って大広間を出ていった。
スカートを握り締める手が、震える。顔の直ぐ真ん前にチョコレートの匂いが残っていて、頭の中ではガーランドの言葉がどっしりと座って、私と、それから真っ青な顔をしてその場に立ち尽くすサミュエルを見つめていた。


「さ、サミュエル、ひどい、ひどいじゃないっ……」


くすんだ赤毛の前髪から覗くグレーの瞳が、薄い膜をはって揺れている。ふるりと震える唇が私の名前を呼んだ気がしたけれど、私はそれに答えず彼に駆け寄った。
途切れ途切れの息を吐いて後ずさったサミュエルの冷たい手を捕まえて、私は彼の顔を覗きこむ。彼の手は、私の手を握り返してはくれなかった。私には、その理由が分かっている。


「ひどい、ひどい、サミュエル、ひどいっ……」

「ご、めん、僕、そんなつもりは、ごめんよカザリ、」

「ゆ、許さないんだからっ、私、許さないんだからっ……!」


ひゅ、と、サミュエルの喉が鳴った。私はぐっと背伸びをして、サミュエルの瞳を覗きこむ。
くすんだ赤毛が邪魔をするグレーのその瞳は、確かに見覚えがあったのだ。


「どうしてアンドリュー先輩と、アンドリュー先輩とサミュエルは兄弟だって、教えてくれなかったのっ……!」

「………………え?」


ぱちりと瞬きをしたサミュエルのグレーの瞳から、一粒の星が降ってくる。それが私の頬に落ちて、サミュエルはたっぷり三回瞬きをして、それから漸く私の手を握り返してくれたのだった。




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