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「どうして?どうして黙ってたの?」


ふわふわする。体も頭も、頭の中も、空気も何もかも、ふわふわする。
誉められることのないくすんだ赤毛の前髪を持ち上げて、僕は前を見る。真っ暗闇の真ん中にぼんやりと光るものが見えて、目を細めて歩み寄れば、それは小さく膝を抱えて踞るカザリだった。
ダークブラウンの瞳が僕を見上げて、形の良い唇を震わせた。いつもの僕なら直ぐにでもそんなカザリに駆け寄って目の前に跪き、どうしたのかと問いかけるけれど、どうにも足が動かなかった。
やっぱり、頭がふわふわしていた。


「どうして、どうして、黙ってたの」


聞いたこともない強い口調でカザリがそう言って、僕はそこで漸くカザリの手に羽根ペンが握られていることに気が付いた。それから真っ暗闇だと思っていたそこは深い深い藍色の海で、とっぷりと音を立てて誰かが顔を出してくる。
カザリの手にある羽根ペンは、確かに僕が拾った、あのハシバミ色だった。


「サミュエル、サミュエルどうして、」


酷いわ。


「っ…………、……あ、」


わんわんと頭の中で、何かが揺れている感覚がする。飛び跳ねるように体を起こしたからか、枕がベッドから転がり落ちて、その音に眠気の波を乱された誰かが寝返りをする音が聞こえた。
辺りを見回せば、ほんの少し開いたカーテンの隙間から部屋を満たす星明かりが入り込んできていることに気が付き、僕は息を止めてカーテンをあける。部屋の窓を開ければぐるりとホグワーツを見下ろせる位置にあるレイブンクロー寮の一室はいつも静かな煌めきに満たされていて、きん、と冷たい空気が漂っていた。
そっとベッドからおりて、窓際に歩み寄る。途中で枕を拾い上げ窓際に座り込めば、漸く頭が遅れて目を覚ました。


「……夢だ」


そうだ、あれは、あんなの、夢だったんだ。
枕をぎゅっと抱き締めて、窓ガラスを指でなぞる。誰かの苦しそうな呻くような寝息が微かに聞こえて、もしかすると僕の夢の続きを見ているのかもしれないと思った。そんなこと、あるはずがないのだけれど。
レイブンクローカラーの枕を撫で付けて、意味もなく前髪を引っ張る。瞬きをする度に藍色の海の真ん中に座り込むカザリが目の前に現れるせいで、もう寝付けそうになかった。


「…………嫌だな」


苦しそうな呻くような寝息に紛れて、僕はそうっと呟く。父さんと母さんに抱き締められる兄さんを、部屋の外から眺めていた頃の自分を思い出して、胸のあたりで重い何かが渦巻いていた。
朝になったら、それも無くなるだろうか。それとも、もっと重さを増して、僕の胸にのし掛かってくるのだろうか。ううう、と、とうとう呻き声が上がり始めたベッドに背を向けて、きっと兄と座ることになるだろう朝食のことを考える。あまり気は進まないが、それでもずっとましだった。
羽根ペンのことを、話すよりも。


「……教科書でも読もう」


物音を立てないように指先まで神経を張り巡らせて、呻き声の前を通りすぎ、自分のベッドに潜り込む。ベッドの下のトランクに積んであった教科書を手探りで一冊引き寄せれば、それは魔法史の教科書で、眠れない夜にはぴったりの友人だった。
射し込んでくる星明かりで教科書の表紙を照らしながら、そっと頁を捲る。いつもはつまらない文字の列が星の煌めきを吸い込んで、銀に輝いていた。


「…………何にも、言われないと良いけれど」


最後にそれだけ呟いて、僕は銀に輝く文字の向こうへ飲み込まれていく。目の前はもう、17世紀のマグル界の真ん中にぽつんと存在した、変わり者の魔女だらけの小さな村だった。



そして、銀に輝く文字の向こう側を一世紀分眺め終えた僕の隣には、ぐすぐすと鼻をすすりながらテーブルに臥せる不思議な小さな魔女の姿があった。


「カザリ、ねえカザリったら、どうしたの、朝からそんな格好で」


あなた、ロンドンの天気みたいにとっても陰気臭いわよ。
ホットミルクの入ったゴブレットに蜂蜜を垂らしながら、向かい側に座るマクゴナガルが不思議な小さな魔女、カザリに問いかける。カザリは一度窺うように顔を上げたが、横目でちらりと僕を見るなり直ぐにまた臥せてしまって、何も答えない。それに気付いて僕の方に向けられたマクゴナガルの視線が、視界を隠すために伸ばした僕の前髪を燃やしてしまうような気がした。


「……昨日、何かあったの?私が此処に来たときはもう貴方達はいなかったし、二人で夕食をとったのでしょう?」

「ああ、あの、うん、まあそうなんだけど……」

「……メイフィールド、私貴方に言わなくちゃならないことがあるわ。私って、案外気が短いみたいなの」

「ごっ、ごめん、待って、ごめん……」


カザリが臥せっていて、良かった。きっと今のマクゴナガルの眉間を見れば、カザリはそこに妖精が挟まってしまうのではと心配してしまうだろうから。
ルバーブのジャムを薄切りされたバゲットに塗り付けながら僕を睨み付けてくる彼女から少しでも逃れたくて、僕は前髪を触りながら首を竦める。がじりといつもはたてない音をたててバゲットを噛みきったマクゴナガルの空いた左手は、テーブルに臥せるカザリの頭に置かれていた。


「あの、僕、てっきりカザリが知ってるものだとばかり思ってたんだ」

「……もう一度言うわね、ごめんなさい。私、案外気が短いみたいなのよ、ミスターメイフィールド」

「ああ、あの、知ってるものだと思ってたんだよ、だから、僕と、兄さんのことを」

「兄さんのこと?」


バゲットを銀の皿に置いて、マクゴナガルは一度ハンカチを取り出し手を拭う。ハンカチの端に飾り付けられた控えめなレースをカザリが見ればきっと彼女によく似合っていると褒めるのだろうが、僕とマクゴナガルの間にそんな言葉が飛び出すはずもなかった。今だって、こうして話しているのはカザリがいるからなのだ。
カザリがそれを見る間もなくマクゴナガルはハンカチを几帳面に折り畳んで、制服のポケットにしまいこむ。眉間の皺はいつの間にか無くなっていて、あるのは呆れたような笑みだけだった。やはり、マクゴナガルは兄さんのことを知っていたらしい。


「まあ、あなたも大変ね。でもそれがカザリといる楽しさでもあるわよ」

「……けど、まさかこんなに落ち込まれるなんて」


こんなことになるなら言っておけば良かった。
ぐすぐすと鼻をすするカザリをちらりと見れば、喉の奥のあたりを何かがしめつけてくるような感覚がした。そろりと後ろから手を伸ばして背中を撫でようかと思ったが、どうにも喉の奥から何かが顔を出しそうな気がして、気付かれないように手を戻す。
結局膝の上に置かれた僕の手に気付いたマクゴナガルが、まあ、と珍しく驚いたような声を上げた。顔を上げれば、マクゴナガルは何故だか目を細めて笑っている。


「あなた、存外分かってないわね。意外だわ」

「……どういうこと?」

「そのままの意味よ。だってあなた、カザリが教えてくれなくて悲しんでるのだと思ってるのでしょう?」

「えっ」


その言い方をするということは、違うということなのだろう。
隣にいるカザリの肩が小さく跳ねて、臥せったまま長いダークブラウンの髪を指先に巻き付け、また鼻をすする。気のせいか、小さな指先が赤らんでいる気がした。


「ねえカザリ、いい加減ミルクをどうぞ。一口飲めば気持ちも落ち着くわ」


とん、とん、とテーブルをつつくマクゴナガルの指先が、ゆっくりカザリに近付いていく。とん、と、とうとうカザリの旋毛に辿り着いたその指先がダークブラウンの髪をくるくると巻き付けたその時、漸くカザリが顔を上げた。
すん。最後に一度鼻をすすったカザリが、マクゴナガルの指を髪から外しながら僕を振り返る。カザリのポピーレッドの頬が、喉の奥を締め付けた。


「……ミネルバも、ミネルバは知ってたの……?」

「ええ、勿論。知らないのはあなたくらいよ。ああ、あと、あなたの寮の赤毛の男の子と、スリザリン生」

「や、やっぱり、やっぱりそうなんだっ……」


カザリのポピーレッドが、どんどん濃くなって、彼女の頬が熱をあげるのが見てとれた。
ダークブラウンの髪を両手でつかんで、カザリは髪で顔を隠すように腕を交差して俯いてしまう。何なんだ、一体どういうことなのだ、と僕が戸惑っているうちにカザリはじりじりと僕ににじり寄ってきて、僕は思わず息を止める。今息をすればカザリの不思議な花のような匂いが、もっと喉を締め付けてくる気がした。それは決して、嫌な気分じゃないだろうけれど。


「……ごめん、ごめんなさい、サミュエル……」

「…………え?」

「私、私って、」


それきりカザリは黙り込んで、髪ですっかり顔を隠し顔を上げなかった。
思わずマクゴナガルを見れば、まだ分からないのか、とまた眉間で妖精を捕まえようとしていて、僕は慌てて目をそらす。どうやら彼女はカザリがこうしている理由を教えてくれる気はないらしかった。
小さくなって俯くカザリを見下ろせば、カザリの赤らんでいる指先が微かに震えているのが見える。並んで歩いた時はいつも、小さいな、と思っていたが、今はいつにも増して小さく見える。そんなに小さくなって、いつか消えてしまうんじゃ、なんて思ってしまうほどに。
そこまで考えて、ふと、目の前で何かが僕を手招きした気がした。


「…………ねえ、カザリ」


ぴったりと隣に寄り添って小さくなっているカザリの名を呼べば、カザリはゆっくりと顔を上げ、髪の隙間から僕を覗いてくる。よくよく見ればカザリの瞳は潤んでいて、僕は思わず頬を緩めてしまう。


「ねえ、カザリ、僕、何とも思ってないよ」

「…………本当、本当に?」

「うん、本当だよ」

「……お、怒ってない?友達なのに、友達なのに気付かなかったのかって、怒ってない……?」

「うん。怒ってない」


だから、と続けながら、僕はそろりとカザリの手をとる。思っていたよりも簡単に僕の手に従ったカザリの手のひらからするすると髪が流れて、カザリは口をつぐんで僕を見上げた。
頬にかかった髪を退けてやれば、カザリはぎこちなくはにかむ。それがどうしようもなく胸のあたりをちくちくとつつくから、僕はたまらず奥歯を噛み締めた。
カザリはまだ、あのハシバミのことを知らない。


「わ、私ね、枕を叩きながら考えてたんだけれど、何だか、何だか恥ずかしくなってきて……」

「ま、枕、叩いてたの?」

「そっと、そっとよ?何だかね、私ってばサミュエルのこと見てたはずなのに、勿論アンドリュー先輩のことも見てたはずなのに、どうして気付けなかったんだろうって」

「……でも、性格は正反対だ、僕ら」

「でも似てるもの。とってもとっても、似てるもの」


ダークブラウンの長い髪がゆらゆら揺れるのを見つめれば、カザリは僕の手を握りしめながら下唇をかむ。同じ色をした瞳は僕の瞳を見ているはずなのに、何故だか頭の中を覗かれている気がした。


「二人とも、とっても綺麗な瞳を持ってるもの」


長い睫毛を持ち上げて、カザリは僕の顔を覗き込む。君の方が綺麗だ、なんて、兄さんなら言えただろうか。


「私、こんなにサミュエルのこと近くで、近くで見てたのにっ……」

「……う、ん、確かに、近いね……」

「…………サミュエルの睫毛、とってもとっても長いのね」

「あの、うん、えっと、ありがとう……」


ぱちりぱちり。カザリが瞬きをする度に、目の前で光が弾けていく。それにカザリは気付いていないのか、それとも僕にしか見えないのか、カザリは構わず僕の瞳を見つめ続けた。
とん、とテーブルをつつく音がしたのは、カザリのダークブラウンの中にいた僕の顔がオペラ色に染まりきった時だった。は、とマクゴナガルを振り返ると彼女は大広間の入り口を指差しながらティーカップを口につけていて、僕は恐る恐る振り返る。僕と同じくすんだ赤毛は、今日に限っていち早く僕たちを見つけた。


「お、何だ何だ、何してんだよお前ら。ニック、あそこで食おうぜ!」

「アルはまだ地下室でおねんねか?」

「さあ?まあ先に食おうって、あいつなら一人でも平気だろ!」

「寂しがり屋のアンディとは違ってな」

「ううううるせえっ!」


ひときわ大きな声で彼、兄さんが叫んで、カザリは漸くその存在に気付いたらしい。ぱっと僕の手を離して何故だカザリは立ち上がり、その場に立ち尽くす。そんなカザリに兄さんが話しかけないわけがなく、兄さんは人のいい笑顔を浮かべて小走りで駆け寄ってきた。
目尻を下げて笑う兄さんの考えていることが、分からない僕ではなかった。


「よう!カザリ!おはよう」


目尻を下げて手を広げた兄さんは、彼に懐かない僕とカザリを比べて、カザリを愛おしくて仕方なく思っている。


「お、お兄ちゃんっ……?」

「………………えっ!?」


そして、手を広げたまま顔を赤く染め上げた兄さんは今、胸のうちにぐるぐると込み上げてきた得体の知れない感情を理解しようと必死なのだ。
ぴたりと動きを止めたまま動かなくなった兄さんと、不思議そうに首を傾げるカザリから目をそらし、大広間を出ていこうとしていた三人組の背中を追いかける。一歩後ろを歩く藍色はやはり振り返って、僕を見た。
藍色の瞳が細められるのを、僕は黙って見ていた。


「ご、ごご、ごめんカザリ!聞こえなかった!聞こえなかったわー!もう一回言ってくれるかな!お願いします!」

「アンドリュー先輩、おはようございますっ」

「あっ、おはようございます」


とん、とテーブルをつつく音に、僕は振り返る。ティーカップを空にしたマクゴナガルが小さく笑っていたので、僕も笑い返した。
僕の中でだけ、ハシバミ色が音もなく広がっていた。




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