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「アブラクサス、ねえあなた天文学のレポート終わってる?」


静かすぎる地下の廊下を歩いていれば、べたりとまとわりついてくる猫撫で声が僕を追い掛けてきた。
いかにも湿っぽい石壁の廊下を点々と照らす蝋の灯りが猫撫で声の持ち主を照らして、僕は黙って鞄をかけ直す。それを見た猫撫で声の持ち主の彼女、ヴァルブルガは白い歯を見せながら此方へ駆けてきて、細く長い廊下に彼女の足音がやけに大きく響いた。この廊下の先に監督生でもいたら、彼女はきっと箒で人を殴り付けるくらいの減点をもらうだろう。それくらい、彼女の自信に溢れた足音は大きかった。


「ねえ、聞こえた?聞こえなかったの?」

「天文学だろう。やったに決まってるさ、君と違って」

「あらっ、言ってくれるじゃない。でもその通り!だから、分かってるんでしょう?」

「……君はもっと純血として誇りを持つべきだ」

「持ってるわよ。見えないかしら?」


隣までやってきた彼女はそう言うなり、ふんっ、と黒い髪を揺らして胸をはってみせる。名前の通り真っ黒い瞳が薄暗い廊下の中でもぎらぎらと光って見えて、その自信に溢れる見た目と先程の足音にだけは成る程な、と納得した。


「そうじゃない、純血なんだ、天文学くらい自分で片付けたらどうなんだ」

「違うわよ、純血だから天文学なんて自分でやる必要がないんだわ」

「……僕はどうなる」

「あなたは真面目だからよ。それで良いじゃない」


これじゃあ話にならない。何をどういったって彼女には無駄だろう。呆れて僕が歩きだせば、こつこつと踵を鳴らす彼女が追いかけてくる。その足取りはやけに軽く、まさか僕がレポートを貸さないなんて思ってもみないようだった。
湿った石の階段をそろそろとのぼって、いくらか明るい廊下に出る。ちらほらと見えたのはグリフィンドールの上級生達で、彼らはどうやらクィディッチの練習に向かうらしかった。土と汗のにおいが混ざる箒の頭が、紅い群れの中からいくつも飛び出している。


「ねえ、図書室に行きましょうよ。奥の席なら静かにレポートができるわ」

「レポートを写すの間違いだろう」

「なによ、意地の悪い」


まさか、彼女にそんな台詞を吐かれるなんて。
心底軽蔑した、とでもいうように彼女が目を細めて僕を睨む一方で、僕は心底信じられない、と彼女を睨み返す。それで怯んだりする可愛いやつではないということはとうに知っていたが、それでもそうせずにはいられなかった。なんとも、楽しくない。
たっぷり廊下一本分睨み付けたことで満足したのか、廊下の角を曲がるなり彼女は肩を竦めて目をそらした。そのまま諦めてくれればいいが、そうもいかないこともとうに知っていた。


「それで、いつ図書室に行く?これから暇なら一緒にどう?」

「どうも何も、僕はもともと図書室に行くつもりだったんだ。だけどそれは君にレポートを貸すためじゃない」

「あなたって本当につまらないわね」

「それはどうも。……あ、なんだ、ルクレティアが、」


もう一つ角を曲がって、中庭を抜けようとしたその時、ふいに中庭の向こう側を隣の彼女と全く同じ黒髪が横切るのが見えた。思わず歩みをはやめ、中庭を走り、僕はルクレティアにヴァルブルガの世話を頼もうと声をかけようとして、それから歩みをとめた。
ルクレティアに背を向けて、ダークブラウンの長い髪を揺らすカナリアイエローが歩いてくる。それは僕に気付かず、中庭を見ることは一度もせずに、踊るような足取りで目の前を横切っていった。
クリスマスに見た銀のタイピンが、あの気に食わない顔と家柄だけは誰よりも良いブロンドが、頭を過った。


「ちょっと何よ急に走り出して……あっ、ルクレティア!ルクレティア!」

「あらっ、何してるのよ二人とも。暇そうな顔」

「暇そうな顔ですって?あなただって大して変わらない顔よ」

「そりゃそうよ、親戚だもの」


廊下を曲がりかけていたルクレティアを呼び止めて、ヴァルブルガが駆けていく。天文学のことなど頭から抜け落ちたのか、彼女らはそのまま去年のクリスマスの話をしだして、僕はすっかり歩く気も失せてその場に立ち尽くしていた。
ダークブラウンの髪が、彼女の足取りを追い掛けてゆらゆらと踊っている。すれ違ったストロベリーブロンドと赤毛の二人組に振られた手は、酷く小さく見えた。


「…………気に食わない」


あの間抜けな足取りも、てんで役に立たない杖を握る手も、何もかも。
女はやはり、僕が睨めば怯むくらいで良いんだ。こつんと中庭に落ちていた小石を蹴飛ばして、僕は廊下の角で次のクリスマス休暇の話に花を咲かせる真っ暗闇のような二人を睨み付けた。真っ暗闇達は僕に気付かず、次のクリスマス休暇はパリへ、ローマへ行きたい、と笑っていた。





「カザリ!俺は誰だ!?」

「えっ、アンドリュー先輩、アンドリュー先輩ですっ……」

「諦めろアンディ、あれは奇跡だったんだよ」

「ぐ、止めろニック!俺は諦めていない!奇跡は何度だって起こる!」

「無理矢理起こそうとするなよ、お前」


ニコラス先輩がそう言ってアンドリュー先輩の頭をぱしん!と叩き、痛がる彼を引きずって歩き去っていくのを、私はすっかり見慣れてしまっていた。
アンドリュー先輩は、自分の名前を忘れてしまうのだろうか。何かを叫びながら引きずられていく彼を見送って、私は中庭のベンチに座り込む。ミネルバもサミュエルも、今頃羊皮紙に向き合っているのだろう。


「……レポート、やだなあ」


昼食を終えるなりさっさと寮に戻ってしまったミネルバと、困ったように笑いながら図書室に吸い込まれていったサミュエルを思い出して、思わずため息が出た。グリフィンドール寮までついていくことは出来ないが、図書室ならば一緒に吸い込まれた方がよかっただろうか。週末だからと羊皮紙二巻き分のレポートが出た変身学と魔法史、それから天文学を思い出してはまたため息が出て、ローブのポケットに突っ込んだ赤い日記帳に、トムの名を書く元気も出てこない。中でも魔法史が、うんと難しすぎたのだ。


「…………教科書、見よう」


ベンチに座らせていた鞄から、魔法史の教科書を取り出す。私の拳より分厚いその中に、ドイツにある変わった魔女だらけの小さな村があるらしいが、私には目次の文字を読むことも難しかった。教科書を開いた途端にトムとビンズ先生の淡々とした語り口が両耳から入り込んでくる気がするのだ。
目次だけで人差し指分の厚さがあるそれを捲りながら、私はローブのフードをかぶる。時折吹く強い風は、まだまだ氷のように冷たかった。


「…………何してんだ、こんな所で」


びゅう、とその日一番だろう強く冷たい氷の風に、思わず足を上げたその時だった。ふ、と教科書に薄い影が落ちてきて、少し低めの男の子の声が降ってきたのは。
は、と顔を上げると、すぐ近くで藍色の瞳が瞬きをして、私は慌てて教科書で顔を隠す。ごつん、とぶつかったのは、私の背中とベンチの背もたれだった。


「すっげえ音……大丈夫か?」

「あ、う、うん、だい、大丈夫……!」

「そうか?ならいいけど、よ」


よ、と、彼は私の鞄を持ち上げて、今の今まで鞄が腰を下ろしていたところに彼が腰を下ろし、そして鞄は彼の向こう側へ下ろされた。何かを言わなくては、何か、何を、と私が戸惑っている間に彼はベンチの背もたれにゆったりともたれ掛かり、私を振り返った。
甘い、チョコレートの匂いがした。


「あ、魔法史のレポートか?」


ぐ、と私の顔を隠す教科書を指で押して、彼は首を傾げる。ひゅうひゅうと風が吹く度に彼の藍色の髪が揺れて、じっと私を見つめる瞳をその度に隠してくれた。


「……う、ん」

「ドイツの変な魔女の村だろ?それ教科書にあんまり載ってないぜ、確か」

「え、ええ?」

「ビンズ先生が授業で喋ってたことと教科書見比べたらさ、全然量が違うんだよ。ビンズ先生の話の方が長くてさ」

「えええっ?」


恐る恐る頷いてみせれば、彼の小さな口からぽろぽろと言葉が溢れだしてきて、私はその言葉が思ってもみない色をしていたせいで驚きの声を上げてしまう。


「だから授業で聞いた話をレポートに書くしかねえんだよ。図書室にその話の本があるなら別だけどな」

「えええ……」

「まあ授業の真ん中くらいで話してたから、半分は寝てたけど。俺もその後寝たし」

「………………わ、私、私ずっと寝てた……」

「……そ、そうか」


く。彼の喉が、何かを堪えるように震えるのを、私は肩を落として見ていた。
寒いのだろうか。口元を隠した彼が白い息を震わせて、私から目をそらす。私は彼に気付かれないように教科書の下で鼻を撫でながら、爪先に視線を落とした。
爪先のすぐ前で、私の鼻をつまんだ彼と、嬉しそうにマグルの街の話をする彼がいる。ちょん、と爪先を蹴り上げるとそれは霧のように溶けて消えて、チョコレートの匂いだけが漂っていた。彼は、チョコレートをローブのポケットに詰め込んでいるのだろうか。


「っ、はー…………なあ、」


そんなことを考えていれば、とん、と肩を肩でつつかれて、私は思わず教科書を膝に落っことしてしまった。


「わ、な、なにっ……?」

「いや、悪い、驚かせて」

「ううん、ううん、へ、平気っ……!」


ぶんぶんと首を横に振りながら慌てて教科書を拾い上げ、私は教科書を捲る。先程まで開いていた頁なんて、もう思い出せなかった。
フランス、オランダ、ノルウェー。クィディッチの歴史に、史上最悪の魔法道具。目次をぱらぱらと捲りながら何でもないふりをしてみても、じわりと目の奥が熱くなってくるのが分かった。恥ずかしいのか怖いのか、自分でもよく分からない。


「なあ、お前さ、マグルの街に詳しいんだろ」


図書室でレポートをやっつけたサミュエルが、私を見付けてくれないだろうか。と、そんなことを考え出した時だった。
鼻をつまんだ彼ではない彼がひょっこりと目の前に現れて、藍色の瞳をきらきらと輝かせ私を見つめる。とっぷりと深い夜の上を流れるダークグレーの星が詰まったその瞳は真っ直ぐ私の瞳だけを見ていて、私はゆっくりと教科書を閉じた。
こくりと小さく頷いて、うん、と呟くように答えれば、彼の瞳はますます輝きだす。


「なあなあっ、俺、良いこと考えたんだ!」

「い、良いこと……?」

「そう、良いこと。お前が俺にマグルの街のこととか、家のこととか話すだろ?そしたら俺はお礼に、レポート見せてやるよ」

「え!ほ、本当にっ?」

「本当だ!な、良いだろ?良いことだろっ?」


つう、と、すぐ目の前で、夜の上を星が滑っていく。私はチョコレートの夜に鼻をつままれたことなどすっかり忘れて、頬を染めて笑う彼につられて頬を緩めてしまった。
そんな私を見て、彼はどうやら肯定ととったらしい。よし!と頷くなり彼は立ち上がり、跳ねるように私の前に回り込む。それから腰をおって私に顔を近付けて、ローブのポケットから杖を取り出した。
目の前に差し出された杖に、ぎらぎらと光る真っ黒い瞳を思い出して、私は思わず息を飲む。しかし、目の前の彼は不思議そうに首を傾げるだけで、私を深い深い穴の底へ落とすことはしなかった。


「あれ、お前、知らねえの」

「え、なに?なにを?」

「あー、そっか、これって俺の住んでるところだけか……。杖出せよ、杖、持ってるだろ」

「あ、うん、待って、待って……」


ほらはやく、と急かされて、私は慌ててローブのポケットに手を突っ込む。ラズベリー色のキャンディの下に埋もれていたそれは、ポケットから出すと不思議と疲れているように見えた。
ひゅうひゅうと氷の風が吹き抜けて、藍色の髪と私のダークブラウンの髪がもつれあう。それを気にも止めない彼は私の杖の先に自分の杖の先をこつりと当てて、小さな唇を震わせた。


「約束な」


どうやらそれが、彼の暮らす町での誓いの儀式らしい。
杖の先を満足そうに撫でた彼はローブのフードをすっぽりとかぶり、に、と歯を見せて笑う。ぼんやりとそんな彼を見上げていれば彼はおかしそうに笑って、じゃあ、と手を上げた。


「他の奴には秘密。俺が杖を出したら紙を渡すから、紙に書いてる通りにな!」


言うだけ言って、彼は目を細めて笑いながら後ろ向けに数歩走り、それからくるりと背を向けて走り去っていった。
紙を渡されたら、その紙に書かれた通りに、彼と会う。私たちだけの、秘密。
氷の風が吹き抜けていって、それでも私の目の前に残るチョコレートの匂いに、私はポケットの中の日記帳をそっと撫でた。トムに何かを言いたくて仕方ないのに、言葉が浮かんでこなかった。
頭の中は、夜の上を滑っていくダークグレーの星と、私の鼻をつまみそうでつままない指先でいっぱいだった。



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