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「貴方達、もう少しくらい平穏な学生生活を送っても良いと思いますよ?少なくとも、何度も此処で眠らなきゃならないような生活とは、正反対のものです」
魔法薬学の薄暗い教室に立ち込める重くて苦い空気が、消毒薬の臭いと混ざって医務室のそこら中に漂っている。一番奥のベッドを隠すようにひかれたカーテンの周りにもそれはきちんと漂っていて、もっと力を抜いてくれれば良いのに、と思ってしまった。そこら中できちんと漂わなくても、嘘を吐いて休もうとするスリザリンの上級生だとか、まだ治っていないと言いながらベッドで騒ぐグリフィンドールの一年生の周りでだけ漂ってくれれば良いのに、と。
マダムペペの手に握られているゴブレットに目を向けると、ゴブレットの中から粘りけのある泡が弾ける音がする。ぼこん、と弾ける度にしゅわしゅわと角ナメクジのような色をした煙が上がるものだから、私はそれが怖くて何も言えずにうつ向いた。あれはきっと、角ナメクジを溶かしたような味がするのだろう。
「兎に角、彼は酷い熱ですから。此処で待っていてもどうにもなりません。大人しく授業に出るのが貴方の勤めですよ」
分かりましたね。
ぼこん、と音を立ててまたしゅわしゅわと角ナメクジの煙を吐き出したゴブレットを見ないように、私はマダムペペの目だけを見上げて頷いてみせる。横目に、角ナメクジの煙がしゅわしゅわと音を立てながら、ベッドを隠すカーテンの波を撫でるのが見えた。まるで、彼、サミュエルがそれを飲むのではなくて、角ナメクジがサミュエルを飲み込もうとしているようだ。
「あ、あの、サミュエルが、元気になったら、」
「ええ、報せますよ。その辺で嘘を吐いてベッドに寝転がってる生徒を使ってね」
「……おね、がいしま、す」
マダムペペの瞳がぐっと細められて、医務室の出入り口から一番近いそのベッドで寝転がっていたスリザリン生が慌てて起き上がるのを見ながら、私は肩にかけた鞄を抱き締める。スリザリン生がこそこそとベッドから這い出ようとするのを見たマダムペペはますます瞳を細めたけれど、彼女は彼を咎めることはしなかった。
角ナメクジの煙が撫でたカーテンの端をつかんで、マダムペペは私に向き直る。思わず爪先を揃えた私は、マダムペペのその視線よりも、彼女の手にあるゴブレットの中身が心底恐ろしかった。
「あの、あのっ、そ、それじゃあ、よっ、よろしくお願いしますっ……」
「はいはい、分かってます。分かってますとも、勿論ね」
マダムペペの顔を見上げるふりをして、そっとカーテンの向こう側を見る。薄いグレーの影は身動ぎもせず、昨夜から出た熱に弱音を吐くこともなかった。
彼の背中を撫でながら、段々と手のひらが熱くなることに酷く驚いたことを思い出しながら、私はカーテンの向こう側を覗くことを諦めマダムペペに背を向ける。後ろでぼこん、と音を立てた角ナメクジの煙に飲み込まれてしまうサミュエルが頭の端に立っていたが、私は肩を落としながら医務室を出ていくことしか出来ない。
「お前のせいで寝れなかっただろ、一年のくせに」
「ご、ごめんなさい……」
「……べ、別に良いけど……」
ベッドから上手く抜け出したスリザリンの上級生に、こつん、と頭を小突かれながら、私は沼にはまったかのように重い爪先を持ち上げる。頭の中には角ナメクジの煙だとか、ぽろぽろと泣きながら熱を上げていくサミュエルの背中だとか、必死に彼の熱い手をひいて駆けた医務室までの廊下が浮かんでは消えて、その度に爪先を沼の深く深くへと手招きしていた。
「……まあ、そんなに気にしなくても、マダムの魔法薬を飲まされたらすぐ治るって」
「…………はい」
爪先をそっと上げると、ぶらりと何かが揺れている。ガーランドの星の流れない瞳のような暗いそれは、くすくす妖精よりももっと意地の悪いものだった。
やわらかな生地をぽってりと落としてそのまま焼いたような丸い形をしたクランペットに、ミネルバの白くてクリームのような手が蜂蜜を垂らしていく。ふつふつと空いたクランペットの穴に溶けて流れていくそれをぼんやりと見つめていれば、時折ミネルバは書き終えたレポートを確かめるような目付きで私を見てきたけれど、私はクランペットに染み込んでいく蜂蜜を見つめていた。
梟が三羽、私達の上を通り過ぎていく。大きすぎる荷物をぶら下げた三羽は滑るようにグリフィンドールのテーブルに飛んでいき、そのまま中身の入ったゴブレットをひっくり返していた。
「……カザリ、食べないの?あなた、蜂蜜、好きだったでしょう」
「ん、うん、好き」
「それならほら、食べて。出てきたばかりだから、きっととても美味しいわ」
初めから自分で食べるつもりなんてなかったのだろう。ミネルバは当たり前のようにそれを私の方に差し出してきて、ミルクティーを作り出す。いつもは砂糖を入れない私よりもずっと大人の口と舌を持っている彼女の手がシュガーポットに伸びたので、それも私のためのものなのだろう。お腹のあたりがじわじわと熱くなって、何故だか鼻がつんと痛くなった。
「はい、どうぞ」
「……ありがとう、ミネルバ」
「何てことはないわ。いつもしてることだもの。ミルクティーかホットミルクか、それだけの違いよ」
ミネルバはそう言って、眉を上げながら肩をすくめてみせる。
白い湯気が躍りながら上っていくティーカップを受け取って、ひとくち飲む。たっぷりのミルクが鼻の痛みをつかんで、喉をおりていく。ちくちくと、それが引っ掛かって喉が痛かった。
私がミルクティーを飲んだのを確めて、ミネルバは膝元に置いていた鞄を覗きこむ。彼女のように真っ直ぐぴんとした革のそれの中に何があるのか直ぐに分かって、私はフォークを指先でつつきながらミルクティーをもうひとくち飲んだ。
「ミネルバ、私、平気よ。一人でも平気」
「え、な、なに?急に」
は、と顔を上げたミネルバが、彼女と同じようにぴんと背中を伸ばしたような鞄を膝から下ろす。それでもちらりと鞄の中から何重にも巻かれた羊皮紙が見えたので、私は口角を上げてみせる。
あれだけあれば、何度だってレポートをやり直したがるミネルバも満足するまでレポートが書けるだろう。
「私、平気。一人で食べられるわ。だから、図書室に行って。図書室に行って、レポートをうんと書いてきて」
それで、私のレポートも助けてね。
最後にそう付け加えると、それが合図だったかのようにミネルバの表情は途端に緩む。そんなミネルバを見て、喉の痛みは何処かへ消えてしまった。
ミネルバはとても優しいから、私を寂しがらせたくはないのだ。マダムペペに使わされて走ってくる筈のスリザリンの上級生が来ないまま、三日も過ぎていたから尚更のこと。
「言っておくけれど、私ってとっても厳しいの。お忘れなきように」
「うん、うん、分かってる。じゃあね、ミネルバ、行ってらっしゃい」
「ええ。この羊皮紙を全部埋めてくるわ」
何重にも巻かれた羊皮紙を鞄から取り出しながらミネルバはそう言って、テーブルの上にあった薄いパンを一枚だけハンカチに包み、早足で大広間を出ていった。明日には、ミネルバの几帳面な文字で埋め尽くされた羊皮紙が見れるのだろう。私はそれを見るといつも瞼が重くなってくる魔法にかかってしまうのだけれど、今はそれがとても楽しみだった。
「……私も、レポート、やらなくちゃ」
防衛術も魔法史も変身学も、残っているのだ。残っているのは、目の前のクランペットに蜂蜜が全部染み込んだのが目に見えて分かるように、理解しているのだけれど。
とん、と私の歪んだ文字の上をなぞる指先。向かいの席に座る、男の子にしては華奢な肩。それから、ゆらゆらと揺れるくすんだ赤毛を耳にかけて、グレーの瞳を細めて笑えば、まるで淹れたてのアールグレイがそこにあるかのように鼻をくすぐる。サミュエルはいつも、私の分からないものをアールグレイに包んで、指先でレポートの上に答えへの近道を示してくれた。
たったの三日だ、と自分に言い聞かせて、ミルクティーを飲み干す。甘い筈のそれが酷く喉を刺して、とても痛かった。
「ねえねえねえ!カザリ!見た!?さっきの!」
「わっ、!?」
思わず喉を撫でて、唾を飲み込んだ時だった。
どん、と背中に何かがぶつかって、私は空になったティーカップを両手で包むように持ったまま振り返る。真っ先に飛び込んできたのはジンジャーの赤毛で、それから次に飛び込んできたのは私と同じ首もとのカナリアイエローだった。
「じ、ジェイン……」
「ええ、私よ!ねえねえ!見た!?さっきの見た!?」
「さ、さっき、さっき……。何かあったの?」
「あーんもう!見てなかったのね!あなたって噂通りの女の子だわ!」
私はどんな風に、噂されているのだろうか。
ジンジャーの赤毛でできたたっぷりとした三つ編みを二つ揺らして、私と同じ部屋で眠る彼女、ジェインの前髪を見つめる。私とは違いはねていないそれを眺めていると彼女は残念そうな声を上げながら私の両手からティーカップを奪い、それをテーブルに置いた。
跳ねるような動きで、ジェインは私の隣に腰を下ろす。いつも彼女を挟むように歩いている森梟のような二人が見当たらないのは、何故だろうか。首を傾げて彼女の前髪を真っ直ぐ見つめていれば、彼女は不思議そうに前髪を撫でた。
「なあに、私の前髪変かしら?これでも朝しっかり直してきたのよ。だって、そうでもしなきゃあの子達がうるさいんだもの」
「……そ、そう」
「とっても真面目でね、うるさいのよ。まるでよくできた姉だわね。だから今頃図書室でレポートをやってる筈よ。私、あんまりうるさいから逃げてきちゃった」
彼女はきっと、頭の中や胸の中から感情や言葉がそのまま形になって、ぽろぽろと口から溢さないといっぱいになってしまうのだろう。私がぼんやりと聞いている間に彼女の口からはいくつもいくつも言葉が溢れて、私はそれを受け止めきれずにいた。
森梟のような二人は、何と言ったのだろう。確か、とてもうるさくて、姉のようで、それから。
「それよりね、さっき凄かったのよ。私、見ちゃったの。梟が三羽飛んできてね、それがとても大きな荷物を運んでたものだから、ついつい目で追っちゃって」
森梟の行方を瞼の裏で追いかけていれば、彼女はまたぽろぽろと言葉を溢していく。それを拾いながら森梟を追い掛けるのは、私には出来そうにもない。トムならきっと、必要なものだけを拾い上げて森梟を追いかけるのだろうけれど、瞼の裏の私は彼女の言葉を両手に抱えきれなくなっていた。
「そしたらそれが、グリフィンドールのテーブルに飛んでいって、酷い着地をするじゃない。私、とても驚いちゃって!一体何が届いたのか慌てて確かめに行ったのよ!」
ベッドに潜り込んで頭の中で箒に乗るような時間ではない時の彼女は、声をひそめることなく手を広げながら楽しげに話す。ぱっとグリフィンドールのテーブルへ向けられた手は一度天井を仰ぎ、ばたばたと揺れ、慌てたようにまたグリフィンドールのテーブルへと向けられた。
大きな背中を持った上級生達が、テーブルをぐるりと囲うように立っている。時折聞こえる話し声は、入学式の時に大広間に初めて踏みいった私達の声によく似ていた。
「すっごいの、箒よ箒!箒が届いたの!」
「ほ、箒……?」
「ええ、箒よ!クリーンスイープ三号限定版!柄の感触が違うんですって、さっき言ってたわ!」
「誰が、誰が言ってたの?」
「ええっと、確かね、知らないひとよ!」
だってグリフィンドールだし、上級生だったんだもの。
にい、と唇を横に引き伸ばして笑う彼女と私の間を、クリーンスイープ三号がぴゅんぴゅんと飛んでいく。父さんが私とトムにと買ってくれた、よく飛んでとても賢いその子は、もっと良い子になってグリフィンドールの上級生のもとに現れたらしい。
私にしか見えない箒を手ではらって、グリフィンドールのテーブルを振り返る。箒を手に立ち上がったのは、私の知らない上級生の男の子だった。
「……良いなあ、私も、私も飛びたい……」
大きな背中を持った上級生達を押し退けて、箒を持った彼が大広間を駆けていく。私が持っていた箒よりも濃い色を持ったその箒が、少しだけ羨ましかった。
「良いわよね、私もそう思うわ。今ね、あの箒とっても流行ってるんですって。ドイツのクィディッチチームでは殆どあの箒らしいわよ」
「そ、うなの?あなたって、ジェイン、あなた何でも知ってるのね」
「ふふふふっ!ええ、私ね、流行りものが大好きなの!週に一度は日刊預言者新聞を図書室でまとめて読むし、上級生が流行りものの話をしてたら迷わずその輪に突っ込んじゃうわ」
花びらが散るレースのネグリジェを着ていた彼女の姿を思い出しながら、目の前で口許に手を当ててきょろりと視線を動かした彼女を頭の中で重ねてみる。トムが甘過ぎるからと不機嫌そうな顔をしたあのネグリジェは、きっと若い魔女の間では流行っていたものなのだろう。丸い瞳が噂話の尻尾を探してくるくると動くのを見ながら、ほんの少しだけ頬が緩むのを感じた。
「そうそう、噂にも、魔法にも流行りがあるのよ!最近よく聞く噂はね、医務室から一番近い男子トイレに出るゴーストで、流行りの魔法はね、好きな人の魔法道具に呪いをかけるんですって!フランスの魔女はみんなやってるって、新聞にも書いてあったの!」
天井、蝋燭、それからゆっくりと席を立ったビンズ先生の肩をくるくると巡っていたジェインの瞳が、私の瞳を前にぴたりと止まる。瞬きをする度に彼女の口から溢れようとしている言葉達が弾けてしまいそうで、私は思わず彼女の瞬きを見守りながらこぼれ落ちてきた言葉を受け取った。
ダークグレーの星と、くすんだ赤毛から覗くグレーの瞳が行ったり来たりを繰り返し、私の前から消えていく。歯を覗かせて笑うジェインの口に吸い込まれていったそれは、私を振り返ってはくれなかった。その代わり、お腹の中にひんやりとした何かが顔を出す。
「……ねえ、ねえジェイン」
大広間の大きな扉を抜けて、ストロベリーブロンドが歩いてくる。隣を歩く赤毛に何か話しかけている彼の後ろには、すっぽりとローブのフードを被った藍色がいて、私はそっとお腹を撫でた。
お腹の中に顔を出したひんやりとした何かは、白い息の霧だった。
「フランスの魔女の、その呪いのこと、教えて欲しいの」
此方に気付いたストロベリーブロンドが一瞬目を丸くして、それでも隣にいる赤毛の彼とともに手を振ってくる。大きく振りすぎた赤毛の彼の手に隠れた藍色は、手を振ることも、杖の先をローブの隙間から覗かせることもなく、私達から離れた席に座ったのだった。
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