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「分かってるわよね、成功したら来週のレポートは全部あなたがやるのよ」
「ヴァルブルガ、知らないみたいだから教えてあげるわね。そういうことは成功する可能性がほんの少しでもある時に言うものなのよ」
「……あらルクレティア、私のことを何だと思ってるのかしら?」
「……妖精の魔法もろくに使えないトロール女」
甲高い悲鳴が上がったのは、ヴァルブルガが勢いよく杖を振りかざした先にいたルクレティアからではなく、そのまた後ろにいたスリザリン生の群れからだった。
「ブラック家って怖いよな、本当。いつか身内になるかもって考えると、もっと怖い」
大広間から皿ごと持ち出してきたスコーンを食べながら、僕の隣に座る男子生徒が言う。怖い怖いと言いながら彼はざくざくとスコーンをかじり続けているのだから、本当は全く別のことを考えているのだろう。例えば午後の飛行訓練はまた雨が降りだしそうで駄目になりそうだとか、例えばヴァルブルガが僕達を引っ張るようにして城を出て来た目的だとか、例えばその目的であるピーブズをからかうにはどうするかだとか、そんなことだ。
悲鳴を上げながら此方へと逃げてきた女子達を一瞥して、落ち着いた様子で杖を構えるルクレティアを見る。よく似た顔がふたつ、おんなじ真っ黒な頭の中で意地の悪い悪戯のような呪いを考えているその姿は、心底怖いと僕は思う。あの二人は、良くも悪くも思い切りが良いのだ。
「おい、ルクレティア、止めておけ」
「……私に言わないでくれないかしら。言うならどうぞ、トロール女に分かる言葉でね」
このままでは野外決闘クラブになりかねない。そんな物騒な昼下がりはごめんだと、ヴァルブルガよりはずっと分別のあるルクレティアに声をかける。無駄なことを嫌う彼女なら、こんなくだらないことは直ぐにでも止めるはずなのだ。
しかし、ブラック家というものは僕が思っていたよりもずっと面倒な家系らしい。整った顔を冷ややかに歪めた彼女はヴァルブルガをからかうのが楽しいのか、それとも魔法を使えるこの機会が嬉しいのか、わざとらしく肩を竦めてとんでもなく棘だらけの言葉を放り投げた。
「……サーペンソーティア!」
「おい!ヴァルブルガ!」
「蛇なんか出してどうするっていうのよ、トロールちゃん!」
「うるさいわよ!黙って!オパグノ!」
甲高い悲鳴が、今度は僕の後ろから上がる。それから続いて男子達の面白がる声が上がって、彼女達はとうとう真剣ににらみ合いだしてしまった。
頭をかいて、辺りを見回す。教師や上級生さえ来なければ、疲れて飽きたどちらかが何事もなかったかのように謝って事は収まる筈だった。クリスマスプレゼントの数で喧嘩をした時も、誕生日に贈られたドレスを見せびらかせて喧嘩をした時も、彼女達はいつもそうして事を終わらせていたのだ。
木々の向こうに、湖のきらめきが見える。先程まで雨が降っていたのだ、誰も外で過ごしたいとは思わないだろう。湖の下に談話室があるせいで、例え防水魔法がかけられていても毎日雨のような薄暗さを味わっている僕達スリザリン生以外は。
「……少し歩いてくる」
「おいっ、こんな面白いこと見ないのかよ?」
「アブラクサス、どっちが勝つかスコーン賭けようぜ!」
「じゃあ、ピーブズが来て全員湖に追いやられるに賭けておく」
いっそそうなれば、いくらか楽しいんじゃないだろうか。
言うだけ言って、引き留めてくる声を振り払うようにローブの裾を引いて歩みを進める。一歩踏み出す度に落ちた小枝が折れて雨が弾けたが、気にはならなかった。何せここには、ほんの少しの汚れにすら眉間に皺を寄せる母親も、相応しい振る舞いをと咎める父親もいなければ、嬉々として汚れたローブを洗いたがる屋敷しもべ妖精だっていないのだから。
ぱきん、と小枝を踏みしめて、ぐるりと辺りを見回す。湖のきらめきが遠ざかって、雨に濡れた地面の匂いだけが漂っている。微かに女子達の甲高い声が聞こえたが、濡れた地面に吸い込まれるように消えていった。
「……何が楽しくて、あんなこと」
額を押さえながら、細く息を吐き出す。す、と視界を遮ったのは、下手な歌を口ずさみながらふわふわと歩くダークブラウンの後ろ姿だった。
髪をかき上げて、舌を打つ。喉の奥で、何かが蓋をしている。それを退かそうにもため息を吐くことすら難しく、仕方なく足を進めた。
頭の中で、細く、長く、糸を紡ぐように考えていた。気に食わないものは気に食わないし、腹が立つものは腹が立つ。トロールが妖精になれやしないのと同じで、どうしようもないものは、確かにあるのだ。
「……スクイブ、ヴィッセル、」
別に見たくもない変な顔を、何故だか視界の端に留めてしまうように。
銀のタイピンを指で撫で、此方をからかうように瞳を細めたアルヴィ・エインズワースが後ろに立っている。彼はそのままダンスに誘うようにゆっくりと腰を折り、僕の耳元に口を寄せ、ゴーストのような銀の息を吐き出した。冷えたそれが頭に入り込んでくるより先に、僕は後ろを振り返る。
木々の向こうに、小さくなった湖が見える。僕をからかい、それでいて遠ざけるような冷たさを抱えた瞳はそこにいなかった。
「……誰が、あんなやつ」
冷えた銀が、頭の中で囁き声に変わり、僕は頭を振った。熱心に見つめているくせに、と囁いたアルヴィ・エインズワースの声は、呪いのように気味が悪かった。
ただ、隙がないか見ているだけだ。レースの綻びを引いてみたくなるように、何を言えばどれだけ顔を歪めるのか、見てみたい。ただそれだけに過ぎない。
「わっ、」
頭の中で、ダークブラウンの髪を引っ張ってみようとした、その時だった。
そう遠くない場所から声がして、僕は慌てて顔をあげる。正面にある木の向こう側にいつの間にか誰かがいて、その誰か、長いダークブラウンの髪を持つその誰かは、今まさに足を滑らせたところだった。
彼女のハシバミ色の鞄から、ぼろぼろと崩れるように中身が落ちていく。体勢を立て直せずふらふらと倒れ込みそうになった彼女の横顔が、視界にはいる。
「わ、わっ、」
そのまま顔から地面に転がりそうになった彼女、スクイブ、ヴィッセルの向こう側に、アルヴィ・エインズワースが見えた気がした。
「っ、…………あ、あれ?」
目の前で、音もなく彼が消えていく。もしかすると彼は僕に妙な呪いでもかけたのだろうか。そうでなければ僕が馬鹿げた幻覚を見るなんてあり得もしないことだし、そもそも彼が僕に話し掛けてくること自体がおかしいのだ。彼はいつだって、その時気に入っている魔女のことしか頭に無いような魔法使いなのだから。
そこまで考えた僕は、これからを考える。果たして呪われた僕はどうすればこの呪いをとけるのか。それからこの右手をどうすればいいのか、考える。
「……何やってるんだ、スクイブ」
何処からか、甘いチョコレートの匂いがする。このダークブラウンはチョコレートで出来ているのだろうかと、一瞬だけトロールよりも馬鹿なことを考えた。
僕に支えられるとは思いもしなかった彼女、ヴィッセルが、変な顔をして振り返る。丸いダークブラウンのチョコレートを抱えた瞳に映る僕を見て、何故だか喉の奥にあった蓋が外れてしまった。
「ま、マルフォイっ……」
今の僕は、きっと笑っているだろう。
不安げに僕を見上げては震える睫毛の先を見付けた僕は、レースの綻びを引いてみるよりも気分が良かった。
「は、はな、離して、」
「……その前に言うべきことはないか?ミス・スクイブ」
お腹に回った腕が、スカートの裾に落ちた蜂蜜のように離れない。間近で見る彼のアイスブルーの瞳は冬を抱え込んでいるのに、クリスマスなんてあたたかいものは全て捨ててしまったようだった。
プラチナブロンドの長い髪が、さらさらと流れる。足元に落ちた苦い苦いダークチョコレートは、後ろを向いて黙りこんでいた。
「何だ、この本は」
「あ、」
私がそれを見ていたからか、本に気付いたマルフォイが私から手を離し、ダークチョコレートのそれを拾い上げた。表紙についた雨粒や泥を煩わしそうに払い落とした彼はそのまま表紙を開き、頁を捲る。何てことはない。ただそれだけのことだというのに、私はとんでもなく大きすぎる弱味を見付けられた気持ちになってしまった。何せ彼は、私の顔を見ればスクイブだと笑い、私が杖を握れば出来ないくせにと笑うような魔法使いなのだから。
ダークチョコレートをぱたりと閉じた白すぎる手が、背表紙を撫でる。それからその手は直ぐに弧を描くように本を放り出し、私は慌てて本を受け止めた。
「お前、こんなもの読んでどうする。ろくに魔法も使えないお前が、フランス魔女の古い魔法なら出来ると思ったのか?」
「……ち、違うもの、私は、私はただ、」
「図書室で勉強したって、何を借りたって無駄なんだと何故分からないんだ?ああ、そうか、スクイブだから分からないのか」
私が顔を歪めれば、彼が喜ぶことは知っている。汽車で初めて出会った時から、彼はそういう魔法使いだった。
言い返さなくては。あなたはとても意地の悪い魔法使いだと、言い返さなくては。そう思い本をきつく抱き締めるが、そんなことを言ったところで何になるのだろう。それがどうしたと彼は鼻で笑うに決まっているし、スクイブという言葉が私にとって大きな瘤のあるドラゴンの革を丸めたとても飲み込みは出来ないもののように、意地の悪い、だなんて言葉は、彼にとっては簡単に飲み込んでしまえる砂糖の粒のようなものだ。
泥を払いきれていなかった背表紙が、手のひらでざらりとする。胸の内側を逆撫でしてしまったように、嫌な汗が止まらない。
「魔法もろくに使えないくせに、いつまで此処にいるつもりなんだ、お前は」
「…………つ、使える、私、魔法が、使えるもの」
「へえ、それは知らなかった。それなら是非その使える魔法とやら、僕に見せてくれよ」
マルフォイの口から、黒くて重い何かが出ている。それは私の爪先をすっかり捕まえて、重かった爪先をますます重くした。
マルフォイの顔を、恐る恐る見上げてみる。そこにあったはずのアイスブルーの瞳が、今は見えない。目の前にあったのは、トムがやっつけてくれたはずの、いつか私が黒く塗りつぶしたマグルの男の子の姿だ。
真っ黒く塗り潰された向こう側で、マルフォイは笑っている。ローブのポケットの中でラズベリー色に押し潰された杖が、ちらちらと私を見上げている。それでも私は杖を手に取ることが出来ずに、黙って本を抱き締めた。
「なんだ、見せてくれないのか?まあ、出来るなんて嘘だろう?」
「そんなこと、」
「出来るなら見せてくれ。それだけだ」
「……わ、私は、」
金に変わらず黙りこんで私を見上げる銀の針。ボタンに変わらずころころと転がるだけのクルミ。それから、ユニコーンの子供の鬣のような真っ白になるはずだった、ミルク色のリボン。
頭の中で浮かんではぱしゃりと音を立てて沈んでいくそれを、私は捕まえることが出来ない。底へ沈んだそれを掬い上げて、マルフォイに見せ付けることが出来ない。出来るはずが、ない。
唇が、小さく震える。真っ黒く塗り潰されたマルフォイの顔が、笑っている。それが怖くて思わず後ずさるが、爪先が重くて上手くいかない。
踵で、何かを踏みつけた。音もなくぬかるんだ地面に沈んでしまったのは、ハシバミ色の羽根ペンだった。
「ホグワーツを辞めて、お家に帰ったらどうだ?ミス・スクイブ」
「か、帰らないっ、私は、だって、」
「お前が此処にいたところで、周りが困るだろう?」
「……困る?」
視界の端で、くすくす妖精が集まっている。私にも聞こえないようにこっそりと耳打ちをしあうその姿を見て、耳を塞がなくてはと思ったが、彼女たちはいつの間にか私の耳元に飛んできてしまっていた。
小さな顔が、ゆっくりと私の耳に近付いてくる。トムに貰ったピアスに触れた彼女は、いつものくすくす笑いを溢した。
「お前みたいな出来損ないの世話をさせられて、迷惑がかかるのはいつだって周りの奴らだと言っているんだよ、ヴィッセル」
初めて乗った箒から落っこちた時だって、こんなに痛くはなかった。ヴァルブルガ・ブラックに穴に落とされた時だって、ここまで酷くはなかった。けれどマルフォイは、私を痛がらせる呪いを知っているらしい。箒から落とすこともなく、杖を握ることもなく、ただ真っ黒くて重い言葉を吐き出しただけなのに、私はそれを受けとめきれずに潰されてしまう。
ひりひりと喉が痛んで、ぐ、と息を飲み下す。それでもやはり受けとめることは出来なくて、私はマルフォイから逃げるように視線を落とす。
爪先が、ぬかるんだ地面に沈んでいた。
「迷惑だって思うのは、友人でも仲間でもない冷たい奴らだろ」
ぽろりと、瞳から爪先に滴が落ちたのは、チョコレートの匂いが鼻を撫でたその時だった。
は、と顔を上げると、がさがさと草木を掻き分けて、ローブのフードをすっぽりと被った誰かが現れる。道なんてないそこを、どうして通ろうと思ったのだろう。彼は深く被ったフードの下から藍色の瞳を覗かせて、その瞳にアイスブルーをうつしていた。
マルフォイの顔が、いつの間にかそこに戻っている。真っ黒く塗り潰されたマグルの男の子は、もうそこにいなかった。代わりにあったのは、酷くつまらなさそうな顔をしているくせに、とても整ったマルフォイの顔だった。
フードの下の藍色の上を、ダークグレーの星がひとつ、流れていく。私は黙って、ポケットの中で拗ねていた杖を握りしめた。
「……お前には関係ないだろう。何処か行け」
「…………………………」
「なんだ、お前、まさかこいつと仲が良いのか?だからそんなに怒って、」
彼は、ヒュー・ガーランドは、何も言わない。けれど、大きな藍色の瞳を細めて、アイスブルーの瞳を正面から飲み込んでしまおうとしていた。
マルフォイの薄い唇が、黒くて重い言葉を吐くのを止めた。一度閉じられたそこからこぼれ落ちたのは小さなため息で、誰にも拾われずに地面に吸い込まれていく。
「……いつか後悔するぞ、スクイブなんかと関わったことを」
ガーランドは、何も言い返さない。もしかしたら、彼もマルフォイと同じ事を考えているのかもしれない。私が受け止めることの出来ない、黒くて重いそれを、藍色のマントですっぽりと覆い隠しているのかもしれない。
「……っ、ふんっ、僕は何も、間違っていないからな」
けれど、私は怖くは無かった。何故だか濡れた彼のローブから覗く杖の先が、私だけに見えた杖の先が、そこにはあったのだ。
マルフォイから守ると言ってくれた彼が、そこにはいたのだ。
小さな舌打ちを溢して、マルフォイは私を睨み、プラチナブロンドを靡かせて踵を返した。ここが城の廊下なら、彼の足音が冷たく響いたことだろう。かつんかつんと響くそれに私は怯えながら、早く聞こえなくなってくれと願っただろう。
怯えることも、願うこともなく、私はダークチョコレートの本を抱き締める。濡れた地面を踏みしめる音が遠ざかっていったが、私は黙って彼を、ガーランドを見詰めていた。
「…………その本」
「え、」
「確か、七十頁」
杖の先を引っ込めた彼が、小さな声でそう呟く。余所見をすれば広い損ねてしまいそうな声を慌てて拾い上げるが、私にはそれに何を返せば良いのか分からない。拾い上げたはずなのに、それは何の形をしているのかも、どんな色をしているのかも分からなかった。
フードの下で、藍色の瞳がたぷりと揺れる。そこに、ダークグレーの星はいなかった。
「……約束は、守ったからな」
待って、と言う間もなく、彼はまた草木を掻き分けて来た道を戻っていった。その背中を追いかけようと足を踏み出して、私は思わず爪先を見下ろす。
息を飲み下し、そろりと本の表紙を撫でた。それからその場にしゃがみこんで、ぬかるんだ地面に沈んでいたハシバミ色の羽根ペンを拾い上げ、真上にかざしてみる。
「……きれい、とってもきれい」
きらきらと、泥に汚れたはずの羽根ペンが、煌めいている。軽くなった爪先を鳴らして立ち上がれば、くすくす妖精が慌てて何処か遠くへと飛んでいった。
苦い苦いダークチョコレートの表紙を捲り、泥のついてしまった頁を捲っていく。きっと、図書室へこれを戻せば、私は夕飯を食べる元気も無くなるくらい怒鳴られてしまうことだろう。以前に一度だけ、本の汚れを取らないまま戻したグリフィンドールの上級生が、その後大広間で臥せっていたことを私は知っていた。
「……サミュエルに、会わなくちゃ」
『記憶に関する魔法』の章を指先で撫でると、そこに描かれていたフランス魔女、ジルベルト・ベフロワが擽ったそうに笑い、私の指先から次の頁、七十頁へと逃げていった。そこに何が書かれているのか、私は知っている。
ふふ、と笑って、本を閉じる。放り出されていたインク瓶やラズベリー色を拾い集め、ハシバミの鞄に詰め込んだ。それから、まずはミネルバに会ってこの汚れをどうにかしてもらおうとスカートの裾を撫でた。泥で汚れた私を、マダムペペはきっと許さないだろう。
そろり。爪先を踏み出して、細く長い息を吐く。白い息の霧は、そこにいない。爪先も、沈まない。ただ、泥で汚れた爪先があるだけだった。
「うん、うん……、平気、大丈夫」
鞄を抱き締めて、私はひとり頷いた。くすくす妖精が何処かにいるなら、彼女達はきっと今ごろ唇を尖らせていることだろう。私の心は、陽にかざしたハシバミ色の羽根ペンのように煌めいていた。
大きく足を踏み出して、城へと戻る。遠くからピーブズの笑い声が近付いてきたので、私は慌ててその場を後にした。
- ナノ -
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