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図書室の前、耳が痛くなるくらいに静かな廊下に立っていたのは、鞄や靴を水溜まりに浸してみたのだとでも言い出しそうなカザリだった。
「なっ、なに、え、どうしたって言うの?何があったの?」
「あのね、あの、外を歩いてたら、さっきまで雨が降ってたみたいでね、ああ、でも私が歩いてたときは止んでいたのよ」
「ええ、ええ、分かったわ。滑って転んだのね、そうでしょう?そうなんでしょう?」
頼むからそうだと言ってほしい。誰かにやられたのだなんて言われてしまえば、私はカザリを一人にさせたことを酷く後悔してしまうし、きっとカザリはそんな私を見てもっと後悔してしまうのだ。
私のそんな想いを知っているのか、それとも初めから杞憂だったのか。カザリはふふふと笑って鞄を差し出し、髪を揺らす。カザリは心底、楽しそうだった。まるで、焼きたてのスコーンに甘くて酸っぱいマーマレードをたっぷり乗せたときのようだ。
「あのね、ミネルバ、お願いがあるの。私、清めの魔法を知らないから」
「……カザリ、怪我はない?」
「うん、平気。平気よ」
ただ、ほらね。
カザリの眉が悲しそうに下がったものだから、私は一瞬ぎくりとして、息を止める。しかし、それも杞憂だったらしい。カザリは唇をかみながら、ハシバミ色の大きな鞄から泥のついた本を取り出した。ダークブラウンのカザリの髪よりも濃い色をしたそれは焦げたパイ生地のような色をしているが、文字の装飾も大きさもとても品がある。
カザリの手からそれを受けとれば、カザリはちらりと図書室を見た。ブルネットの髪を持つレイブンクロー生がカザリに気付き、ひらりと手を振ったが、カザリは小さく笑うだけで何も言わない。今の彼が知り合いかどうかは分からないが、どうやらこれは図書室の本なのだろう。
「……あそこに座りましょう。此処じゃ人が見てくるわ」
「うん、うん、そうする」
こっくりと首を縦に揺らしたカザリの手を引いて、図書室の前から離れる。石壁から出っ張った柱に隠れるように、長椅子に座る。上級生の男子がよく此処に立って遠くを眺めているせいか、そこは少し汚れていたが、気にはならなかった。
スカートの皺を伸ばして座れば、先に座っていたカザリも慌てて皺を伸ばす。それがおかしくてつい笑いそうになってしまったが、皺を伸ばすなりハシバミから取り出したものに、笑いは引っ込んでしまった。
インク瓶、ラズベリー色のキャンディ、それから羽根ペンに、杖。泥で汚れたそれらが、私とカザリを隔てるように並んでいく。カザリはほんの少しだけ申し訳なさそうな顔をして、長椅子についた私の手を撫でた。
「……ミネルバ、あの、あのね、鞄から飛び出してしまったの。飛び出したのよ。それをね、拾って、全部鞄に入れたら……」
言葉を追いかけて、変身学の教科書、それから二巻き分の羊皮紙が私とカザリを遠ざける。頭を抱えたくなったのは、その羊皮紙が今日の授業で習ったことを書き込んでいたものだったからだ。
思わず、息を吐く。それから瞼を下ろして、落ち着け、と自分に言い聞かせる。確かこういう時魔法界では、馬ではなくヒッポグリフの綱を握るのだと図書室の本に書いてあった。私は今さっき、それを読んできたばかりだ。
「……ミネルバ、お願い、お願いよ」
まさか、こんなに早く読んだものを復習することになるなんて。
カザリが困った顔で、また私の手を撫でる。私よりも小さなその手を握り返すか悩んで、私はカザリを見つめた。
こんなに持ち物を汚したはずだというのに、カザリは何故だか、あまり落ち込んではいない。それどころか、先程私と別れた時よりも明るく見えるのは気のせいなのだろうか。
「……ミネルバ」
やはり、転んだだけではないのだ。きっと、転んだ先に、彼女は何かを見付けたのだ。
カザリの小さな手を、軽く握る。は、と一瞬目を見開いたカザリは直ぐに目を細めて笑い、私の手をきつく握りしめた。
「任せて。私、清めの呪文の発音には自信があるの」
「本当に?ふふ、ありがとう、ありがとうミネルバっ」
「ええ。良いわ、私の発音が披露できるなんて嬉しい限りよ」
私がわざとらしく仰々しく言えば、カザリは嬉しそうに口許に手を当てて笑う。そんな彼女を見て、私はそろりと胸の内側を撫でた。
カザリが、笑っている。とても嬉しそうに、笑っている。耳元のピアスを光らせて、とても無邪気に。
「……ありがとう、ミネルバ」
ぽつり。先程よりもずっと真面目で小さなカザリの声が、長椅子に落ちて、私に跳ね返ってくる。それに気付かなかったふりをして、私は杖を取り出した。
杖の先を見たカザリが、目を細めて笑う。ダークブラウンの瞳が、甘いチョコレートに見えた。
「……ねえ、そう言えばさっきの上級生って……」
「ああ、あの人はね、彼はね、アビゲイル先輩の、」
杖を振るいながら、私はカザリの声を聞いていた。カザリの足取りによく似たふわふわと弾むような、踊るようなその声は、とても心地が良かった。
「……あ、あの、」
今日は、ニガヨモギとトリカブトを混ぜて、そこにトロールの爪を砕いて入れて、どろりと煮詰まるまで火を通したような臭いが、医務室の壁に染み込んでいた。
一番手前のカーテンの向こう側から、喉にべったりと悪いものがへばりついたような咳が飛び出してくる。きっとこの臭いはこの咳を大人しくさせるためのものなのだろう。サイドテーブルに置かれた緑色の液体が、ガラスのゴブレットの中で弾けるたびに緑色の煙を吹き出している。あれを飲めばどれだけ早く良くなろうと、私にはそれを舐めることすら出来そうにない。きっと、この咳が大人しくなるのもずっと先になるだろう。
マダムペペの返事がないことを確かめて、私はそっと医務室に足を踏み入れる。夕食の時間に来たからだろうか。見舞いに来ている生徒は誰もいない。いるのは大きな咳の持ち主と、今日もベッドの上で眠っているスリザリン生と、それから一番奥の奥、ぴったりと閉じられたカーテンの向こう側にいるサミュエルだけだ。
「うう、レポートは嫌だ……」
マダムペペに医務室から追い払われていたはずのスリザリン生の彼の寝言を通り過ぎて、真っ白いカーテンの前に立つ。マダムペペが戻ったら、きっと蝋燭に火を灯してくれるだろう。火の無い蝋燭が飾られているだけの今は、とても静かで、薄暗かった。
「……サミュエル、ねえサミュエル、起きてる?」
他の人には聞こえないように、そっと息を吐く。暫くの間、スリザリン生の彼の寝言と大きな咳だけが響いて、目の前のカーテンの向こう側からは何も返ってこなかった。
それでも、私は黙ってカーテンの前に立つ。薄暗さに慣れてきた目にはカーテンの向こうで身体を起こしたグレーの影が、ちゃんと見えていた。
「サミュエル、もう熱は下がった?あのね、私、あなたととても、とっても話したいの。だから、カーテンを開けても良い?」
先程よりも少しだけ大きな声で、彼に話しかける。やはりサミュエルは何も返してくれなくて、私はつい視線を落としてしまった。
爪先が、薄暗い医務室の中で、光って見える。ミネルバがかけてくれた清めの魔法は、とても素敵なソプラノだった。
鞄を、そっと床に置く。中から真新しいラズベリー色、ダークチョコレートの本、それから羽根ペンを取り出して、カーテンを摘まむ。サミュエルが震えるような声を出したのは、その時だった。
「ぼ、くは、話したくないっ……」
カーテンを引こうとした手を止めて、私はまた視線を落とす。ソプラノが汚れを消し去る代わりに残したものは、目には見えない。けれど確かにそこに何かがあるような気がして、私はカーテンから手を離すことはなかった。
「私は話したい、サミュエルと、話したいの」
「嫌だ……僕は嫌だ、話したくなんて、ない」
「嫌よ、そんなの嫌、話したくないなんて、言わないでよ、ねえサミュエル、言わないで」
「でも、僕は、嫌なんだっ……」
カーテンの向こう側で、サミュエルは声を震わせた。
摘まんだこれは、ひいてはいけないものなのかもしれない。サミュエルが必死にぶら下がる、最後の一本の糸なのかもしれない。もしもそうなら、きっと彼はこれをひいた途端泣き出してしまうだろう。考えるだけで、喉がひりひりと痛んだ。白い息の霧が、そこにある気がした。
静かに、壊さないように、私は息を吐く。それから目を閉じて、カーテンをしっかりと掴む。目を開けるとグレーの影が震えたのが見えて、また喉が痛んだ。
「駄目だ、カザリ、お願いだから、」
来ないで。
小さな声で、サミュエルは言う。私の手は、カーテンをひき、そっとその中へ入っていた。
「……ごめん、ごめんなさい、サミュエル」
「なんで、入ってこないでよ、僕はっ、」
「ごめんなさい。許してね、どうか私を許して」
後ろ手でカーテンをひいて、二人でカーテンの中に閉じ籠もる。薄暗かった視界がさらに薄暗くなった気がして、私はサミュエルを視線で掴まえようとベッドに腰かけた。
サミュエルは、この数日で痩せてしまったらしい。細くて薄いサミュエルの背中が震えると、崩れてしまうんじゃないかと思ってしまう。魔法史の教科書よりもずっと薄く感じるそこに手を伸ばせば、サミュエルはそんな私から逃げるように腕で手を払い、顔を覆い隠してしまった。
「ごめんなさい、サミュエル……」
サミュエルの腕の隙間から、ぽたぽたと何かがこぼれ落ちていく。たまらなく胸が痛んで、やっぱり止めておけば良かったと思った。
けれど。手の中にあるラズベリー色を、本を、羽根ペンを撫でる。どうにか唾を飲み下して、痛みには気付かないふりをした。
「……ねえサミュエル、聞いて」
シルクのシャツが、薄暗い中で柔く光る。そこからカルチェラタンの香りがしないことが寂しかったが、優しく鼻を撫でるアールグレイの香りに頬がゆるんだ。
苦い苦いダークチョコレートを、ゆっくりと開いた。金のインクで書かれた数字を追いかけて、頁を捲っていく。ジルベルト・ベフロワが待つそこは、サミュエルのアールグレイの香りのように優しい。
「この魔法を、サミュエルはこの魔法を、知ってる?」
七十の数字が、金に輝いている。ジルベルト・ベフロワはインクで出来た長い髪を靡かせながら、呪文の隣に立っている。
「私、この本を読むまで知らなかったわ。世界には、色んな、色んな魔法があるのね」
「………………」
「ジェインがね、ハッフルパフの女の子が言ってたわ。フランスでは、好きな相手の気を惹く魔法があるんだって」
「そ、れはっ、」
サミュエルが、は、と顔をあげた。
長い長い睫毛の先で、涙が光っている。瞬きをする度にそれは弾け落ちて、音もなく頬を滑り落ちた。
「ジェインがね、教えてくれたの。図書室に、フランスの魔女が書いた魔法書があるって」
「……その、本、」
「とっても、とっても面白いのよ。私の知らないものが、沢山広がっているの」
サミュエルの頬を、また涙が滑り落ちていく。グレーの瞳が私を見つめることはなかったが、私は彼を見つめていた。
癖のあるくすんだ赤毛の下に、長い長い睫毛が取り囲むグレーの瞳。綺麗な鼻筋に、少しだけ色素の薄い唇。内側から滲むように頬がオペラ色をしているのは、きっとまだ熱があるからだろう。サミュエルの背中は少し痩せてしまったけれど、彼は変わってはいないのだ。
「失敗すると、きらきら煌めく魔法があるの」
ジェインに教わって、直ぐに借りてきた苦い苦いダークチョコレート。その中にはいくつも相手の気を惹く魔法があって、私は正しいものを見つけることが出来なかった。
けれど、杖の先が、確かに教えてくれた。藍色の瞳がそっと、教えてくれた。ハシバミ色の羽根ペンは、ずっとその答えを抱えて黙って私に見付かるのを待っていた。
「ねえサミュエル、サミュエル、知ってる?離れてしまっても、それを持つだけでその人のことを思い出せる魔法があるのよ。魔法をかけた、その人のことを。どれだけ離れても、失っても、思い出せるように、寂しくないように」
ラズベリー色も、本も羽根ペンもベッドに置いて、私はサミュエルの手をとった。少し汗ばんだその手はとても熱くて、細い。その手をそっと握りしめれば、サミュエルは声もなく唇を震わせた。
藍色に、ガーランドに言われて気付いたその魔法がかけられた羽根ペンは、とてもきれいに煌めいていた。
「とても、とても素敵な魔法ね、サミュエル」
ぽろり、ぽろり。サミュエルのグレーの瞳がゆらゆら揺れて、幾つも幾つも滴が溢れた。彼は、とても静かに泣く人だった。
サミュエルの手に、そっと力が込められる。私は黙ってその手を握り返して、彼のグレーを見つめていた。
「母さんが、教えてくれたんだ……。いつか、大切な人に使うようにって……」
「うん、うん」
「けど、僕は、君とどうしても、仲良くなりたくて、話がしたくって、それでっ……」
サミュエルの唇から、白い息の霧は出ない。静かなカーテンの内側に、サミュエルの優しい声だけが響いている。その声はゆっくりと響いて、溶けて、カーテンに吸い込まれていった。
「君に、思い出して欲しかっただけなんだっ……」
「うん」
「僕はただ、君と、友達になりたかっただけなんだよっ……」
サミュエルの声を吸い込んだカーテンを、一度振り返る。真っ白いそれに覆われた此処が、二人だけの空間に思えた。とても、静かな場所だった。
サミュエルの声は、魔法がかかっているのだろうか。真っ白いそこにぷかぷかと、ジルベルト・ベフロワの金のインクが浮かんで見える。それは崩れて星よりも小さな粒になり、サミュエルの周りに揺れるように浮かんでいた。
「……変なの、サミュエルってば、変よ」
サミュエルは、とても素敵な魔法使いだ。彼には例え見えていなくとも、金の煌めきを纏う、素敵な魔法使いだ。
「そんなことしなくても、私達、私達って、友達だもの」
そして、とても素敵な友人なのだ。
目を大きく見開いたサミュエルが、直ぐに顔をくしゃくしゃにして俯いてしまう。それでも声を上げずに静かに泣いたので、私も黙って彼の手を握りしめ、そろりと彼の肩に額をのせた。
震える彼の肩から、熱が伝わってくる。瞬きをすれば金の煌めきは消えてしまったけれど、サミュエルは消えはしない。それがとても嬉しくて、私はサミュエルの肩口に頬を擦り寄せた。アールグレイの香りの後ろには、小さくなったカルチェラタンが隠れていた。
「ごめん、ごめんね、カザリっ……」
「ううん、サミュエル、私、違う言葉が聞きたいわ。私、もっと素敵な言葉が聞きたいわ」
そろりと手を離して、彼の背中に手を回す。トムよりも大きいけれど、細くて薄いその背中は、手のひらよりもずっと熱を持っている。汗ばんだシルクの上に手を滑らせると、サミュエルの手が私の肩を抱き締めた。
「ありがとう、カザリっ……」
とっても、とっても、大好きだ。
小さな声が、私の耳を擽った。それがとても心地よくて、私は頬をゆるめて彼の背中を撫でる。そんな私が夢に手招きされるまで、そう時間はかからなかった。
目を閉じると、金の煌めきを纏ったサミュエルが、ハシバミ色の羽根ペンを手に照れたように立っている。私はそんな彼の手を引いて、湖へと駆けていく。振り返ったサミュエルは、蜂蜜をたっぷり溶かしたミルクのように、優しい顔をしていた。
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