風柱とストーカー撃退訓練


70_乱闘
..........

「只今戻りました!師範何やってんですか!!」

「あ"!?なまえテメェ訓練放って何しに…」

「いや貴方が暴れてるって岩柱様のところに半泣きの鴉が飛んできたんですよ!そりゃ来るでしょう!」


鴉の伝達から可及的速やかに屋敷へ戻った私が見た光景は、地獄絵図という言葉以外に適切な表現が浮かばなかった。
吐瀉物と血の撒き散らされた庭のあちらこちらに転がる、白目を剥いた隊士たち。
禍々しい空気を纏い拳を振るう私の師。
剣術だけでなくあらゆる体術に長けた彼がこの地獄の創造主であることは一目瞭然である。
彼の稽古が厳しいものであることはこの身で何度も何度も体験済みではあるが、これは稽古の域を超えた殺戮一歩手前の修羅場だ。
隊士たちも心配ではあるが、このまま被害が拡大すれば師範に対するお咎めも免れないだろう。
私が現状把握している間にも、師範は見覚えのある隊士の頬に拳を入れている。
この騒ぎの原因までは知らされていなかったのだが、まず彼と揉めたのであろうことまでは判った。
毛先が薄赤く透けるあの少年がいると禄なことが起きないと辟易する。
まずは二人を引き離すことが先決だ。
師範を取り押さえるために必死にしがみついている隊士たちもボロボロで、瀕死と言っても過言ではない。
彼らに加勢しようと私も師範の懐に飛び込んで縋り付く。
すると私の髪から滴る雫が彼の素肌に落ちた。


「冷っってぇ!バカお前そんな冷えてたら風邪引くだろうが!!着替えてこい!!」

「そうしたいのは山々ですから落ち着いてくださいお願いします……!」


荒れ狂う中でも私を気遣ってくれる師範の様子に一筋の光明が見えた。
「さっさと風呂沸かしてこいやァ!!」と叱ってくる様は、語気こそ強いものの、いつもの優しい彼そのものだ。
誤解されやすい人だが普段は理性的で情に満ちた人なのだ。
このまま対話していれば事態はすぐにでも収束する。
私はそう信じて疑わなかった。
空気を震わせ耳を劈く、巨大な奇声が響き渡るまでは。


「ハァアアアアア!?あの人が風のオッサンの継子!?あの異常者が綺麗なお姉さんと一つ屋根の下で生活してるとかこの世は不条理すぎだろ!!」


幾つかの聞き捨てならない言葉に、突如私の理性が怒りへと溶け流れる。

今のは、師範への侮辱の言葉?

師範は舌打ちひとつで今の言葉を流したようだったが、私はそうはいかない。
彼への侮蔑を口にする人間は何人たりとも許すことなどできない。
沸々と湧き上がるどす黒い感情が腹の中で蜷を巻いていく。


「オイコラお前今なんつったタンポポ頭」

「でぇっ!?」


師範から身体を離した私は大声を上げた少年へ距離を詰め、明るい菊色の髪を掴み上げる。
お前にあの人の何が分かるのか。
あの人の尊さを知らぬ人間が、容易に彼を侮辱することがどれほど罪深いことか。
私が、今此処で、わからせてやる。


「誰がオッサンだ?異常者だ?うちの師範が男前だからって僻んでんじゃないわよ!!あの人は、あの人はねぇ…!!」

「イヤアアァアアアアお姉さんも異常者じゃん!!何でこの人呼んだのォオオ!?誰か止めてぇええええ!!」


悲鳴を上げるタンポポ頭を地に引き倒し黙らせるために軽く顔を踏みつけると「アッでもちょっと良い…」と微かな声が足下から聞こえた。
某変態が脳裏を過ぎり、私の全身に悪寒が駆け巡る。
師範を止めるために呼ばれたことも最早すっかり忘れてしまった私は、この男を粛清すること以外考えられなくなっていた。
横たわる奴の身体を蹴り起こし、体勢を整えられる前に間髪入れず拳を打ち込む。
泣き喚くタンポポ頭に容赦なく連撃を入れる私に静止を呼び掛けてくる隊士がいるが無視だ。
残念ながら私も師範仕込みの体捌きがあり、一般隊士の一人や二人ならば余裕で往なせてしまう。
私の暴走っぷりを危惧したのか、師範たちを取り抑えようとしていた隊士の半数ほどがこちらに向かってきていた。
気絶したふりをして傍観していた数人も、柱ではなく私なら止められると思ったのか加勢に来ているようだ。

そしてこのような騒動の最中、事態を更なる悲劇へと堕とす事故が起きてしまう。
私を最初に止めようとした男性隊士の手が、飛び掛かってきた他の隊士たちの波に巻き込まれて体勢を崩した拍子に、私の胸を鷲掴んでしまったのだ。
このもみくちゃの状態で、殺意に溢れた柱が目の前にいる状態で、その弟子に対してこのような行為を意図的にやる訳がない。
急速に冷えていく頭を必死に回す。
手の持ち主に早く放せなるべく遠くへ逃げろと声を掛けるが、彼は冷や汗をかいて固まったまま動かない。
それが余計に状況を悪化させると判っている私は彼の身体を押し返すが、彼の背後からも隊士が飛び掛かってきていたため数人分の圧力がのしかかって来ている。
後ろの者たちも必死すぎてこの状態に気が付いていないようだ。
まずい。この状態は非常にまずい。
ウタでなんとかするか。
いやそれは師範の怒りを加速させる行為だ。
誰か手を貸してくれる者はいないか。
誰か状況を把握している者はいないか。
必死で周りを見渡すがそれらしき人間は見当たらない。

絶望に暮れ始めた視界の端で、先程まで丸腰で人を殺しかけていた人物が木刀をゆらりと構える姿を捉える。
あの呼吸は明らかに本気だ。


「師範やめて!!今あなた武器持っちゃダメです!本格的に死人が出ますやめて!!」

「安心しろ、お前巻き込むようなヘマはしねぇからよォォ…」

「いや私以外でも殺しちゃダメですって!お願いだから落ち着いてぇええ!」


こうして風柱邸での乱闘騒ぎは夕方近くまで続き、師範の訓練は中断を余儀なくされる。
騒ぎを収めるために呼ばれた私が乱闘に参戦したことで師弟揃って上からお叱りを受けてしまい、気まずい一時帰宅となったのだった。

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