fin.小春日和

 カイロを貰った日以来、お兄さんが店に来なくなってしまった。仕事が忙しいのかそれとも何かあったのか。毎週水曜日、私は来なくなったお兄さんのことを考えながら過ごすようになった。最後に会ったあの日が年末だったので、もう三カ月の時が経とうとしていたのだ。雪もすっかり溶けてしまい、いつ春が来ても良いように気温も少しづつ暖かくなっている。

 今日も来ないのだろうか、休憩の時間になり交代で休憩室へと入る。スマホを手にとり、試食のパンと紅茶を用意して紛らわすようにテレビを点けた。興味のない番組を順番に流していき、ニュースに切り替わった時、私はリモコンの操作を停止させる。
「お兄さん……だ」
 普段見ないニュース番組でライブ中継がされていた。荒い映像で映し出されているのは隣町で起こっているリアルタイムの事件。ヒーロー達と人質を救うために敵と戦っている姿が放映されていたのだ。その映像に私のよく知っている顔が映る。顔にも身体にも大きな傷をつくって、ボロボロになりながらも小さい子どもを抱えているお兄さんがいたのだ。いつも見せてくれるあの笑顔はなく、怪我を負いながらもヒーローとして平和を壊さんとするヴィラン達と対峙している。
「危険な公務員って、そのまますぎるよお兄さん」
 どうか人質が無事で助かりますように、そしてお兄さんが大きな怪我なく戻って来ますように。ヒーローじゃない私はお兄さんを助けに行くこともできない、ただただ無事であることを祈ることしかできなかった。

    ◇

 私がお兄さんの職業を知ってから数週間後、季節はもうすっかり春になっていた。お兄さんと話していた桜の塩パンも季節の商品として陳列し始めている。
 水曜日の昼下がり、もう何カ月もこのお店で会うことが叶わなくなっていたので、いつもお兄さんを待っていた時間は、ヒーローサイトで「スタンガンヒーロー《チャージズマ》」の名前を検索、情報を追うことに変わっていた。そこに行けば、私の見たことのない表情がたくさん見れる。しかもSNSでの活動も盛んだったようで検索をすればお兄さんを見ることは容易だった。でも、あの事件以来活動は停止しておりここ数週間の情報が得られない。
「もう、会えないのかなぁ」
 カウンターに肘をつき、小さな椅子に腰かける。日差しが暖かく、またお客さんが来る気配も無かった私は襲ってくる睡魔に身を委ねて瞼を閉じた。その時に見た夢は、お兄さんと再会するものだった。扉から入ってきて新作のパンを買いに来たと笑うお兄さんに、私が笑ってパンを差し出す夢。会いたくて会いたくてきっと仕方がないのだろう、それほど幸せな夢だったのだ。
 目が醒めた時に、私は大きなため息を吐く。このまま会えなくて悲しい想いをしてしまうのなら、水曜日のシフトもいっそ辞めてしまおうか? そう真剣に考えていたところにカランッ≠ニ入り口の鈴の音が鳴った。


 仕事中だったとハッとして、目元を拭って立ち上がる。いらっしゃいませといつもの調子で声をかけようとしたが、私は視界に入った人影に言葉を続けることができなくなってしまった。目の前にいるのは、私の知っている笑顔を見せるお兄さん。しかし、普段と違い両手に包帯を巻き、松葉杖を姿だった。
「いらっしゃいま……」
「新作と桜の塩パン、買いにきました」
「ヒーローだったんですね」
「あー、テレビ観ました?」
「あんなにいっぱい怪我して、守ってくれていたんですね」
「それが俺らの仕事なんでね……でもここに来るとホッとしました」
「ふふ、おかえりなさい」

 私は目にいっぱい涙を浮かべて笑う。もう会えないかとも思ってしまっていたお兄さんが目の前にいることが嬉しかったのだ。お兄さんはトレーを持ち、暫く来れていなかった後悔や入院中の愚痴を溢しながらいつものパンと、桜の塩パンを取り私へと渡す。「春になったら」と、私が話していたパンのことを覚えてくれていたようで、心が暖かくなった。久しぶりに会うお兄さんは、怪我をしていても以前と変わらず近況や個人情報を含めて私に話してくれる。こっそりと、私はこっそりといつもよりゆっくりとレジを打ち、パンを包んで紙袋に入れる。時間が許されるならもう少し、一緒に居たい。そう思っていてもレジなんて直ぐに終わってしまうので、パンの入った紙袋をお兄さんに渡した。
「桜の塩パン、美味しいんで早めに食べてくださいね」
「おう、じゃあまた買いに来ます、花咲さん」

 不意に呼ばれる自分の名前にびっくりしてしまう。何で名前を知ってるんですか、そう聞く前にお兄さんは私の胸元を指さした。その指を見て、視線を下にさげた時に胸元に名札をつけていたことを思い出す。じゃあお兄さんはもしかしてずっと私の名前を知っていたのか、もうすっかり常連になったお兄さんに今更自己紹介もできなかったので、私はお兄さんの名前も知る術がなかった。でもお兄さんは私の名前を知っているのだから、聞くきっかけになるのでは? 私は勢いよく顔を上げて「春っていいます、季節の春に春≠チて言います!」と叫んだ。
 お兄さんは目を丸くしてから、「春、名前……」と私の言葉を小さく繰り返す。幼い子どもが覚えた言葉を必死に繰り返しているような光景に何だかむず痒くなった。暫く繰り返したお兄さんは「よし、覚えた」と親指を立てる。
「上鳴 電気」
「上鳴さ……ん、あ、あの!」
「ん?」
「あの! また! 来週に新作が出るので!!」
「うん、また水曜日に。春ちゃん」
 ようやく知れた名前、そっか上鳴電気って言うんだお兄さんは。なんだか個性と名前の相性が良くてちょっと声が漏れてしまう。また水曜日、これからお兄さん毎週会うことができるんだ。お兄さんと約束をしたことは無かった、あくまでパン屋の店員と常連さんだった関係に進展があったように感じる。最後に呼ばれた名前と、いつもよりふんわりと、少し恥ずかしそうな顔で笑ってくれたお兄さんに私もつられて「また水曜日に」とほほ笑んだ。

 
back両手で掴んで
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