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・「愛してる」前

「まさか、本当に俺が人と住んでいるとは……すまない、お前への記憶がないんだ」
 ケイが普段通りでいても、漂う魔法の気配を察知したのか、キィニチの顔には警戒が滲む。ケイの記憶が欠落しているということは魔法に関しても同じくなわけで今のキィニチには未知な存在だ。炎を恐れる獣のように、距離を置いてじいとこちらの動きを見つめるキィニチに、ケイは小さく笑った。身を守るために一歩引かれることが正しい反応のはずなのに少し、本当に少しだけ傷ついてしまうなんてどれだけ入れ込んでいるのか、ほとほと呆れてしまう。
 しかし、いい機会だと思った。今までが近過ぎたのだ。北の魔法使いが人間の歩幅に合わせて生きるなんて聞いたことがない。
(少し前の見守る程度の関係で済まそう。ケイの、僕の愛とは初めからそのようにあったはずだ)その方が穏やかで自由でゆとりがある。人間はいつだって忙しくて目が回る。


「ちなみに聞くが、俺とお前はどういう関係だったんだ?」

「どういう……。ううん、どういう関係でもなかったよ。ただ一緒にいただけで」
 思い返して、今までの二人の積み重ねが軽く思えるように、わざとそう言った。いつかの取引で、なにかの代償で、さも事務的であったかのような香りさえ漂わせてケイは淡々と答えた。
 事実、以前パイモンから問われた「付き合う」や、婚姻養子兄弟など契った覚えもない訳で、それ以上の言葉は必要ないように思えた。記憶のない彼に言葉を尽くすのも憚られる。

「そう、か」
「うん、一緒に住んだのも極短い間だった。そろそろ出て行こうとしていた所だから、ちょうどいい。君のことを手放してあげる」
 嘘を吐いた。初めてキィニチに嘘を吐いた。今までたくさん吐いてきた癖に彼には本当のことしか言ってこなかった。関係を結べないので、せめて言葉だけでもまっすぐにすることで愛を伝えているつもりだった。上手く伝わらないことも多かったが、そんな苦労も思い返すと幸福の日々だった。
 生きた年月だけ口が上手くなるようで、さも本当のことかのように舌が動いた。誠実であろうとしていた心が痛んだ。
 キィニチはみるからに安堵の顔を浮かべたので、これでよかったのだと胸を撫で下ろす。
「すまないが、そうしてくれるとこちらも助かる、行くあてはあるのか?」
 他人と距離をとりながらも優しさが滲んだ、彼らしい言葉だ。

「問題ない。じゃあ」
 荷物なんてあって無いに等しい程だ。テーブルに置かれた一冊の本、ガラス皿、ソファにかけた大きな毛布。それらを手にとりケイは笑顔を崩さぬまま外に出た。乗った箒が軽くて、風が冷たい。共に生きた年数なんてたかがしれている癖に、さみしいと思ってしまうなんてままならない。本で育児は急に終わりを迎え、寂しさを抱えることになると読んだ。これがそうかは分からないが、それを聞ける相手はもういなかった。

 川との逢瀬も初めはよかった。水面に映る月、体温を奪う水、広がる心地よい音。過去に愛した場所と重ねている川なので、これはもう逢瀬といってもいいだろう。ケイはキィニチにそれをいうと話が拗れると思っていたので控えていたがこの場所もそこそこ好きだ。気に入っている以上の存在だ。
 この川一帯は昼間カピパラが占拠しているが、夜中は食事をするために水辺から出て草を求めて歩き回る。なので水に足を浸したり、座って眺めたりとしばらく楽しめるのだ。おそらくこれがスローライフというやつに違いない。
 昼間はキィニチを鑑賞したり、ドラゴンスパインへ足を運んだり、璃月の高い山に登ってみたりなど意外と充実していた。初めは。
 なぜか、ある夜にキィニチが川にくるまでは。

 空気を裂く鉤縄の音がして、姿を消した。慣れ親しんだ気配だ、すぐにわかった。アハウを連れていないキィニチは川を歩いて、視線を彷徨わせる。なにか探しているのかもしれないが、見当もつかない。

 キィニチはその後何度も現れた。必ずベリーや夕暮れの実といった手土産を持って草原の上に座り込み、川の流れを見つめている。誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。彼が、村の若い人間たちから好かれているのをケイは知っていたので、一番にそう思った。キィニチも無邪気に好意を向けてくる相手を無碍にせず、悪い気もしていなさそうだった。彼はせっかくの果物に手をつけず、座り込んだ膝に頭を埋めて、時が過ぎるのを待つ。しかし待ち人は来ず、キィニチは来た時そのままの手土産を包み直して家に帰ってしまう。それを何日も繰り返した。誰だよ待ち合わせすっぽかしてるやつ。家のカレンダーを最近は把握できていないがどうせ多忙のはずなのに、一体どうしてしまったのか。せめていつ戦いになってもいいようにアハウは連れ歩いた方が良いと思うのだが、なぜそれをしないのかが不思議でならない。

一段と冷える夜、バブルオレンジを包んで持ってきていた。あれはフォンテーヌの特産であるのでわざわざ買ったらしい。相変わらず水の流れる音だけが聞こえる。ケイは星を見上げて、川を見つめて、落ち着いた心持ちでいるよう努めるがキィニチが来るとどうしてもそちらに気が散ってしまう。心配なのだ。
くしゅん、くしゃみの音で草原に散ったカピパラたちの動きが一瞬だけ止まる。案の定身体が冷えてしまっているようだ。逡巡し迷いの末、仕方なしに姿を消したまま近づいて、魔法で取り出した毛布を肩にかける。びくり震えた身体を包み込んだ。

「……ケイ?」
 久しぶりに聞いた声は、どこか頼りなくて不安が混ざった色をしていた。キィニチの視線が姿を捉えようと動いている。その目も、弱った獣のようだ。
 すぐ立ち去ろうとしていたのに、そんな瞳でみつめられると身体が軋んで思考が鈍る。どうしたのと喉まで上がった言葉を飲み込んで唇を閉ざす。

「誰を待ってるか知らないけど、冷えるから帰りなさい」
 キィニチの指先が毛布を掴んで、拒否を示すように振られる頭。記憶を失ってもいうことを聞かない頑固であった。
「もう少しだけ……これ、オレンジ、食べて欲しい」
 喉に引っ付いた言葉を無理やり剥がしたような言い方だ。膝を立てて小さくまるまるキィニチ。かわいい。早く帰れ。
 キィニチの横で一緒に動かず食べられるのを待っているオレンジをみた。色形よく、ツヤツヤしていて美味しそうだ。次はフォンテーヌへ行くのも悪くないとケイは考えていた。

「……好きじゃない、君が食べるといい」
 魔法でオレンジの皮を剥がして瑞々しい果肉を取り出す。オレンジの中でもきっとランクの高いものだ、奮発したのだろう。食べて欲しいとキィニチがいったので、まだ見ぬ待ち人に構うことはないと判断し、遠慮なく切り分けてキィニチの口に詰め込んだ。今のように弱っている姿をあまりみたことがなく、ちゃんと食事ができているのかが気がかりだった。

 今日も待ち人は来ないのだろうか。こんな夜中に待ち合わせることないのにキィニチは多忙であるから、こんな時間になるのだろうか。場所だって家で会えばよいのにどうしてここになるのか。まともな人間のルーティンなどわからない。記憶を失っているキィニチの日常なんて、ケイにはわからないのだ。
「今は、隣にいるのか? 話してもいいだろうか」
 隣は隣だが、人が三人は入るくらいの距離がある。
 まだキィニチの家に住んでいない時にこんな会話があった気がする。ケイはその時も、人間との距離がわからず、会話そのものが必要かどうかを考えていた。
「夜に眠る時、目が冴えて眠れないんだ。家もどこか寂しくて気分が落ち込むような……。けど今こうして毛布を受け取って急に安心した心地になった。自分はこれを求めていたんじゃないかって、そう思う」

「? ……そんなに毛布好きだっけ……? 僕の家にあったやつだけど、それでよければあげるよ」
 ケイがそういうとキィニチは思わずという風に笑った。なぜ笑っているのかわからず首を傾げる。
「違う、あぁ、違わないが」
キィニチはそこで言葉を一度区切った。彼は今の一瞬でだいぶ心を落ち着けたらしく、先ほどまでの弱々しい雰囲気が消えている。

「これはケイの香りがするし、今も少しだけ気配を残してくれいるのが、それが、嬉しいんだ、ここ最近の悩みが消えていくようで。……頼みがある、申し訳ないんだが一度帰って来てくれないだろうか」
 喧嘩で出て行ったわけではないんだろ、とキィニチは続けて、空いた隙間を埋めるために膝をつきながら近寄ってくる。声の場所を探るように、香りを辿るように。

「え、あ、うぅん……えぇっと……実はフォンテーヌへ行こうと思っているから、それは難しいよ」
 人間の群れの中で生きるのが人間にとっての幸せだと思い、せっかく帰してあげたのに。ケイ自身も寂しさは感じているものの、悠々自適の生活は性に合っていて自然の中で生きていくのはやはり心地よく思っていた所なのに。そう思っているはずなのに。そう思っていながらも、ケイは丸め込まれる自信があった。好きだから。キィニチと話す時はこうなる前に立ち去るのが正解だったのに間違えた。キィニチは今、ケイが強く出れない目をしている。見捨てると傷つけてしまうようないたいけさを押し出して、乞うように見上げてくる。
叶えられる範囲で我儘を叶えてやりたい。記憶を失う前のキィニチへはそう思っていたが果たして今もそれは有効なのだろうか。
「ナタには帰ってくるのか? いつ帰ってくる?」
「決めてない、全て、先のことはなにも」
 フォンテーヌへいつ行くかもわからないのにいつ帰ってくるかなんてケイにもわからない。どういう返答が無難なのかさっぱりだった。
「考えたんだ俺自身。ケイはあの日に手放したと言っていたな。それは俺とケイとで手を繋いだ過去があったんじゃないのか」
 唇が横に結んだまま、声がでなくなる。言葉に意味をつけて、肯定も否定もどちらもしたくはなかった。
「何もいわなくていいから、顔を、みせてくれないか? さみしい」
 そういわれてしまえば、もう全てがダメになった。本当に、弱い。


 姿を見せれば家に来てと言われ、家に着いたら今日は泊まってと言われる。こうなると読めていた。記憶を失っても寂しがりなところは同じらしい。
 前まで物置を借りて寝ていたといえば「嘘」「嘘じゃない」「嘘だ、客人をあんな部屋に寝かせるわけがない」「嘘じゃない」の繰り返し。
 客人を埃の舞う物置に寝かせるわけがないというのがキィニチの言い分だが「こちらは魔法使いなので埃などあってないもの。気にしたことなかった」と答えるがこれも真っ赤な嘘で、埃なんて大嫌いだ。今だって物置で眠るフリだけして隙をみて出て行こうとしている。早く寝てくれ。
「リビングのソファはアハウがうるさくて眠れないし、君と僕があの小さなベッドに一緒に眠るのは無理だ。それに僕たちはそんなに親しい関係でもない。だから、あの部屋で寝ていた」
 こんこんと説明するとキィニチは瞼を伏せて腕を組み考え込む仕草を取る。なにかを吟味する真剣さだが何が彼をそうさせているのかわからない。そうして、思考を巡らせた末に「なんとか二人入りそうだ、以前はどうだったか知らないが今日は一緒に寝てみよう」と己の寝室を指差すのだ。誰だこの人間にここまでの無作法を教え込んだやつは。北の魔法使いへの扱いがなっていない。ケイは思わず顔を覆い、考えるのをやめた。



「ケイ」
 あからさまな気配で名前を呼ばれれば浅いところを揺蕩った意識なんてすぐに掬われてしまう。頭まで被った毛布をはらいのけられれば、瞼越しに朝の光が入り込む。寄った眉を笑われて、近づく気配に抗わずにいれば顔中に沢山のキスが降る。眉間、瞼、頬に鼻先。渋々目を開けると、口元をふにゃふにゃにしたキィニチと目があう。なにがそんなに嬉しいのか、ケイには不思議でならなかった。
「おはよう、ケイ」
 身体の上に乗られて力の限り抱きしめられる。朝から楽しいことでもあったのだろうか、腕を伸ばして背中をさすると力はもっと強くなる。
「おはよう……」
 丸い発音のゆとりと連動するようにゆっくりと瞬きをした。もぞもぞ身体を動かしてキィニチを剥がそうとするがうまくいかない。出会った頃はあんなに小さくて軽かったのに。
 うつ伏せに転がるとずっしり上から被さって抱きしめられる。首にかかった髪を除けられうなじに顔を埋めたキィニチがなぜ遠慮がちにか柔く歯を立ててくる。腹でも空いているのか。
「なに、勘弁して……」
 急所を噛まれているが全く恐ろしいとも思わないし殺そうとも思わない。不思議な心地である。
「ケイ」
「なん、もう、君」
「『僕たちはそんなに親しい関係でもない』?」
 うわ、とケイは布団に向き合いながらあからさまに顔を歪めた。きっとキィニチには記憶が戻っていると、状況が理解できたから。もう一度心地よい眠りの淵をと瞼を閉じるが、遥か遠くへ旅立ってしまっている。
 キィニチの声はくぐもっていながらも密着しているケイにはよく聞こえた。
「『実はフォンテーヌへ行こうと思っている』?」
 湿った声が、真実を問いただそうと吐き出される。
「出て行こうとしていた? どういう、関係でもなかった?」
 今吐き出されたそれらの言葉は全てケイが記憶を失ったキィニチへ言ったものだった。今朝方に記憶が戻って、不安でたまらなくなったのだろう。
 普段であれば、浅く意識を落として微睡んだケイを起こすなんてことはしない。シーツ越しに、手先だけと、とにかく少しの触れ合いをして、起こさぬように仕事へ向かう。そんな些細でちっぽけなことにすら幸福を抱くのがキィニチなのだ。
「どうであれ結局、君に押されてこうなってる。あそこでくしゃみするのはずるいよ」
「あの時の俺はすでに毎日川に通い詰める覚悟をしていた、遅かれ早かれ、だ」
「そもそも川で人と待ち合わせはするべきじゃない、君は弱いんだから、せめて昼にしな」
 ケイはいたって真剣に答えているつもりだが、キィニチは深くため息をついた。
「もうなんだっていい、もしかしたらケイが帰ってこない未来があったんじゃないかって、考えるとすごく怖くて、苦しくなった」
「えっ苦しいの? もう苦しさはなくなった?」
「……まだ苦しい、胸が痛い、起き上がれない」
「え、え」
 ケイは怖いよりも苦しいと言われる方が危機感を持つ。自然の生き方がここで出てくる。どちらが生死に直結していて命を脅かすか、その勘定をしてしまう。痛いといわれると結構、いやかなり焦るのだ。人間はすぐに死んでしまうから、せめて目の前の一人くらいはそれから遠ざけようと頑張りはするがいつも、どうも、うまくいかない。
「……一緒にいると傷が薄くなるような、浅くなるような気がするんだ。だからそばにいて欲しい」
「それだけ? そんなこと」
「そんなことある、あるんだ。奪って行かないでくれ」
 きみがそういうなら……と分かったようなそうでないような返答に、とりあえず満足してくれたのかキィニチに再びきつく抱きしめられる。
 横に向けた顔でカーテンが柔らかく動く様子を見て、この家に戻ってきたのかとどこか他人事のように、そう思った。