臆病者の恋



これの続き



気がつくと、とても温かく優しい空間にいた。ここしばらく気を張っていたせいか、心地よくて肩の力がそっと抜けていく。

"ねえ、クラピカ"

聞き覚えのある声がクラピカの名前を呼んだ。ぱっと振り返れば、そこには名前がいた。

「名前!…ここは?」

クラピカの問いには答えず、柔らかい表情を浮かべた名前に違和感を感じる。いつもと違う。何が。この謎の空間と目の前にいる彼女、しかいない。

「名前?」

2度目、名前を呼んでも変わらず彼女は返事すらしなかった。いつもなら優しく「なぁに?」と答えてくれるはずなのに。
名前に感じる違和感はどんどんと膨らむ。何かが違う。言うなればしっくりこない、そんな曖昧な感覚。

"クラピカ、大好きよ"

目の前にいる名前は愛の言葉を囁いた。それにクラピカは先程よりも大きな違和感を感じた。今まで彼女がそんな台詞を言ったことはほとんど無いからだ。

――そう、クラピカと名前は恋人同士ではなかった。

事実上では交際関係にはあったが、思えばキッカケのような告白も彼女からの愛の言葉もなかった。逆もまたそうだった。
いつの間にか、お互いに気持ちを感じ取ってそういう関係になった。おのずと身体の関係も。
だからクラピカは目の前にいるのは名前ではない。名前の姿をした何かだと結論づけた。

「答えろ。お前は一体何なんだ。」

クラピカが名前らしき何かへ問い詰めるも、案の定返事は返ってこなかった。これでは埒が明かない。
クラピカが大きなため息を吐く。すると目の前にいる彼女の表情が変わる。悲しそうに眉を下げ多量の水分を含んだ瞳で今にも泣きそうな、そんな顔をしていた。

「…ッ!」

本物の名前でないにしろ、愛した女性の悲しそうな表情はクラピカを動揺させるには十分だった。水分を含んだ瞳から涙がこぼれ落ちるとボロボロと泣き始めた彼女。泣いている名前なんて一度だって見たことがなかったクラピカはどうしていいか分からない。

「どうして泣くんだ…」

何となく、そう何となくだ。彼女が泣いている理由は自分にある気がした。依然としてクラピカの言葉が聞こえていない彼女はゆっくりとこちらへ近づいてきた。
ちょうど目の前に来た時、彼女はクラピカの頬に手を添える。するっと優しく撫でる手つきは本物の名前のようでクラピカの警戒心が溶けていく。
クラピカより少し背の低い彼女がぐっと背伸びをした。ふんわり柔らかい唇がクラピカの唇に触れる。ちゅっと可愛らしいリップ音と共に離れていく唇がもどかしくて名前を引き寄せようと手を伸ばした。
しかし、その手は名前に触れる事なくすり抜けた。

"じゃあね、クラピカ。ずっと…大好きよ"

名前の身体から蛍のような光が出て、だんだん彼女の姿は霞んでゆく。最後に愛の言葉をクラピカに告げた彼女は、踵を返すと空間のどこかへ消えていった。

「名前!待て!これはッ!」

クラピカが名前を追いかけようと手を伸ばした瞬間、
――現実に戻された。


ハッと周りを見ると自分の執務室。奥の机の上には乱雑に置かれた書類たち。そう言えば30分ほど仮眠を取ろうと思ってソファに横になったんだ。時計を見れば2時間も寝過ごしていた。
大きなため息を吐いたクラピカは自分に毛布がかけられていることに気づいた。そして部屋にほんのり残る名前の香水の香り。何だか嫌な予感がした。
さっき見た不思議な夢のせい、と言われればそうかもしれない。だけどこの胸のざわつきは本物だと感じた。クラピカは急いで部屋から出て、名前の部屋へ向かった。
流石に深夜なので気を遣いつつ、早足で廊下を進んでいくと廊下の窓から外を見つめるセンリツがいた。

「センリツ!名前を見なかったか!?」
「クラピカ。そんな切羽詰まった顔をしてどうしたの。忙しいからって、ちゃんと休息も取ることは大事よ?」
「今は私の事なんてどうでもいい。質問に答えろ。名前を見なかったか?」

自分でも何故のここまで焦っているのか分からない。だけど、名前が、クラピカの前からどこかへ消えていくような気がしてならなかった。

「名前なら夜風に当たりたいからって1時間ほど前に出ていったわ。……ちょうど今頃、街外れの海岸の辺りにいるんじゃないかしら」
「何故止めなかった!」
「何故って。私には名前は止められないわ。彼女は貴方じゃなきゃ駄目なのよ」

そんな筈は、と言おうとして飲み込んだ。今ここでセンリツと言い争っても意味がない。まずは名前を見つける事が最優先だ。

「…朝までには戻る」
「ええ、行ってらっしゃい」

小さく手を振るセンリツに目もくれずクラピカは走り出した。
海岸沿いまで車で飛ばして10分。交通量がいくら少ないからとはいえ、法定速度ギリギリだ。
しかしこんな夜に誰も居ない海なんて、何故。そもそも彼女は本当に夜風に当たりたかっただけなのか。だったら屋敷の庭でも事足りるはずだ。
クラピカは海岸までの最短の道を進みながら、ぐるぐると思考を巡らせた。
――もしかして死ぬ気か?

「だったら尚の事引き止めるべきじゃないか、センリツ!」

焦る気持ちとは裏腹に速度はあげられず、ハンドルを握る手に力がこもる。ハンドルからミシッという音がした。
目的地付近まで着くと車を適当に乗り捨てた。そこからは手当り次第に探し回った。浜辺からテトラポットが並ぶ海沿いの防波堤まで。
そして一番端の防波堤の先に腰かけている見知った後ろ姿を見つけた。とりあえず最悪の事態は免れた、と胸をなでおろす。
聞きたい事はたくさんある。今にも漏れ出しそうなオーラを絶にして彼女に近づく。もしクラピカの存在に気づかれて海に飛び込まれでもしたら、たまったものではない。
名前は完全に気が抜けているのか、こちらに全く気がつく様子もなくすぐ後ろまで来れた。そうしてクラピカがなんて声をかけようか、なんて考えあぐねいていると

「これじゃあ、ただの家出みたいじゃない」

名前はそう言って身体を仰け反らせ空を見上げた。しかし彼女が見たのは夜明け前の星空ではなく、

「ああ、そうだな。束の間の家出は楽しかったか?」

焦燥と安堵が混じった表情を浮かべるクラピカだった。


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