少し悲しいお話




藤の花が見事に咲く季節のことだった。
鬼殺隊がよく世話になる藤の花の家紋の家。そこで働くナマエと炭治郎は、歳が近いこともあって大変仲が良かった。そんな二人はある夜、庭を散歩していた。
月明かりに照らされた藤の花を見ながら、他愛もない話をする。ふと、ナマエから悲しそうな匂いがした。


「ナマエさん、どうかしましたか? 」


気持ちを悟られたことに気づき、ナマエは眉を下げて微笑む。


「竈門様には敵いませんね」


そしてナマエは炭治郎の手を引き、藤棚の奥へと入っていった。藤の花に囲まれた二人。花は咲き誇り、この世界には自分たちしかいないような気さえした。


「私、お嫁に行きます」


おめでたいことである。だが、花の甘い香りには苦しげな匂いが混じっていた。炭治郎は色事に疎い男であったが、この時ばかりは目の前の娘の思いに気づき、祝言を口に出さなかった。なにより、出せない自分がいた。


「親同士の決めた婚礼で、準備の為に明日から実家に帰ります」
「そうですか」
「もう逢えないと思います」
「そう、ですね」


炭治郎の心もまた、ずきずきと痛んでいた。


「……一つだけお願いしてもいいですか? 」
「俺にできることなら」


しばらく二人黙った後、ナマエはそっと着物の合わせ目をずらし左肩を出した。


「歯型をつけてください」


どういうことなのか。炭治郎は困った顔をした。


「えっと、」
「どうか歯型が消えるまで、竈門様を思わせてください」


今まで異性に見られたことのないナマエの肩は、少し震えていた。恥ずかしさと切なさで今にも泣きそうだった。彼女の強い気持ちが、炭治郎をも覚悟させる。


「…痛かったら、言ってください」


炭治郎はナマエの右肩と左腕に手を添わせ、露わになった白い肌に噛みついた。少し強張るナマエの身体。


「…っ」


すぐに消えてほしくない。炭治郎は思わず噛む力を強めてしまう。その痛みさえナマエにとっては愛おしく、はらはらと涙が溢れた。そして炭治郎は歯を離すと、その赤い跡に口づけを落した。
炭治郎がナマエの着物の合わせを直してやる。ナマエは深々と頭を下げて、藤棚の外へと姿を消した。花の香りしかしなくなった後、炭治郎もまたそこから離れていった。




この跡が消えるまでは
(消えてしまえば、忘れましょう)
2019/11/29