「おかえりなさい行冥さん」


藤の花のお香が消えて、すっかり夜が明けた頃、ナマエの恋人である悲鳴嶼行冥が屋敷に帰ってきた。


「ただいまナマエ」


ナマエは玄関で行冥を出迎えると、彼に怪我がないかを確認する。どこも大事無いことがわかるとほっと胸を撫で下ろし、行冥の手を握った。


「今日もご無事で何よりです」
「ありがとうナマエ」


行冥は盲目であるが、代わりに目以外の感覚は研ぎ澄まされており、手を引いて歩く必要はない。しかし、二人はいつも並んで歩くとき手を重ねる。


「お風呂が用意できてますので、どうぞゆっくり入ってください。お上がりになるまでに朝餉を用意しますね」


今日は炊き込みご飯ですよ、と微笑むナマエ。行冥は感謝を告げ、自分の掌ほどの大きさの彼女の頭を撫でると、彼女の嬉しげな笑み声が耳に届いた。
少し熱めの湯に浸かると、任務の疲れがじんわりと身体から抜けていく。この温度が行冥は好きだった。そして浴剤の香りに心が落ちついた。
朝餉は旬の筍を使った炊き込みご飯、お吸い物、佃煮。優しい味付けの温かな食事に行冥が涙すると ナマエは、塩っぱくなっちゃいますよといつも決まって笑うのだ。


「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」


そして食事が終わり就寝の支度をすると、二人で並べた布団に身を委ねる。ナマエは夜、行冥が鬼狩りに行っている間一睡もせず、彼の身の安全を願う。行冥は「そんなことはしなくてもいい」と言ったのだが、彼女は頑として譲らないので諦め、こうして朝ともに眠るのだ。
暫くすると、ナマエの小さな寝息が聴こえてくる。裏山からは鳥のさえずりが。穏やかで、愛おしい時間。今まさに生きていると、行冥は思う。そしてこのひとときを守る為なら死をも覚悟するのだが、死ねば二人ではなくなるな、と枕を濡らした。




ここはどこよりも穏やかな世界
(どうか夢の中でも会えますよう)
2020/03/09