貴方がいればそれで





隠の宿舎にある稽古場。ナマエは時間があればそこに閉じこもった。たまに非番の炭治郎と善逸が稽古の相手になってくれていた。目が悪いナマエにとって、二人のように嗅覚や聴覚を使うことが必要なのだ。しかし後藤は一度たりとも姿を見せなかった。任務も別のことが多くなり、蝶屋敷に見舞いに来てくれたあの日から、ナマエと後藤は殆ど言葉を交わしていない。ナマエは後藤のことを考えないように、無我夢中で木刀を振り続けた。
しかし、ある時稽古場の引き戸がバンっと大きい音を立てて開く。はっと振り向くナマエ。逆光で見え辛かったが、なんとなくそれが誰だかわかった。


「…後藤さん」


遠慮なく大股で近づいてくるその人の正体は、ナマエの思った通りであった。近くに来てわかったが、後藤はナマエと同じように稽古着を着ていて、その手には竹刀が二本握られている。


「ややこしい事考えるのは俺には向いてねぇ。あれから頭の中お前のことばっかだった」


ナマエは久々に聞いた彼の粗暴な口ぶりに、ああ、何かが後藤の中で吹っ切れたのだと察した。


「てことで、俺と勝負しねぇか」
「勝負ですか? 」
「それで俺が勝ったら恋人になってくれ」


竹刀の片方を突き出す後藤。ぽかん、とナマエは口を開ける。後藤は至極真面目な様子で、どうやら本気らしい。


「…それは、私と恋仲になる気はないと言っていますか? 」
「失礼だなお前! 勝つ気満々だわ!! 」


じっと無言で後藤を見つめるナマエ。いたたまれなくなった後藤が「…なんだよ」と言うとナマエは笑みをこぼして、何でもないという風に首を振った。


「後藤さんは私がわざと負けるとは思わないんですか? 」
「はぁ? 」
「その方が私には好都合なんですが」
「いや、お前はわざと負けたりする玉じゃねぇだろ」


よくご存知で、と言いたげにナマエが眉を下げる。


「……私が勝ったら? 」
「何でも言うこと聞いてやるよ」


わかりました、とナマエ。そして「じゃあ、勝負しましょうか」と竹刀を受け取った。木刀を置き竹刀を構えた。


「おい、眼鏡かけねぇのか」
「はい。これで大丈夫です」


少し躊躇ったが、後藤は裸眼のナマエ相手に竹刀を構えた。


「では、いつでもどうぞ」


彼女の纏う空気が変わったのを後藤は肌で感じる。眼鏡をかけないことでハンデをくれたというわけではなさそうである。
ナマエは後藤を見据えて動かない。恐らく後藤から自分の方に近づかせて距離感を掴もうとしているのだろう。こちらから仕掛ければナマエの思う壺だが、仮に自分が動かなかったとしても、ナマエに勢いよく攻められれば勝ち目はないと後藤は理解した。


「…仕方ねぇ」


後藤は様子を伺いながら中段の構えでナマエにジワジワと詰め寄る。そして二本の竹刀が触れ合う手前で一気に攻め込んだ。
バシィィィン。ナマエが攻撃を受け止め、鍔迫り合いの状態になる。ナマエは息を深く吸い込むと、倍以上の力を竹刀に乗せ、後藤を後退させた。後藤も負けじと力を込める。ミシミシと音を立てる竹刀。


「やりますね後藤さん」
「一応怪我人運ぶために鍛えてるからなっ! 」


その瞬間、後藤が込めていた力を一気に抜く。すると均衡を崩したナマエが前に崩れ受け身を取った。身体を翻し、後藤はナマエの背中目掛け竹刀を振り下ろす。(取った…! )。後藤はそう思ったが、ナマエは竹刀を頭の後ろで横一文字に構え、その一太刀を受け止めた。
後藤は竹刀をぐっと押し込む。しかしナマエが勢いよく竹刀を跳ね上げた。必然的に竹刀を持つ手が上に上がり身体の正面がガラ空きになる後藤。そしてその彼の喉仏にナマエは下から竹刀の先を突きつけた。
まだ解けぬ張り詰めた空気。後藤の頬を伝った汗が床にポトリと落ちた。不敵なナマエの笑顔に後藤はゾクリとする。


「私の勝ちです」
「…もう一勝負、頼む」
「いいですけど、私負けませんよ」


二人は何度も戦った。ナマエが途中から何連勝目か数えなくなるほど。そして青空が橙色になり、橙色から濃藍色に染まる頃、体力の限界を迎えた後藤が床に倒れ込んだ。


「畜生…」


ナマエも少し乱れた呼吸を整えると、うつ伏せの後藤に近づき竹刀を置いて正座し、こう言った。


「では私の勝ちですので、恋人になってください」


互いに気持ちがあるのだから、この勝負は最初から成立などしていなかった。二人とも知っていたが、そんなことどうでもよかった。気まずさ、悲しみ、煩わしさ、負い目、不安、それら全てを振り払うようにぶつかり合ったのだ。
おもむろに後藤が顔を上げる。


「…俺、ミョウジのこと守ってやれねぇぞ」
「はなからそのつもりは微塵もありません」
「お、おう」


少し複雑な気持ちだ、と口を尖らせる後藤。そんな後藤に自分の思いをどう伝えればいいのだろうかとナマエは悩んだ。後藤の「鬼を斬るのは刀だけではない」という言葉がなければ、きっと自分は今頃死んでいたと思うのだ。そして刀だけが鬼を斬るのではないのと同じように、二人の在り方も一つではないと。


「後藤さんが危ない時は私が守ります」
「お前、ホント男前な」


ナマエが後藤に手を差し伸べ、彼の身体を起こす。そして掴んだ手をぐっと引き寄せると、あの日のように顔を近づけた。ミョウジの視界には、はっきりと茶色い瞳が映る。


「だから後藤さんは、私が霞んだ世界に不安になった時、こうやって近くで見つめてください」


ふと鼻の先が触れ合うと二人して頬を赤くして、今更ながらこの距離はまるで接吻をするような近さではないかと意識する。思い切ってナマエは目蓋を閉じた。そんな彼女に驚きつつも、後藤は両肩に手を置く。これから知る初めての感覚への期待と戸惑いに強張ったナマエの身体。心臓は壊れそうなほど強く脈を打っていた。


「!」


唇のすぐ横に柔らかいものが触れたと思うと、次の瞬間後藤に引き寄せられ、ナマエは彼の腕の中にすっぽりと収まった。


「口づけ、するかと思いました」
「…俺らにはまだ早ぇ」
「そういうものなんですか? 」


後藤は腕の中にいるナマエの頭を穏やかな手つきで撫でると、「俺たちなりの愛し方を見つけていけばいいだろ」と微笑んだ。暫くそうしていると、騒がしかったナマエの心臓はすっかり落ち着いていた。
ぼやけて不明瞭なナマエの世界。だが触れ合った部分から、そして頭を滑る大きな手から、自分も愛する人も確かに輪郭を持って存在するのだと感じる。


「…好きです。とても」
「俺も、ミョウジが好きだ」


そして形などない愛が二人を包むように、どこまでも自由に広がっていた。





星が見えなくても
2020/02/06 完