心配とお願いと迷惑と


「七海さんにお願いがあります」

夕食を終え、皿を洗っているなまえさんに電話が掛かってきたのは15分前のことだった。電話を終え戻ってきたなまえさんは、さっきまでご飯ををお代わりしていた人物とは別人に見えるほど顔色が悪く、ひどく憔悴しきっていたようだった。私が座るソファの近くのラグに正座をしたかと思ったら、冒頭のセリフを懇願する表情で告げられた。


「お願いの内容によりますが…」

人を殺してほしいなどといった無理難題でなければ、引き受けるつもりだった。そんな私になまえさんは、「実は…」と事の顛末を離し始める。

電話の相手は父親だった。
私と出会った時に別れたばかりの相手を連れて帰ると約束していたのだが、一向に帰るという連絡がこないことに痺れを切らした父親がこちらに来ると宣言した。それは止めたが、一度彼氏を連れて戻ってこいということになった。それなら一緒に暮らしていて、戸籍上も夫である私が行くのに問題はない。普段は信じられないくらい図々しいのに、こういう時にはしおらしくなるものなのだ、となまえさんの新しい一面を発見した気持ちになって嬉しくなった。


「……なまえさん」
「はい」
「この前言いましたよね」
「あ、やっぱりダメですよね。分かってます。形だけの夫婦なのにこんなの迷惑、」
「迷惑と私が言ったこと、ありますか?」
「……ないです」
「話は最後まで聞いてください」
「はい…」
「夫と言っていい、そう言いましたよね?」


私の告げた言葉に、なまえさんはきょとんとした表情をして、まばたきを2回した。記憶の糸を辿っているのだろう。しばらくして、「あぁ」の言葉と共にすっきりした表情になって私を見た。絶対忘れていたことが目に見えて分かったので、「もしかして忘れていましたか?」と皮肉たっぷりに告げる。慌てた様子で「わ、忘れてないです!大丈夫です!」と落ち着きなくなまえさんは答えた。本当に忘れていたんだな……。私は呆れてため息をつく。そして、咳払いをひとつして続けた。そもそもの話だが、戸籍上の関係だけとはいえ、私達は婚姻関係にあるのだ。その配偶者に頼んでくる内容にしてはおかしな話ではないだろうか?


「もしかして私が断ると思いましたか?」
「ううん、それはない。ただ、断られても当然だなとは思ってたから…」
「なるほど」
「迷惑かけてごめんなさい」
「だから、迷惑…」


先ほど迷惑ではないと遠回しに告げたというのに、なまえさんは未だに私に遠慮があるらしい。どうやったら、どうしたら、いいのだろう。何度目になるのか分からない思考に陥る。どう足掻いてもなまえさんの中の遠慮を取り除くことはできないだろう、現状では。それなら、一歩ずつ進むしか道はない。


「なまえさん」
「はい」
「夫のことを名字で呼ぶ妻はいませんよ」
「あ……!」
「そもそも私の下の名前ご存知ですか?」
「知ってますよ、け、け、建人さんですよね」
「正解です」

恥じらうように頬を染めて私の名前を呼ぶなまえさんをやはり可愛いと思った。この感情は妹や家族に感じるそれとは少し違う。彼女の笑顔を見ると安心するようになったのはいつからだっけ?思い出せないけれど、今はそれで十分だった。なまえ さんの隣に座っていると肩が触れる距離にいる彼女の腰をそっと抱いた。


「な、七海さん!?」
「建人、ですよ?」
「な、ナナミン!」
「そこは建人さんでしょう?」


自分の気持ちを確かめようとそういった雰囲気に持っていこうとしていたのに、結局はなまえさんのペースに引き戻されてしまう。私はなまえさんのそういうところが、多分、嫌いじゃない。むしろ、好き、なんだと思う。