102

目の前に猫がいる。
真っ黒で短いカギしっぽの猫。

少し離れた場所にしゃがんで、じりじりと距離を詰める。触りたい。なでなでしたい。猫は逃げないけど警戒しているようで、わたしをじっと見つめている。

「おいで」

わたしは手招きした。
すると、猫はゆっくりと近づいてきた。
やった! とわたしは心の中で叫ぶ。
猫はわたしから十メートルくらい離れたところで立ち止まり、またこっちを見つめてきた。わたしはもう一度手招きする。今度はさっきよりもう少し近くまで来てくれた。
それでもまだ三十センチほど離れている。でも大丈夫だ。あと三歩近寄ってくれれば……。
ところが、猫は突然くるりと背を向けると、脱兎のごとく走り去ってしまった。

「……悪い」
「恵、居たの?」
「ああ……」

いつの間にか背後にいた恵に声をかけられて、びっくりして振り返る。
「ごめんね、気づかなくて」と声を掛ければ、「声掛けなかった俺も悪い」と申し訳なさそうに答えた。
立ち上がり、スカートを叩いて埃を落とす。

「猫、好きなのか?」
「うん、猫ももちろん犬も好きだよ」
「ふーん……じゃあ俺は?」
「えっ?」
「冗談だ、本気にするな」

恵はぷいっと顔を逸らしてしまった。
どうしよう。何を言えばよかったんだろう。そう思っていると、徐に恵が指を組んだ。さっきのお詫びだ、とでも言わんばかりの表情の恵の前に玉犬が現れる。
舌を出して尻尾を振る白と黒の犬たちを見て、思わず頬が緩む。かわいい。すごく可愛い。

「さ、触っても大丈夫?」
「好きにしたらいい」
「恵の呪力は?」
「そんなん気にすんな」
「ありがとう!」

両手を伸ばして、二匹の頭を撫で回す。毛並みが気持ちよくって、ふわふわで。恵に大事にされてるんだろうなっていうのがすごい伝わって来た。

「なまえは本当に動物には好かれるな」
「そうなんだよねぇ〜。だからつい嬉しくなって撫で回しちゃうの」
「……俺も動物だったらなまえに甘えられたのかな」
「恵も甘えたいの……?」

恵が放った言葉は消え入りそうなくらい小さな言葉だったけれど、今度こそ冗談とは思えなくて思わず言葉を返してしまった。
しまった、という顔をした恵は、はぁ、と小さく息を吐き「変な意味で捉えるなよ」と前置きをして言葉を続ける。


「津美紀のこと知ってるよな?」
「まぁ、知らなくはないかな…」
「俺にとって津美紀は唯一の家族だったんだよ」
「……うん」
「だから、つーか、なんとなく……やっぱ無理だ、忘れろ」
「え、え、なんで」

片手で顔面を抑えながら恵は俯く。
頭の中に降って湧いてきた感情は、可愛いだった。恵の頭の上に自分の手のひらを乗せて「恵はがんばってるよ」と少しお姉さんぶった言葉を添えて感情を言葉に乗せた。

「ありがとな、なまえ」

少しだけ表情を和らげて恵がわたしを見上げた。
途端に恥ずかしさが込み上げてきて、わたしは恵の頭を乱雑にかき混ぜた。
「やめろ」と手首を掴まれ、視線と視線がかち合う。先に逸らしたのはどっちからだっただろう。不本意な空気が漂って「悠仁と野薔薇ちゃんのところ、戻ろうか」と口にしてしまった。
耐え切れず立ち上がったわたしの手首を掴んだままの恵は、「あとちょっとだけ二人がいい」と言って黙り込んでしまった。二人とも喋らないとこんなにも静かなのかと思うほど静寂に包まれている。でも不思議と居心地の悪さはなかった。むしろこの空間にずっと浸っていたいとさえ思えるほどに安心感があった。
ふと、恵の手の力が緩み、そのまま手を握られる。
指先を絡めるようにして繋いだ手からは体温が流れ込んできた。


「どうしたの?」
「なんか、こうしていたくなった」
「そっか」
「嫌なら離す」
「全然大丈夫だよ」
「じゃあこのまま」

何を話すわけでもない微妙な空気が二人を包む。お互い顔を合わせることもできず、ただひたすらに手を繋ぐことしかできない。
でもそれが何故かとても幸せなことに感じられた。
手を握る。
それだけで心が落ち着く。
何もない時間が幸せだと感じる。
恵も同じことを思ってくれたらいいな、なんて思ったりして。過ぎていく時をただじっと感じていた。
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