マリッジブルーシンドローム


 なまえとの結婚を決めた。
 反社のオレにとってはそれが正解であったかどうかの答えは未だに出ていない。きっと死ぬときにしか答えは出ないような気がする。けれど、プロポーズした時になまえが「これでずっと一緒に居られるね」と言ってくれたことだけは、絶対に忘れない。それさえあればこれからも生きていけると思った。たとえ地獄でも。
 
 ***
 
 なまえにプロポーズしてから半年。あっという間に時は過ぎ、結婚式まであと二週間と差し迫ったある日、事件は起こった。
 仕事終えて家に帰ったオレを待ち受けていた誰も居ない真っ暗な部屋だった。
「おかえり」と言ってくれる穏やかな顔のなまえも、いつでも食べられるように用意された食事も、温められた風呂も、なにも、なかった。家の中のどこにもなまえの姿がない。そんなことは初めてだった。慌ててなまえに連絡するが反応はない。電話してもメールしても、メッセージを送っても何の音沙汰もない。
 嫌な汗が流れ始めた。心臓が激しく鳴っているのに身体の温度はどんどん下がっていく。
 タイミングがいいのか悪いのか、スマホが振動して誰かからの着信を告げる。ディスプレイに表示された名前は『九井一』だ。迷わず通話ボタンを押し、耳に押し付けるとすぐに声が聞こえた。その冷静な口調からは焦りは一切感じられない。なまえに関しての電話ではなかったことにとりあえずホッとして、今はそれどころではないことを伝えようと口を開いた。
 
 
「九井、悪ぃんだけど今それどころじゃねェ」
「は?」
「……なまえが居なくなった」
「連れ去られたってことか?」
「わかんねー」
「とりあえずスーツケースあるか確認しろ」
「わかった」
 
 電話を繋いだままにして、クローゼットの中にあるスーツケースの存在を確認する。中身を確認しているとスーツケースどころか、なまえのお気に入りのスプリングコート、バッグなどのいくつかの衣類がなくなっていくことがわかった。オレの誕生日プレゼントでなまえが選んでくれた時計もなくなっていたから、恐らく持っていったんだろうと思う。
 つまりこれは、なまえがなまえの意志で居なくなったということを表している。
 
 
「おい、三途」
「……なんだよ」
「なまえちゃん出てった理由、心当たりねぇの?」
「ない」
「自信たっぷりかよ」
「あったとしてもオマエには言わねーよ」
「心当たりねーんだろ。オマエ鈍そうだもんなァ」
「うるせぇ」
 
 今目の前に九井がいたら全力で殴ってた。
 そう思えるほど腹立たしい言い方をしたアイツの声はどこか楽しんでいるようでもあったが。
 なまえが出ていくほどのことをオレがしてしまった可能性はある。それは否定出来ない。だが、いくら考えたところで何も浮かばなかった。
 最後に会ったときの様子や普段通りに接していた姿を思い出しながら頭をフル回転させていると、「なまえのこと考えてんの?」と言われてしまう。
 その一言にカチンと来て、考える間もなく言い返すことにした。コイツ相手にムキになるなんてらしくないことは百も承知だったが止められなかった。九井にオレとなまえのことが分かってたまるか。
 
 
「一旦こっち来いよ」
「は?」
「なまえちゃん探すにしたって人手いんだろ」
「まぁそうなるな」
「オマエらの結婚式の話してたからまだみんな残ってんだよ」
「わかった、向かう」
 
 不本意ながら九井の言うことは正論だった。
 なまえのことをよく知らないくせによく分かったような口を利けるヤツではあるが、間違ってはいない。
 電話を切ってすぐに家を飛び出した。さっきまで呑気に「今日の飯はなんだろう」なんて思いながら乗っていたエレベータはなかなか上階に到達せず、舌打ちが出るほどだった。
 
 ***
 
「おせーよ」
 
 事務所に着くと、ボスを始めとした幹部が全員揃っていた。
 もう仲良しごっこするような歳でもないのにと、少し意外に思う。ただニヤついてる蘭だけはぜってぇあとでボコる。
 
 
「まぁ座れ」
 そう言って、ソファを指差すボス。オレも黙ってそれに従う。
 
「なまえが居なくなった。なまえは三途の嫁だ、もう家族だ。全力で探す」
「つーことで、オマエが来るまでにマンションの防カメの映像手に入れといた」
 
 九井がノートパソコン操作すると、いつも資料が映し出される大画面にオレのマンションの防犯カメラの映像が映し出される。相変わらず仕事早ェな。しかし、マンションの防犯管理どうなってんだよ。画面には玄関から入ってすぐの廊下が映っている。エレベーターホールに向かう人が映っている。
 
「で、なまえちゃんは今日の午前中に映ってる」
 
 九井が映像を早送りする。すると、エレベーターからスーツケースを引きずったなまえが下りてくる。そのまま真っ直ぐにエントランスに向かい、外に出て行った。その映像を見て確信した。なまえは自分から出ていったのだ。
 そしてその理由が分からない。
 何故なのか、どうしてなのか、何ひとつ分からなかった。
 
「三途ここ見ろ」
 
 なまえがエレベーターホールからこちらに向かってくる場面を一時停止して、その画像を拡大する九井。映し出されたのはなまえの手の拡大図。
 
「婚約指輪してねぇ」
「正解」
 
 パチン、九井が指を鳴らした。
 確かにそこには、結婚の約束を交わしたあの日オレが贈ったはずのリングがない。心臓が嫌な音をたて始めた。
 オレの頭の中で警鐘が鳴る。この先の話は聞きたくない。けれど耳を塞ぐことが出来ない。身体が金縛りにあったように動かない。口の中がカラカラになって上手く声が出せない。
 
 
「なまえちゃんマリッジブルーなんじゃねぇ?」
 
 オレの代わりに言葉を発したのは竜胆だった。そういうものがあることはオレだって知っている。そんなことあるはずないと思いながらも、その可能性を完全に否定出来ずにいる自分が居た。いや違う、そんなわけない。なまえに限って絶対にあり得ない。なまえはそういう女じゃない。
 否定したい気持ちと、自分の中の不安がぶつかり合って頭が痛くなる。
 
「三途、大丈夫だ」
 
 ボスがオレの肩を叩いて立ち上がった。オレは顔を上げる。
 大丈夫? 一体何が大丈夫なんだ。なまえが出てったことがか。それともこの状況について言っているのか。
 
 
「まずは攫われたわけじゃなくてよかった」
「逃げられたってダサすぎんだろ」
「あ? んだと、蘭」
「ヤクキメ過ぎて嫌われたんだろ、どうせ」
「なまえと居る時はキメてねーし、結婚決めてからはやってねーよ」
「偉いじゃん」
「料理が不味いとか言ったかぁ?」
「ンなこと思ったことも言ったこともねぇよ、アホ竜胆」
「酔ってドブカス言った……とか」
「世界でいちばん可愛いと思ってんだよ……逆はあってもそれだけは絶対ありえねぇ」
「ベタ惚れ過ぎて若干引いた」
 
 各々、思ったことを好き勝手言ってくるから、それを全否定した。
 最後の蘭の言葉に自分が発した言葉を思い返してみると、かなりキモかった気がする。でも本当に思ってることだし、嘘偽りない本心だから別にいい。
 それに、もしなまえに嫌われているなら、もう会えないかもしれない。それは嫌だ。なまえにもう二度と触れられないなんてありえねェ。
 
 
「まぁなまえちゃんが居なくなった原因なんてなまえちゃん本人しか分かんねぇんだから、外野が憶測で物事語っても仕方ねぇだろ」
「なまえがどこに行ってるのか心当たりはないのか?」
「なまえの実家とか心当たりは連絡したけどどこにも居ねぇって」
「だーからとっととGPS埋め込めつったよな?」
「あ? なまえに傷つけるなんてありえねぇだろ」
「……どっちも過保護すぎ」
「うるっせぇ竜胆! オマエはどう思うんだよ」
「知らねーよ、オマエらの痴話喧嘩なんか」
「なまえが行きそうなところ……」
 
 ボスと九井が思案している。
 オレは、ただ黙ってそれを見ていた。マジでどこに行ったんだよ、なまえ……
 
 
 ***
 
 
 結局、下のヤツらに情報を集めさせるしか出来ないということになり解散となった。
 万が一の可能性を考えて、オレに恨みを持っているヤツの様子伺いに行こうと思ったが、九井の「なまえちゃんが帰って来た時にオマエが居なかったらダメだろ」という言葉で我に返り、一旦帰宅することを決めた。
 
 自宅への道すがらでもなまえの姿を探してしまう。
 あんな可愛くて美人で料理上手で一途なオンナ、他に居るわけがない。絶対にどこかに隠れていてオレが見つけ出すのを待っているはずだ。それだけは揺るぎない。
 
「おい、ちんたら歩いてんじゃねぇよ」
 
 突然後ろから肩を叩かれた。因縁吹っ掛けられたかと思って振り返ると、そこには九井が居た。
 
「うるせェよ」
「さっきは人が多かったから言えなかったんだけどよォ」
「あ?」
「結婚前ってブライダルチェックとかやんだろ?」
「知らねぇ」
「オマエ、そういうとこだと思うぞ」
「九井、はっきり言えよ」
「ブライダルチェックででけぇ病気見つかったとかねぇの?」
「…………は?」
「子供が出来ねぇ身体だったとか」
 
 その可能性を完全に排除していた。だってアイツはいつも嬉しそうにしてたから。別にオレはなまえが居ればそれでよかった。子供のことなんて考えたこともなかった。
 でも、もし九井の言う通りだとしたら、なまえは今頃一人で泣いているんじゃないか?
 想像すると胸が痛くなった。そんなこと絶対に有り得ないと思いながら、それでも不安は消えない。
 
 
「オイ、どうすんだ? 三途」
「探しに行く」
「はァ!?」
「なまえ探して連れ帰る」
「アホか! どこ探すんだよ」
「あ?」
「まずは家帰れ。で、診断結果が残ってるかもしんねーからそれ探せ」
「分かった」
「オマエ暴走しそうだから見といてくれってマイキーに頼まれてんだよ」
「ボスが?」
「ああ」
 
 その言葉を聞いて、少しだけ冷静になった。確かにこんな状態で闇雲に走り回っても見つかるわけがない。
 とりあえず言われた通りに家に帰り、なまえのものが置いてある場所を漁った。
 
「これじゃねぇの?」
 
 後ろを振り返れば九井が封筒を持って立っていた。産婦人科の名前が書かれた封筒の中から、折り畳まれた紙を取り出すと、そこに書いてあった文字に目を通す。
 
「問題なさそうだな?」
「……多分」
 
 ブライダルチェックの結果は問題なさそうで一先ずホッとした。
 が、それは同時にふりだしに戻ったことを意味していて、はぁぁぁと深く息を吐いた。
 
 
「まぁ、良かったじゃん」
「……なんでだよ」
「これでオマエの子供産めるってことだろ?」
「…………」
 
 子どものことは正直どうでもよかった。
 なまえが病気じゃなくてよかったって、ただその安堵だけだった。だけど、なまえに子供が出来たらきっと可愛いだろうなって思った。なまえに似た女の子なら絶対めちゃくちゃ可愛いと思う。
 
 
「なぁ、九井」
「ん?」
「なまえに似てたらめっちゃ可愛くなるよな?」
「まぁ、そうだな」
「なんでここになまえがいねぇんだよ……」
 
 力なくベッドに座り込み項垂れた。
 毎日なまえと一緒に眠っていたベッドがこんなにも広い。
 おかしいだろ。なんで居ねェんだよ。
 早くなまえに会いたい、抱きしめてキスしたい、それから……とどんどん欲が出てくる。
 
 
 もうここまで来たらオレがなんかやらかしたんだろうな。
 ずっと一緒に居て、こんなに好きで愛してるのに、何が悪かったのか全然分からない。
 
 九井が気を効かせてベッドルームを出ていく音がした。
 一人になって、またなまえのことを考える。
 オレが居なくなったらなまえは泣くだろうか。泣かないかもしれない。なまえは強い女だから。
 
 一人ぼっちの部屋の中に、携帯の機械音が響いた。
 なまえからの連絡かもしれないと思い、相手も確認せず電話に出た。
 
 
「迎えに来るのが遅い」
「あ? オマエ誰?」
「なまえちゃんが居なくなってジブンの声も分かんなくなったのか?」
「チッ……うるせぇな、千咒」
「なまえちゃんジブンのとこ来てる」
「あ?」
「オマエのとこには帰らないって言ってる」
「はァ!?」
 
 思わず大きな声が出た。なんだそれ、どういう意味か全く分からなかった。
 だって、あんなに幸せそうだったじゃないか。いつも嬉しそうにしてたじゃねぇか。なのにどうして。なんで今更そんなことを言ってんだよ。
 
 
「今から迎えに行く」
「来るなって」
「うるせぇ。オレが行くって行ったら行くんだよ」
 
 大きな声を出してしまったせいで、九井が驚いた様子でベッドルームのドアを開けた。千咒がなにかを言う前に通話を切って、上着を手に部屋を後にする。九井が運転してくれると言ってくれ、二人で車に乗り込みなまえの元へ向かった。
 車を走らせている間中、頭の中でぐるぐると考え事をしていた。考えれば考えるほど訳がわからなくなる。
 
「三途、分かってると思うが冷静にな?」
「あぁ?」
「全然分かってねェだろ」
「分かんねェよ。なまえが何考えてんのかもなんで千咒ンとこ居んのかも」
「……とにかく冷静になれってことだよ」
「なれるワケねぇだろ」
「だったら黙ってろ。まずはオレがなまえちゃんと話す」
 
 九井の言葉に渋々了承するしかなかった。
 断ればきっと車はUターンして、自宅方面へ戻っていただろう。
 我慢、我慢、我慢。車窓を通り過ぎていく景色を眺めながら呪文のように自分に何度も言い聞かせた。
 
 ***
 
 なまえが居るという場所に到着して車を降りる。
 玄関の前に立ちインターホンを押す指が震えていた。
 
 嫌いだと言われたら?
 もう別れると言われたら?
 
 そんな不安ばかりが頭を過り、心臓が痛いくらいに早鐘を打つ。
 暫くするとガチャリと扉が開かれてなまえが顔を出した。
 
 
「ココくんも一緒?」
「ああ」
「そっか。入って、二人とも」
 そう言われ、靴を脱いで部屋に上がるとリビングの方へ案内された。ソファに座っている千咒が責めるような目でこちらを見ていた。その視線から逃れるように目を逸らし、なまえの隣に座った。
 
 
「なまえちゃん」
「うん?」
「出て行った理由聞いてもいい?」
 
 車内で約束していた通り、九井が話を進める。
 オレは黙って婚約指輪の嵌っていないなまえの左手をずっと見ていた。
 
 
「ココくん、あのね、ハルちゃんね」
「うん」
「私に太った? って言ったの」
「うん……?」
「ウエディングドレス着るから頑張ってたのに……」
「あー……」
「それに私がダイエットしてるって知ってるのに毎日甘いモノ買って帰ってくるし」
「それは! なまえが喜ぶ顔見てェからだろ!!」
 
 我慢できず大きな声を出してしまったが、九井はオレを咎めなかった。
 それどころかオレの気持ちを代弁してくれたかのように口を開いた。
 
「なまえちゃんは家出てどうするつもりだった?」
「……それは」
「結婚やめんの?」
「オイ、九井」
「……やだ。結婚はやめない」
「どうしたかったの?」
「目標の体重になるまで帰らないつもりだった」
 
 なまえの答えを聞いて、オレは心底安心してしまった。
 そうか。痩せたかっただけなのか。良かった、本当によかった。ほっとして気が抜けたせいで口から盛大に安堵のため息が零れた。
 
 
「ならもういいだろ、帰んぞ」
「え?」
「オマエが居ないとオレが困んだよ」
「困る…? ハルちゃんが?」
「そうだよ。オマエがいないとオレは生きていけねェ」
 
 なまえの細い腰を抱き寄せ、唇にキスをする。
 朝以来のはずなのにもう一年以上も触れていないような感覚に陥った。甘さと柔らかに頭がクラクラする。
 ヤクよりキマってんじゃねぇの? コレ。
 そのままいつもみたいにおでことおでこをくっつけて「足んねェよ」と再び口づける。もっと欲しい、全部寄越せ、そう思い舌を差し込むと「オイ」と九井の邪魔が入る。
 
「オマエらさっきからなにしてんだよ!」
「ハァ!? なにってナニだよ!! 分かれよ!!」
「そういう事じゃねぇわ、バカか? アホか?」
「うるッセーな!! なまえ、こっち来いよ」
 
 腕を引いて自分の膝の上に座らせると、後ろからぎゅっと抱きしめる。首筋に顔を埋めて大きく深呼吸をした。
 あぁ、なまえだ。やっとオレの腕の中に返って来た。もう絶対離さない。
 
「で、なまえちゃん」
「はい……」
「盛り上がってるトコ悪いんだけど、三途の家戻るってことでOK?」
「そうなりますね。すみません」
「いいのいいの。おもしれー三途見れたし」
 
 なまえと九井の間で話がまとまり、結局オレはまたなまえと九井の車に乗せられて自宅まで送られた。玄関先で車を見送っているとなまえが後ろからオレを抱きしめる。
 
「ハルちゃん、何にも言わず居なくなっちゃってごめんなさい」
「いや、別に……」
「嘘だよ。本当はすごく探してくれたんでしょ?」
「……まぁ」
「ありがとう」
 
 そう言ってなまえが振り返り、オレの頬に優しく触れる。
 その手を取って指先に口付けるとなまえが嬉しそうに微笑んだ。
 
「なまえ、改めていうわ。オレと結婚してずっと側に居ろ」
「はい」
「そうと決まればヤることは一つだな」
「ちょっと……!」
「運動にもなるしお仕置きも出来るしちょうどいーよな?」
「良くないですけど! ちょ、待って……!」
 
 なまえを肩に担ぎ上げ、部屋を目指す。
 マリッジブルーなんて感じなくなるくらい愛してやるから覚悟しておけよ、なまえ。