ドーナツホールから見えるもの


水曜日、午前11時。
来客を告げるチャイムが部屋に鳴り響いた。きっと宅配便か勧誘だろうと無視を決め込んでもう一度布団を頭まですっぽりと被った。だがそれは再び鳴らされる。しつこいなぁ……と呟きつつ、ゆっくりと体を起こした。そのままベッドの淵から床へと足を下ろして立ち上がり、ふらつく足取りでモニターで相手を確認する。

「千冬……」
「遅い」
「入って」

生理前で身体が怠いから証拠のボイレコを取りに来てって一虎に伝えていたことをすっかりと忘れていた。ていうか、そもそも一虎が来るものだと思ってたし、千冬が来るなんて聞いてない。おのれ一虎め……。
オートロックを解除して、手櫛で髪を整える。着替える時間もないので、それが精いっぱいの身だしなみだった。ローテーブルの上のゴミをまとめてゴミ箱に放り投げたところでインターホンが鳴った。なるべく急いで玄関の鍵を開けたのに、「だから遅いですよ」と千冬は不満げに眉根を寄せている。

「身体ダルいの、起きただけでも良しとしてよ」
「てっきり起きたくなっただけかと思ってたけど?」
「ひどいなぁ」
「万が一を考えて買ってきた」

目の前にぶっきらぼうに差し出されるコンビニ袋。素直じゃないなぁ。
「ありがとう」と言って受け取ると、「どういたしまして」と社交辞令のような返事が返ってくる。
中身は私の好きなイチゴのヨーグルトと焼きプリンと500のスポーツドリンクが2本。そして冷えピタが1箱入っているだけだった。

「で、例のモノは?」
「上がんないで帰るの?」
「暇じゃないんで」
「セックスだけしに来るヤリチンみたいじゃん、ウケる」
「あぁ?」
「ヨーグルト食べ終わるくらいまで付き合ってくれてもいいんじゃない?」
「嫌だよ」
「ヤリチン……」
「はいはい、仕方ねぇな」

渋々といった様子で靴を脱ぎ、家に上がり込む千冬。
私も後ろからついていき、リビングを目指す。ローテーブルの上にコンビニ袋を置いて、寝室へとボイレコを取りに行く。その間もずっと背中に視線を感じる。

「ちゃんと生活出来てんだな」
「千冬、失礼だよ」
「どっちが」

寝室に置きっぱなしのカバンの中を漁る私に、入口のドアに凭れ掛かりながら話しかけてくる千冬。
この家に来るのは一虎くらい。千冬が来たのは今日で3回目。物件の内覧の時、引っ越し当日、そして今日だ。だから、モニターに千冬が映った時には本当にびっくりした。

「はい、コレ」
「確かに預かりました」
「けど今回も稀咲のことは知らないっぽかったよ」
「そうか」

差し出したボイレコを受け取りポケットの中に仕舞う千冬。
今回私が頼まれたのは、稀咲に繋がっていると言われる人物との接触だった。私の働くキャバに連れて来たのは千冬で、そこから先は私の仕事。1か月掛けたけど、『東京卍會』の名を語っただけの偽物だったようだ。

「ところで千冬はなんかたべた?」

リビングのソファに座ってイチゴのヨーグルトを手に話しかける。千冬は小さくふるふると首を振った。

「食欲ない?」
「まぁ」
「食べなきゃダメだよ」
「そんなこと言われなくても分かってる」

少し不機嫌な声色になった千冬に、「ほら、あーん」とまだ口をつけていないヨーグルトを乗せたスプーンを差し出す。なのに急にそっぽ向くから千冬の頬にヨーグルトがついてしまった。「もったいない」と言って顔を近づけてそれを舐めとる。

「なにしてんだよ」
「ヨーグルト舐めた?」
「やめろよ、そういうの」
「なんで?」
「なんででも……」
「私が場地圭介の妹だから?」
「違ぇよ」
「ふーん」
「もう帰るわ」

うんざりしたような口調で呟いて立ち上がった千冬。
その手を引っ張って無理矢理ソファに座らせ「まだ食べ終わってない」と告げると、はぁとため息を吐きながらも千冬は帰ることを諦めたようだった。
千冬と私の時間なんて生きている中でちょっとしかなくて。
必死にその時間を私が増やそうとして増えたところで、薄っぺらな時間を重ねてもきっと意味なんて無い。短かったとしても、お兄ちゃんと千冬の時間の濃い時間のほうが、きっと千冬は大切だと思っちゃうんだ。なんて虚しい努力。

「ごちそうさまでした」
「洗って分別しろよ?」
「はいはい」

「じゃあお大事に」と立ち上がって玄関へと向かう後ろ姿。
次に会えるのはいつになるんだろう。また私が具合悪いって言ったらイチゴのヨーグルト持って会いに来てくれるかな。

「アンタが心配で顔見に来ちゃうくらいには大事に思ってるんで、元気でいろよ」
「……千冬」

玄関で靴を履きながら、千冬がこちらを見据える。
それは兄代わりとして?それとも恋愛感情込みで?「アンタだけはダメ」ってずっと言われたけど、私も希望持ってもいいのかな。

「まぁ精々幸せなアホ顔してろよ」
「千冬もね」
「アンタが幸せならオレはそれでいいんだよ」
「私だって千冬が幸せならそれでいいよ」
「変なカタチの両思いだな」
「そうだね」

クスッと笑った千冬。私もつられて笑う。
ドアノブに手をかけたまま、千冬は動かないでいる。離れがたいの、離れがたいね。
もったいないね、千冬の時間。もったいないの、千冬の気持ち。
出会わなきゃよかったのにね。千冬も一虎も私もみんな、みんな。

「やっぱりご飯食べに行こうよ、千冬」
「暇じゃないって言ったろ」
「ラーメン食べないと死んじゃう病気になった」
「いつだよ……」
「今」
「仕方ねぇな。ちゃんと頼んだ分は自分で食いきれよ」
「はぁい」

薄っぺらい時間でもやっぱりいいや。細く、長く、少しでも隣に置いておいてね。邪魔にならないようにするから。