痴話げんかは犬も食わぬ


「ケンカした」

突然のインターホン、玄関のドアを開ければそこにはしょんぼりとしたなまえの姿。誰と?なんで?なんて聞くだけ野暮。仕方ねぇな、と一歩下がりドアの前に道を作り出す。
なまえはXJランドのスタッフ件、一虎くんの彼女。両片思いな二人を付き合うように促したのはオレだったし、一番祝福したのもオレだった。

「なんか飲むか?」
「いらない」
「後悔してるなら謝ればいいのに?」
「私が悪くないのに?」
「ならなまえは100%悪くない?」
「それは……」
「はい解決」
「全然解決してない〜〜!」

んん、と口を尖らせながらソファで膝を抱えるなまえ。
その隣に座って、開けていたビールを傾ける。聞きたいことは山ほどあってもきっと答えてくれないだろうし、オレもなまえと一虎くんの事情を知りたいわけじゃない。だからなにも聞かないで隣に座る。無言の空間にテレビの音だけが響いた。

「……今日泊まんの?」
「んー」
「今回は何が原因?」
「んーんーなんだったかな……」
「別れる気ないんだよな?」

オレの問いかけになまえは黙って俯くだけだった。

いつもそうだ。
一虎くんとケンカする度、オレのところに来る。だからって一虎くんの愚痴を口にすることはないし、けど自分から謝ることもしない。出来ない。自分が悪いところもあるってことは自覚してんのに。いつもしばらくすると一虎くんが迎えに来て、なまえを連れて帰る。お決まりのコース。今回だってきっと同じ。いつだってオレは巻き込まれるのに第三者の立場を貫いてきた。
けど、そんな関係も今日で終わりにしよう。

そう思って缶を置いて手を伸ばしたのは、一虎くんのパーカーを着たなまえの身体。そのまま引き寄せるように抱きしめると腕の中にすっぽりと収まる華奢な肩幅と、薄い身体。

「千冬、酔った……?」
「さぁ?」
「ふふっ、もうちょっとしたらお水飲まなきゃだめだよ?」

まるで小さな子供でもあやすような口調で頭を撫でてくるなまえの手を払うこともせず、少し力を入れて細い首元に顔を埋める。柔軟剤なのか洗剤なのか、それとも香水なのか、鼻腔に広がる香りは初めて会ったあの時から変わらないままだと思った。
出会ったのはオレが先。好きになったのもオレが先。それでも一虎くんになまえを譲ったのは、二人に幸せになって欲しいと心から思ったからだった。二人が幸せならそれでいい、それが本音だった。

「ごめんね、迷惑かけて……」

耳元に直接流れ込む甘えた声に胸がきゅっと痛む。オレの方が絶対お前のこと好きなのに、と喉の奥まで迫り上がってくる言葉を抑え込んだ。今更こんなこと口に出す権利もない。この恋心を必死に押し殺したんだ。ずっと押し殺して生きていくはずだったのに……。

「…………一虎くんと別れろよ」

ぽつりと呟いた一言になまえの動きが止まる。そしてすぐに背中に回された手に力がこもり、「やだ」とはっきりした声で否定される。その返事は予想通りだった。今ならまだ冗談だって引き返せる。酔ってたんだって言い訳が出来る。なのに、頭の中のどこかでもう我慢をしたくない、奪いたいと思っていた気持ちがどんどん膨らんでいく。

「一虎くんと喧嘩した時なんでオレんとこ来るんだよ」
「なんで……なんでだろう」
「わかんねぇのかよ」
「あ、わかった」
「なに?」
「千冬のところだと一虎が迎えに来やすいから、多分」

なまえの顔を見つめる為に顔をあげる。目が合って、逸らすことが出来ない視線。頬に触れようと伸ばした手はそのままなまえの髪を掻き上げた。
キスしようと思えばできるタイミング。けれど、オレはその選択をしなかった。そのかわり、ゆっくりと距離を縮めて、額同士をくっつけてなまえの身体を解放した。なんとなく、なんとなくだけど、やっぱりなまえには一虎くんの隣で笑っていて欲しいと思ってしまったからだ。

「やっぱりなまえもなんか飲めよ」
「いい」
「たまにはオレに付き合ってくれたっていーじゃん」
「ううん、そうじゃないの。だって、」

なまえの言葉の続きは、突然の来訪者によるインターホンによって遮られてしまった。
オレの中で邪な気持ちがまた顔を出す。このままオレがインターホンに反応しなかったら?一虎くんになまえを渡さないってインターホンのモニター越しに伝えたら?そうしたらなまえはどんな顔をするんだろう?二人はどうなるんだろう。そんな、馬鹿な考えが一瞬で過ぎった。けれどそんなこと出来るわけがない、出来るはずない、わかっている。
チラと様子を伺うようにオレを見たなまえがソワソワとし始める。早く出ろという圧を感じたオレは缶ビール片手に無言のまま立ち上がり、モニター越しに一虎くんと会話をする。


「なんですか」
「来てんだろ」
「誰の話ですか?」
「チッ………なまえ居るんだろ?」
「さぁ?」

はぐらかすように答えて缶ビールを傾ける。
オレの意図に気づいたらしいなまえが不安げな瞳を向けた。モニターの中の一虎くんもはっきりしない態度にイラついた様子を見せた。そんな様子を見かねてか、なまえは「一虎だよね、開けるね」と言ってエントランスロックを解除しようとするから、慌ててその手を掴んで制止する。

「いいから開けろよ」
「なんでですか?」
「なんでじゃねぇだろ!オマエふざけてんのか?」

玄関先では相変わらず一虎くんが怒鳴り散らしている。
もうとっくに一虎くんからなまえを奪いたいって気持ちは萎れていた。二人を困らせたいわけじゃない。はっきりとした目的があるわけじゃなくて、ただただ二人が二人で幸せになって欲しいって気持ちだけだったのに。このロックを解除すればいいだけなのに。
そう思うほどに手が動かない自分がいる。

「なら別に開けなくていいわ。おい、なまえ、聞こえてんだろ。出て来い」
「ちょっと落ち着けよ、あんた何言ってるか分かってます?」
「千冬、私、一虎のところ行くよ」

一虎くんが一方的に怒鳴り散らす中、なまえは小声でオレに囁いて玄関に向かってしまう。咄嵯にその腕を掴んだけど、振り払う力は驚く程に強く、引き留める事すらできなかった。
あぁ、きっとオレはなまえに可能性を全部ぶった切って欲しかったんだ、と手を振り払われた瞬間に思った。ちっぽけなオレの期待とか、下心とか全部粉々に砕いて諦めたかったんだ。

「なまえ」

玄関に向かうなまえに一抹の望みを掛けて言葉を投げた。
なまえは振り返らなかった。
なまえが玄関の向こうに消えて、重いドアが非情に音を立ててゆっくりと閉まる。それを見てオレはまたビールを一口飲んで、「あーあ」と息を吐いた。

もうきっとなまえは一虎くんと喧嘩をしてもオレのところには来ないだろう。痴話げんかは犬も食わぬって言うんだから別にいいんだけど。ただ、これに懲りて二人の喧嘩が少なくなるといいな。そう思いながら空になった缶を握りつぶして、ごみ箱に投げ捨てた。気持ちもこんな簡単に捨てられればいいのに、なんて思いながら。