6月に入った。
今年の梅雨は雨がいつもより多いらしい。鬱々とした気分を伴いながらも、私と悟は任務に追われる日々を過ごし、伏黒くんは二年と共同演習をするようになり、私と伏黒くんが二人になることはおろか顔を合わせることもなくなった。

これでよかった。そう思える日々を過ごしていた。
感情に波風の立たない日々は穏やかで安定していたし、私の隣にはいつも悟が居てくれた。この生活が、いつまでも長く続く。続けたい。それがいつしか私の願いに変わっていた。


星に願いを、月に祈りを




6月某日、夜。
悟から一通の写メが届いた。メッセージもスタンプも何もない。ただ一枚、頭から血を流してボロボロの伏黒くんの写メだけが。

頭の中にデジャヴが浮かぶ。つい一か月前の伏黒くんの姿。あの時は足を怪我しただけで済んだけれど、今回は違う。流血しているし、顔色も悪い。何があったのか?と自分自身の血の気が引くのを感じた。

気付いたら、走り出していた。

最終の新幹線に乗り込み、仙台に向かう。新幹線に乗って移動するたった数時間すらもどかしく、乗降口付近をうろうろしてしまう。伏黒くんのところへ行ってどうしようというのだろうか。元気な姿を確認して、安心して、その先は?また答えの出ない迷路に迷い込み、私は答えを見つけられないまま伏黒くんとの距離は縮まっていく。

しばらくの時を経て、辿り着いた駅。
悟が仙台出張ということは聞いていたので、仙台駅に来たのはいいもののそこから先どこに向かうべきなのかを失念していた。結局、私はずっと自分の感情に振り回されてばかりだ。駅近のホテルに泊まって、明日の朝一で帰ろう。勢いだけで新幹線に乗り込んだけれど、移動の間に頭の中がどこか冷静になってしまった。


「どうしよ」

スマホを手に途方に暮れた。
とりあえず、と悟へ電話を掛けるもつながらない。補助監督に聞くにしても、事情を説明するのもややこしくなりそうで聞けない。こうなってしまえば、最終手段として、伏黒くん本人に聞くしかない。

いつ以来になるんだろう。
連絡帳から伏黒くんの連絡先を呼び出して、電話を掛ける。覚悟を決めて電話をしたはずなのに、表示される「伏黒恵」の文字に、急に怖くなってコール音が鳴る前に電話を切ってしまった。が、すぐに折り返しで、伏黒くんから電話が掛かってきた。


「もしもし、」
「あの、俺です。どうしましたか?」

電話の向こうの伏黒くんの声色はいつもと変わらない。元気なんだ、そう思ったら、身体の力が抜けて近くのベンチに座り込んでしまった。


「あの、なまえさん?」
「ん、うん、ごめん」
「どうしたんですか?」
「……悟から血まみれの伏黒くんの写メが届いて、」
「心配して電話くれたんですか…?」
「……宮城まで来ちゃった」
「は???」

ホッとしたからか、言わなくてもいいことを口にしてしまった。やばいと思った時には時すでに遅し。電話の向こうの伏黒くんは、黙り込んでしまった。そりゃそうだ。なにやってんだって思うのが、普通だろう。実際、私もそう思っている。


「…今どこですか」
「え、仙台駅」
「もう終電ないですよね」
「ないね」
「どうするんですか?」
「どうしよっかな」
「…俺のところ来ませんか?」

伏黒くんの優しい言葉が、深々と心に降り積もる。振り切ったはずなのに、悟を選んだのに、伏黒くんは今もこんなにも私に甘い。あんなに伏黒くんを傷つけた私なのに。


「そんな都合のいいことできない」
「ならなんで俺に電話したんですか?」
「間違えたの」
「そうですね、間違えてました」
「うん、だからもう切るね」

電話の向こうの伏黒くんは、もう何も言わなかった。私も静かに電話を切った。どこか近くでホテルを探そう、と立ち上がって、視界が急に真っ暗になった。強く抱きしめて来た相手は、すぐに分かった。


「伏黒くん…なんで…?」
「なまえさんから離れた俺が間違ってたって言いに来ました」
「なに言ってるの?」
「俺は今でもなまえさんが好きです」
「ねぇ、伏黒くん、離して」
「離しません」

たった数十日。誰が彼を変えたんだろう。目の前にいる青年は、もう出会ったころの伏黒くんとは違うような気がした。きっとあとは私の心ひとつ。多分、何も考えずに東京を出てしまった時点で答えは出ていたのだと思う。


「私、伏黒くんのこと悪い方に引っ張っちゃうかもよ?」
「そうかもしれないですね」
「だから、」
「さっき死ぬかもしれないって思ったんですけど、」
「え?!」
「あぁ、やっぱり離れなきゃよかったって思いました」
「え、待って、死にかけたってなに?」
「まぁ、それはもういいです」
「え、よくないよ。大丈夫なの?」
「なまえさんが居なきゃダメです」

頬に唇を寄せて、伏黒くんが呟く。唇は耳元に移動して、「だからもう離しません」と囁いた。私は小さく頷く。まるで調伏された式神のように。かぷりと伏黒くんが耳を甘噛みする。私は身を震わせて抵抗する。

二人の姿を月だけが見ていた。

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