テリュカ・リュミレースに降り注ぐ満天の星空をこんな穏やかな気持ちで見上げるのはいつぶりのことだろう。
エステルちゃんが帰って来た。御剣の階梯からザーフィアス城に戻ってくればハンクスさんが迎え入れてくれて、お城の中はほんの少しだけ暖かな空気に包まれた。もちろん課題はまだたくさん残っている。アレクセイは取り逃がしてしまったし、満月の子の問題も解決しきっていない。それにわたし自身の問題も――。
 それでも、今はエステルちゃんが戻ってきてくれただけで……それだけで充分だ。

 コツ、と静かな廊下にブーツの音が響く。アレクセイを追いかけるのは翌朝からになり今夜はそのままザーフィアス城に泊まることになった。わたしは来賓用の寝室に寝泊まりが決まって明日の為にもすぐにベッドに沈み込んでしまうのが良かったのだけど、なんとなく落ち着かなくて結局お城の中を探検している。迷子になるのは避けたかったから庭園や回廊をぐるぐると回るだけだったけれど。人気もなくてぼんやり歩くにはちょうど良かった。

「おい、お前」

 ところが、食堂の前を通りかかったあたりで背後から声をかけられてわたしは足を止める。誰だろうと肩越しに振り返って、あっ、と声が漏れそうになるのをなんとか呑み込んだ。
 下町の住人のほとんどがザーフィアス城に逃げ込んだとハンクスさんたちから話を聞いた時、どうしてそのことに気が付けなかったんだろう。

「……なんでしょうか」

 その人はわたしに魔核(コア)泥棒の疑いをかけた男の人だった。
 若干の気まずさを覚えながら体の向きを変えて向かい合う。自然とぐっと眦に力がこもるのが分かった。ほとんど自己防衛のようなものだろう。あの時の悲しい気持ちがじわじわと込み上げてきそうになったけど、それでも視線だけはまっすぐ相手を見つめていると今度は彼が視線を外す。そしてぽつりと小さな声で呟いた。

「――――あの時は疑ってすまなかった」
「え……?」

 予想外の言葉にわたしはぱちぱちと瞳を瞬かせる。てっきり嫌味のひとつでも言われると思っていたから拍子抜けしてしまった。
 当時、下町の水道魔導器(アクエブラスティア)は修理をしたばかりですぐに故障したとなれば第三者の介入を疑うのは仕方のないことだった。しかも、そこに突如現れた身元不明の人間がいれば尚更。わたしもあの時は知識不足で何も言い返せなかったのも良くなかった。今になって考えてみれば魔核が盗まれた当時、女将さんのおつかいで両手が塞がっていたんだから盗みなんて出来るわけがなかったのだけれど……今となってはどうでもいい話だ。下町の魔核はもう本来の場所に戻っているのだから。
 わたしはふるふると首を横に振った。

「部外者だったのは本当ですから、あの状況で疑われるのは仕方なかっと思います。気にしないでください」
「……そう言ってくれると助かる」

 こちらに敵意がないことを伝えると彼はどこかホッとしたように表情を緩ませた。この人もあの時はどうしても苛立ちを抑えられなかっただけなのだろう。状況的に仕方がなかった部分はある。
 謝ってもらえただけでわたしは十分だった。

「フレンから聞いた。お前も水道魔導器(アクエブラスティア)の魔核(コア)を取り戻すのを手伝ってくれたんだろ? ありがとう」
「大したことはなにも……。魔核の戻った水道魔導器は正常に動いてましたか?」
「ああ、問題なく動いてたぜ。今はどうなってるか分からないけどな」
「そう……ですよね」

 エステルちゃんを助け出せた結果、帝都を脅かしていた怪異は消え去ったけれどその爪痕は今もはっきりと残っている。綺麗に整備されていたレンガの道は歪な亀裂が入り、建物も相当なヒビが入っていて損害は相当なものだろう。比較的安全だったお城でもこの有様なら下町はもっと悲惨な状態になっているはず。そう思うとなんて言葉を返せばいいのか分からなかった。

「アズサ?」

 不意に食堂の扉が開いて不思議そうな表情をしたユーリさんが姿を現す。お城に戻って早々にユーリさんはフレンさんの部屋に向かったと聞いていたけれど、食堂にいたのならその用事も済んだのだろう。ユーリさんはわたしたちを交互に見比べるとなんとなく事情を察したのか、こちらを見下ろして小首を傾げた。艶のある長い髪が微かに揺れる。

「話は終わったか?」

 ユーリさんの問いかけに互いに目配せをしてから頷けばおもむろに腕に感じた硬い手のひらの感触。驚く間もなくそのまま腕を引っ張られ、わたしは食堂を離れる形になった。
 廊下を進んで、中庭を抜けて、お城の城壁がだいぶ近いところまで連れてこられてようやくユーリさんの手が離れる。ここはどこなんだろう。微かな明かりだけではほとんど周りが良く見えない。近くにいるユーリさんだけがぼんやりと浮かび上がって見える中、きょろきょろ辺りを見渡していると突然近くで馬のような鳴き声が聞こえて飛び跳ねた。

「な、なに……?」
「マジでアズサは生き物に好かれやすいよな。なかなか人に懐かないんだぜそいつ」

 声が聞こえた方向にぐっと目を凝らすと暗がりの中にうっすらと見えた円らな瞳。よくよく見れば馬というよりは一角獣に近い魔獣だった。ここは騎士団が管理している厩舎でわたしに近づいてきた真っ白な魔獣はフレンさんが普段乗っているのだとか。確かにフレンさんに白い魔獣は良く似合っている。柵の上から顔だけ覗かせた魔獣は驚くことにわたしの腕にすり寄って来た。へえ、と感心しているユーリさんの声が聞こえる。戸惑いながらも頭を撫でてみると綺麗に整えられたたてがみの想像以上の硬さにびっくりした。もっと柔らかいものだと思っていた。そのまま撫で続けていると隣に立っていたユーリさんに名前を呼ばれる。

「アズサ」

 視線を向けるとずっとわたしの腕を掴んでいた手にあるものが握られていた。思いもよらなかったそれを見てわたしは思わず瞳を丸くする。

「ユーリさん、それ……」
「ラピードが下町で見つけてきた。これアズサのだろ?」

 お城に戻ってからラピードとカロルくんが何度も下町に向かっては住民の持ち物を拾い集めて修復作業をしていたのは知っていた。けれど、まさか、わたしのものが見つかるなんて思ってもみなかった。それは誰にも見つからないように制服のポケットにしまっていたはずなのに。
 固まるわたしを見てユーリさんは少し困ったように笑った。

「下町のやつらがこんな奇天烈なもの持ってるはずがないからな」

 それは、そうだ。これをわたし以外の人間が持ち歩いていたら大問題になってしまう。だからユーリさんは人気のない厩舎に連れ出してくれたのだろう。人前では決して渡せるものではないから。
 わたしはユーリさんを見上げて静かに頷く。

「…………そうです」

 ありがとうございます、と言ってユーリさんからそれを受け取る。久々に触れるスマホの無機質な手触りはあまりにも懐かしくて心臓がぎゅっと締め付けられた。

「故郷の、大事なものなんです」
「それって何なんだ?」
「これは……なんて言ったらいいんですかね。色々と出来ることはたくさんあるんですけど。たとえば離れた場所にいる相手と簡単に連絡が取れるんです。声や文字を相手に届けてくれるんです」
「へえ。便利な道具だな」
「他にもこれを目印にして相手に自分がどこにいるか教えることもできるんです。もちろん相手も同じものを持っていないと意味がないんですけど」

 そう、だからこの世界ではただのガラクタでしかない。送り相手のいないスマホを持っていたって虚しくなるだけだと旅には持っていかなかった。
 ――今でもまだ動くのだろうか。ふと、そんな疑問が頭を過ぎってわたしは電源ボタンに指を伸ばす。たまには思い出に浸るのも悪くないだろう。どうせここにはわたしとわたしの素性を知っているユーリさんとなんにも分からない魔獣たちしかいないのだから。
 淡い期待を抱きながら電源ボタンを押し続けていると真っ黒だった画面にぼんやりと灯りが灯る。良かった、まだ使えそうだ。突然光り出したスマホをユーリさんが興味深そうに覗き込んでくる。ユーリさんも初めて見る得体のしれない物体に興味津々のようだった。

「リタに見せたら喜びそうだな」
「そうですね、リタちゃんはこういうの好きそうです」

 リタちゃんの専門は魔導器(ブラスティア)だけど機械の分野はなんとなく得意そうだ。研究者なだけあって探求心は人一倍だから。
 隣のユーリさんの新鮮な反応を横目にわたしは慣れた動作で指を動かしてパスコードを入力する。トントンと画面をタップすればずらりと並ぶ写真。もともとそんなに写真を撮る方ではなかったけれど、眺めていれば元の世界で暮らしていた思い出が次々と蘇ってくる。何枚もスライドして画面を眺めているとやがて一枚の写真を見つけて思わず指を止めた。一緒にスマホを覗き込んでいたユーリさんも写真を見てわたしが動きを止めた理由を理解したのだろう。

「わたしの家族です」

 色とりどりの花畑の前で撮った一枚。わたしと弟を挟むように並んだお父さんとお母さん。弟の小学校の卒業祝いも兼ねて家族旅行した時の写真だった。写真の中のわたしは笑っていて、幸せそうだった。
 そうだ、わたしは元の世界に帰るんだ。そのためにずっと旅を続けてきたのだから。アレクセイの目論見を止めれば、そしたらきっとわたしは、

(――――帰れる保証なんてある?)

 アレクセイが良からぬことを企んでいるのは事実だ。止めなきゃいけないことも分かっている。
 けれど、それを止めたところでわたしが元の世界に帰れる保証なんてあるのだろうか。

「アズサ?」

 考え込むと周りの声が聞こえなくなるのは自分の悪い癖だ。
 弾かれたように顔を上げるとユーリさんが心配そうにこちらを覗き込んでいる。きっと元の世界のことを思い出してしんみりしているように見えたのだろう。わたしは慌てて笑みを作ってスマホをポケットにしまった。

「……ありがとうございました、ユーリさん。明日、ラピードにもこっそりお礼言っておきます」
「ああ、明日はアレクセイとの戦いだ。ちゃんと休んどけよ」
「はい。お休みなさい」

 軽く頭を下げてわたしは踵を返す。最初は普通だった足取りもお城の中に入る頃には駆け足になっていた。そうじゃないとじわじわと胸の中を侵食し始める不安に押し潰されそうになっていたから。今すぐベッドに潜り込んで何も考えずに眠ってしまいたかった。
 静まり返ったザーフィアス城の中で自分の荒い呼吸が響く。今はアレクセイのことに集中しないといけないのに余計なことばかり考えてしまう。ざわざわと胸騒ぎが治まらない。

「アズサ?」

 その時、薄暗がりの中からわたしを呼ぶ声が聞こえて肩が跳ねる。コツ、と靴音が響いて黒いシルエットが月明かりに照らされて輪郭を帯びる。

「……フレンさん?」

 そこには瞳を丸くしてわたしを見つめるフレンさんの姿があった。


top