001


 どうして他の誰でもなく、わたしだったのだろう。
 深い森の中だった、緑色の世界。空すらも覆い隠してしまう程に枝を伸ばす木々からは微かに光が差し込む程度で、それすらも気味悪さを演出するひとつの装飾にしかなっていなかった。耳に届くのは自分からから発せられる音ばかり。草むらを駆ける足音、酸欠になってしまいそうなほどに乱れた息を吸う音、そしてそれを吐き出す音。辺りは不気味なくらいに静かで、それが逆に恐怖感を煽る。

「……っ、」

 ずきんと、左腕に痛みが走った。力もろくに入れられずだらりと垂れ下がったそれは恐ろしいほど真っ赤に染まっている。二の腕から始まった赤い液体は肘を、指先を伝ってぽたりと地面に落ちた。今まで走ってきた道には所々赤い染みが出来上がっていて、視界に捉える度にぞわりと全身に悪寒が駆け巡る。ひゅっ、と冷たい空気が喉を鳴らした。それでも足を止めるわけにはいかなかった。
 今の状況に少なからず混乱はしてる。パニックにならないだけましな方だ。だけど、それ以上に迫り来る恐怖から逃れようと必死になっていた。少しでも遠い場所に行かなければ、足を動かさなければ、這いつくばってでも移動しなければ――そうしなければわたしは、きっと。

(きっと死ぬ)

 鋭い痛みで目が覚めた。それこそ今までに感じたこともない神経まで痺れるような痛み。痛みの矛先に視線を向ければ狼のような獣がわたしの左腕に噛みついていた。黄ばんだ牙がぎりぎりと確実に皮膚に食い込んでいくのが分かった。一瞬で全身に震えが走り、咄嗟に腕を振り払った。そのおかげで獣は離れたものの、あっという間に鮮血が腕を真っ赤に染める。一旦はわたしと距離を取った獣も立ち去る様子はなく、低い唸りを上げながらじりじりとこちらに近づいてくる。殺気を帯びた獣の視線にわたしは悲鳴を上げないように声を殺すのに精一杯だった。少しでも弱味をみせれば獣はわたしを食い殺される。そんな気がした。

(嫌)

 今までに感じたこともない恐怖感だった。そもそもここはどこなのだろう。自分の状況が理解できていない。上手く、頭が回っていないようだ。目の前の状況が整理できていない。目覚める直前まで、自分が何をしていたのか思い出せないのだ。獣に引きちぎられ地面に落ちた赤く染まった服の裾が自分が着ているのが学校の制服だと教えてくれる。けれど、それ以上に何か思い出そうとすると呼応するようにズキズキと頭部が疼くのだ。

(とにかく逃げなきゃ……!)

 この果てしない恐怖から解放されたい、その一心で必死に足を動かす。血の匂いに引き寄せられたのか、もう一匹の獣が現れてケンカを始めなければその場から逃げられなかっただろう。噛まれたのが足ではなく腕だったのは幸いだったのかもしれない。それが最善だったとはちっとも思わないけれど。少なくとも獣の姿が見えなくなるまでは逃げることができた。
 けれど、生き物の嗅覚というのは人間のそれよりもずっと発達しているらしい。今こそ姿は見えないものの相手は四足歩行。わたしも足に自信がある方ではないから、追いつかれてしまう可能性の方が高い。その前にどこか安全な場所に移動しなければ。

「っ、いった……」

 途中で木の幹に足を取られてわたしは派手に転んだ。ずっと走っていたから息が苦しい。倒れ込んだ拍子に目いっぱい空気を取り込む。流血で体力の消耗も激しいのか、身体に力が入ってこなかった。震える右腕でなんとか上体を起こし、辺りを見渡す。せめて、誰かに助けを求めることができたら……。

(あ、)

 ながくながく枝を伸ばす木々の隙間から辛うじて建物が見える。建物があるということはそこに誰かがいるということ。この際、悠長なことは言ってられない。たとえその建物が明らかに見慣れた日本のものではなく、しかも建物自体が透明な膜のようなもので覆われていたとしても……まずは自分の命を確保することがなによりも大切だ。わたしは近くにあった木に体を預け、のろのろと起き上がる。やばい、少し視界が霞んできた。朦朧とする意識の中、草木を掻き分けてわたしは目的地へと足を進めた。

(……もう、少し)

 徐々にはっきりと見えてくるそれは高い塀に囲まれていた。その塀の前にはやはり透明の膜のようなものがある。まるで、建物を守っているみたいだ。これは、触れても平気なものなのだろうか。助かる道はすぐ目の前にあるかもしれないのに、その一歩が踏み出せない。膜におそるおそる手を伸ばしかけたその時だった。

「大丈夫か、お嬢さん!」

 突然自分にかけられた声にびくりと肩を震わせて視線を前に向けると膜の向こうから一人のおじいさんが驚いた表情でこちらに向かって駆け寄ってきた。良かった、人がいる……。見たこともない景色に不安もあったけれどおじいさんの声を聴いて安心してしまったのだろう。気が抜けたら一気に身体の痛みや疲労感が襲ってきて、倒れ込む直前にわたしは意識を手放した。


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