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 ゆっくりと瞼を持ち上げて、まず視界に映ったのは木目調の天井だった。それから、眉間に皺を寄せてわたしを覗き込む人の姿。それは意識を失う寸前に駆け寄ってきてくれたおじいさんだった。どうやらわたしはベッドに寝かされているらしい。ここはどこなのだろう。ぼんやりとした視界の中、おじいさんの目尻がぴくりと反応したのが分かる。彼はわたしと視線がぶつかると慌てたように口を開いた。

「おおっ! 目が覚めたんだな」

 指一本すらまともに動かせられないにも関わらず、恐怖感が全くやってこなかったのはおじいさんがあまりにも優しい眼差しをしていたからだろう。悪い人には見えなかった。ここはどこですか? そう喋ろうとしたのに出てくるのはあまりに掠れた声できっと言葉にもなっていなかったように思う。おじいさんは軽く目を見開くとそのまま視界から消えてしまった。少しして戻って来たおじいさんはわたしの背中に手をまわすと上体を起こしてひとつのマグカップを差し出す。

「水だ。飲みなさい」

 少しずつ意識が回復してくると声が出ないのも納得できるくらいに口の中がカラカラになっているのが分かった。おじいさんの好意を素直に受け取り、水を口に含んで喉を潤す。余程、身体が水分を欲していたのかただの水もいつもよりおいしく感じられた。中身を半分ほど飲み終わった頃には、ありがとうございました、という言葉もするりと出ていていた。

「あの、ここはどこですか……?」
「わしの家じゃ。広く言えば帝都ザーフィアスの下町だが」
(ザーフィアス……?)

 マグカップの水を少しずつ飲みながら、おじいさんの言葉を心の中で反芻する。わたしの聞き間違いでなければ、ここはザーフィアスという場所らしい。初めて聞く名前だ。少なくとも日本にはない。けれど、どこかで聞いたことがあるような単語にわたしは首を捻る。帝都ザーフィアス……一体、どこで聞いたのだろう。いや、それよりも、一番肝心な部分が抜けている。

「日本じゃない……?」
「ニホン?」
「あ、いや、なんでもないです」

 まだ表情筋は思うように動かせなかったため、首を振ってむりやり会話を切断させる。ぽつりと呟いた日本という単語に不思議な視線を送ってきたおじいさん。まさか、日本を知らないというのだろうか。自分はれっきとした日本語でわたしと会話しているというのに。ますます疑問と不安が募る。
 おじいさんの名前はハンクス、というらしい。眼鏡の奥には鋭い双眸があって少し怖い印象のあるおじいさんだったけれど、こうして献身的に介抱してくれたのだから決して悪い人ではないのだろう。ハンクスさんが言うにはわたしは倒れてから丸二日ほど意識が戻らなかったらしい。それならこの異常なほどの喉の渇きも納得がいく。

「すまんのう。金があれば治癒術師を呼べたんじゃが」
(チユジュツシ……?)

 また、変わった単語が出てきた。表情を曇らせるハンクスさんの視線を追いかけるとぐるぐるに巻かれた二の腕の包帯。痛みは今のところ感じられないけれど腕の怠さはなんとなく抜け切れていない。それだけ強く噛まれたのだろう。腕が引き千切られなかっただけ幸運だったのだ。チユジュツシがなんなのかはさっぱり分からなかったけれど、わたしは気にしないふりをしてふるふると首を横に振る。

「いいえ、これだけでも充分です。助けていただいてありがとうございました」

 上手く笑えていただろうか。ハンクスさんが眉を下げたところを見ると、あまり上手には出来なかったらしい。すまんのう。ハンクスさんが申し訳なさそうに呟く。むしろ謝らなければいけないのはわたしの方だ。血だらけて現れて意識まで失って。自分の家まで運んでしかも治療までしてもらって意識が戻るまで家に置いてくれて。散々迷惑をかけてしまっているのはこちらでわたしは慌てて首を横に振った。
 そこで視界の端に見慣れた服が目に留まり、視線を向ける。

(……制服)

 獣に噛まれたり、枝に引っかかったりして、あちこち破れてしまった高校の制服。それが丁寧にハンガーにかけられて壁にかかっている。よくよく確認すれば自分が今着ている服は身に覚えのない服で、そうなると誰かがわたしを着替えさせてくれたということになる。

「あの、今わたしが着てる服って……」
「ああ。宿屋の女将が着替えさせてくれたのだ。流石にわしがやるわけにはいかんからな」
「……すいません」

 ひとつだけの意味ではない。わたしはハンクスさんにほんの少しでも疑念を抱いてしまったのだ。自分を守ることしか考えてなくて恥ずかしい。顔を俯かせるとくしゃりと前髪を撫でられる。ごつこつとした男の人の手はどこか、懐かしいものを感じられた。頭に手を乗せられたまま、顔を上げると柔らかい双眸と瞳が合う。
 ハンクスさんこんなにいい人なのに……わたしは更に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「気にするな。今は早く怪我を治すことに専念しなさい」


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