プリズムの淵で手を放す


 終業のチャイムが鳴って授業の終わりを告げる。
 クラスメイトたちが続々と教室を出ていく中、かばんに教科書を詰めていると先に準備を終えたアニスとティアが私の前に現れた。

「じゃあ、柚希。私たち先に生徒会室に行ってるわね」
「今日は流石に柚希が来るんでしょ?」
「……うん、そのつもり」

 アニスの問いかけに私は小さい笑みを浮かべて頷く。未だにアッシュくんとの一件以来、私は放課後のミーティングに参加できていなかった。なんでもない顔をしてアッシュくんと話せる自信がまだなかったから。
 その代わりに唯一の同級生であり副部長でもある井浦栞にお願いをしていた。最初こそ「代わりにミーティングに出てほしい」とお願いした時は不思議そうな顔をしていたけれど、私の表情を見て栞は何も事情も聞かずに「いいよ」と快諾してくれた。

「いっつも部のこと柚希に任せてばかりだからね。それくらいお安い御用だよ!」

 そう言って前回まで代理を引き受けてくれていたけれど、今日のミーティングは体育祭直前の最終調整。特に問題もなく準備できているとは言え、流石に今回は部長が参加しないわけにはいかない。
 私は無理矢理口角を持ち上げる。

「一回部室に寄ってから行くね」
「分かった。また後でね」

 上手く誤魔化しきれていただろうか。ひらりと手を振って立ち去る二人の背中を不格好な笑みを張り付けたまま見送る。そのまま廊下に消えてゆくのを確かめてからようやく胸にため込んでいた重たい空気を吐き出した。
 ……本音を言えばまだ参加はしたくない。生徒会のミーティングに参加する、ただそれだけのことなのにアッシュくんと会わなきゃいけないと思うと色んな記憶が、感情が、込み上げてきて泣きそうになる。けれど、あくまでこれは私個人の問題であってアッシュくんたち生徒会や部員には関係のない話。これ以上迷惑をかけるわけにはいかない――と、頭の中では十分理解しているんだけどやっぱり気乗りはしない。

(諦めて、行くしかないよね)

 今までの私なら平静を装うことくらいできていたはずなのに、あの一件以来、どうにも我慢のネジが取れてしまったらしく胸の衝動を抑えるのが苦手になった。校内で長い緋色の髪を見つけてしまうと咄嗟に身を隠してしまう。せっかくルークくんにも話を聞いてもらって落ち着けたと思っていたけれど心の準備は全然できていなかったみたいだ。あれからそれなりに時間が過ぎているというのに私の気持ちはあの日からちっとも前に進めていない。
 ちらっと制服の裾から腕時計を覗き込むと写真部のミーティングが始まる時間が迫っていた。

(……仕方ない)

 どうかミーティングの間だけでも平常心を保っていられますように。私はどんよりとした気持ちでようやく自分の席から立ち上がるのだった。

***

 職員室に行き顧問の先生に今週の連絡事項を尋ねて部室へと向かう。体育祭が目前なのもあってか普段よりも連絡することはほとんどなかった。部員の揃った部室で簡潔に連絡事項を伝えればいよいよ生徒会室に向かわないといけなくて自然と足どりが重くなる。

(一秒でも早くミーティングが終わりますように)

 生徒会室に向かう階段を一段、また一段と上るたびに早くなっていく心臓の鼓動。こんなに緊張するのは初めて生徒会のミーティングに参加する時以来かもしれない。もう何度目になるか分からないため息を吐いた時のことだった。

「立花」

 久しぶりに聞いた彼の声はなんとなく強張っているような気がした。
 まだ穏やかな日差しが照らす廊下で突然、後ろから声を掛けられてびくりと肩が跳ねる。本来ならもう生徒会室に向かっているはずなのにどうしてここにいるのだろう。肩にかけたかばんを強く握りしめておそるおそる振り向けばそこにはいつもより険しい表情をしたアッシュくんの姿。逃げ出したくなる衝動を必死に堪えて私は口角を持ち上げる。

「……どうかしたの、アッシュくん?」
「――――この前は悪かった」
「え?」

 一瞬、何の話か分からずにぽかんと口を開く私にアッシュくんは整った眉を眉間に寄せる。 
 彼の渋い表情の原因が分からず頭の中で返す言葉を選んでいた矢先、ふと周りに視線をやれば他の生徒から刺さる視線。視線を前に戻せば自然とぶつかるアッシュくんのまっすぐな視線。次に自分の取るべき行動は分かっていた。私はアッシュくんだけ届くような小さな声で囁く。どうかこのうるさい心臓の音が彼に届かないことを祈りながら。

「あの、アッシュくん。場所変えない?」

 生徒会室に向かうはずだった足はいつの間にか再び写真部の部室に向かっている。途中まで進めばほとんど廊下にも人の気配はなくなっていき、ここまでくれば迂闊に他人には聞かれたりしないだろうと足を止めた。二人きりで話なんて本当なら今すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいだったけれど、後ろからついてくるアッシュくんの罰の悪そうな顔を見たら無視するわけにもいかなくて結局こうして向かい合っている。
 くるりと踵を返して私は難しい表情をするアッシュくんに小さく笑いかけた。

「余計な時間とらせちゃってごめんね。生徒会のミーティング……間に合う、かな」
「まだガイがルークを捕まえてないから問題ない」
「…………なるほど、そっか」

 ルークくん、相変わらずだなあ。
 今日も今日とてルークくんはガイ先生と追いかけっこをしているらしい。苦笑交じりの笑みを浮かべているとアッシュくんに再び名前を呼ばれた。凛とした翡翠の瞳がかち合い、心臓を柔く掴まれる。

「あの日、立花と入れ違いで生徒会室に入って来たルークに言われた。もう少し相手の気持ちを考えて発言しろと」

 アッシュくんの言う"あの日"とはきっと生徒会室で話した日を指しているのだろう。なんとなく、そんな気はしていたけれど。

「確かに軽率な発言だった。立花の気持ちも考えずに……すまなかった」

 違う、アッシュくんは何にも悪くない。私が勝手に傷ついただけだ。目を背け続けてきた現実を真正面から突きつけられて、耐えられなかった自分が悪い。
 もっと私が上手く誤魔化せれば良かったのだ。あの日、あのまま部室に逃げ込まずに下校していれば泣いてしまったこともルークくんにきっと気づかれなかっただろう。そうすれば今までの生活を送れたはずなのに。私は慌てて首を横に振る。

「違う……違うの。アッシュくんは何も悪くないよ。私が、」
「アッシュっ!!」

 突然廊下に響き渡ったあまりの声の大きさに思わずびくりと肩が震えた。彼がこんなに声を荒げるなんて珍しい。ゆっくりと背後を振り返るとそこには明らかに不機嫌そうなルークくんの姿があった。ずんずんと大股でこちらに近寄ってくると今にも飛びかかりそうな勢いでアッシュくんに詰め寄る。

「お前っ! また立花に余計なこと、」
「だ、大丈夫! 大丈夫だよ、ルークくん」

 私が慌ててアッシュくんとルークくんの間に入るとぴらっとルークくんの動きが止まった。こちらを見下ろす瞳が不安げに揺れている。
 ルークくんは本当に優しい人だ。私なんかのことをこんなにも心配してくれているのだから。だけど、今はルークくんが心配するようなことは何も起きていない。私はうっすらと笑みを浮かべる。「本当だよ」と言えばルークくんの眼差しがほんの少しだけ和らいだ。

「ホントか?」
「うん、本当」
「……なら、いいけど」

 そんなことよりルークくんはこんなところで立ち往生してていいのだろうか。おそらく彼は今、ガイ先生から逃げている途中のはず。問いかけようとした矢先、私の視界の端に映ったのは階段を駆け上ってくるガイ先生の姿。そっとルークくんの肩を叩いてガイ先生の存在に気づかせれば「げっ」と彼は露骨に顔を歪ませる。

「それじゃ、後でな立花!」
「あ、こら! 逃げるなルーク!」

 一目散に廊下を走り去るルークくんと必死に後を追うガイ先生。二人の姿はあっという間に見えなくなってしまいぽつんと私とアッシュくんだけが取り残された。しんと静まり返った廊下。開いた窓から微かに聞こえる吹奏楽部の練習音。私は気まずい時間を少しでも減らすために急いで口を開いた。このまま沈黙が続くと私が耐えられそうになかった。

「行っちゃったね……ルークくん」
「――あいつはガイが連れてくる。俺たちはミーティングに向かうぞ」

 これは後から気づいたことなんだけれど、あのままルークくんを見送らないで一緒に生徒会室に行こうと誘っていれば少なくともアッシュくんと二人きりになる時間を減らせたはず。でも当時の私はどうにか平常心を保っているので手一杯でそんなところまで頭が回らなかったのだ。
 生徒会室に向かうアッシュくんを私は戸惑いながらも追いかけるのだった。
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