さようならは僕の常套句
植物に囲まれた一本道を黙々と進んでいくと本当にスペースが現れた。控えめな白の装飾が施されたテーブルとイス。周りには店舗がいくつかあって中にはスタッフが数人。突然現れた二人の学生にスタッフの人たちはきょとんとしていたけれど胸にぶら下がったネームプレートを見て事情を理解してくれたらしい。特に気にすることもなく話し合いを再開させていた。
「オレはここで待ってるから」
カメラだけを抱えて私は今通ってきた道を戻る。実はさっきファブレくんの後ろを歩いている間に写真納めたい植物をいくつかピックアップしていた。お客さんも私たちしかいないから好きにカメラを構えられる。胸の高鳴りを押さえきれなくて自然と緩む口元。
だけど、その前に確かめたいことがあった。
その場に立ち止まって数秒後。私は再び道を戻って植物の影から飲食スペースを覗き込む。ほとんど空席の椅子にぽつんと一人残ったファブレくんの姿。私は息を潜めながら彼の様子を伺う。大きな葉っぱの隙間から見えた彼は持参した本を読んでいた。明らかにイライラしたりとか不満げな様子は見られなくて私はほっと安堵の息を吐く。あまり没頭すぎないようにしよう、一人で写真を撮りに来てるのではないのだから。
密かに心に決めて私はスマホを覗き込む。時刻は十一時半。ガイ先生が迎えに来るのは一時頃の予定だと後からメールが届いていた。ファブレくんにも同じメールが届いていたらしく苦い顔をしていたのを思い出す。ガイ先生が迎えに来る頃には自分の中で満足できるくらい写真を撮っておこう。そしてファブレくんを早く解放してあげるのだ。私は踵を返して写真を撮りに向かった。
***
(この花の名前、なんだろう……)
青に近い紫色をした小さな花が無数に咲き乱れた綺麗な花。何気なく目に止まって撮っていたけれど名前は知らなかった。植物園には花の名前が書いてる看板がいくつかあるから、その中にこの花の名前も記載されているかもしれない。時間があったら後で探してみよう。
そんなことを考えながらシャッターを押していると突然、耳元で声が触れた。
「気に入ったのは撮れたか?」
「っ……!?」
喉から出かかった声をなんとか飲み込んでファインダーから目を離す。おそるおそる背後を振り返るとファブレくんが驚いた表情で私を見下ろしていた。翡翠の瞳がぱちぱちと瞬く。びっくりした。
「本当に集中すると周りが見えなくなるんだな。ごめん、驚かせた」
私は慌てて首を横に振る。目の前のことに夢中になってしまって周りの声が聞こえなくなるのは昔からの癖だ。ファブレくんはなんにも悪くない。
「こっちこそごめんね。もしかして、もう時間来てた?」
待たせていたにも関わらず迎えまでやらせてしまったのだろうか。急いでスマホを取り出そうとするとファブレくんは「立花焦りすぎ」とおかしそうに笑った。
「これ、スタッフさんから。試作だって貰ったんだ」
ずいっと目の前に出されたのは紙のカップ。ふとファブレくんの手元を見ればもう片方の手にもカップが握られていた。ほんのりと浮かぶ湯気。ふわっと鼻孔をくすぐる茶葉のいい香り。
私はカップとファブレくんを交互に見て首を傾げた。
「紅茶……?」
「立花、紅茶好きだったよな。少し休憩にしようぜ」
自分の中で満足できるくらいの写真は撮れた気がする。「ちょっと待ってくれる?」とファブレくんに一言言ってからカメラの容量も確認したけれど、ほとんど残っていなかった。休憩を挟むにはちょうどいい。
せっかくだからファブレくんの好意に甘えることにしよう。カメラを首に下げて私は紅茶を受け取る。
「うん、ありがとう」
飲食スペースに設けられていたベンチに一人ほどの間隔を空けて座る。店舗内にいたスタッフさんたちは休憩時間に入ったのか見当たらなかった。しんと静まった空間に近くで流れていた人工の川のせせらぎだけが響く。
飲み頃になった紅茶を口につけるとベリーのような甘い香りが広がった。ファブレくんから聞いた話だとフレーバーティーらしい。植物園で採取したものを使ってるんだとか。これで試作段階だなんて信じられないくらいおいしかった。
「気に入ったか?」
「うん、すごいおいしい! 近所にあったら毎日通いたいくらい。ティーパックで売ってくれたりしないかなあ」
「どうだろうな。今度、親父に聞いてみるよ」
そうだった、この植物園の運営者はファブレくんのお父さんなんだっけ。ファブレ家が結構なお金持ちだというのをすっかり忘れていた。熱いのが苦手なのか紅茶をちびちびと飲むファブレくんをそっと横目に伺う。
違和感のない会話、流れる穏やかな空気。今なら切り出しても大丈夫だろうか。あの日のことを。お礼を言えていなかったのがずっと気がかりだった。
「……あのね、ファブレくん」
大きな翡翠の瞳がこちらに向けられる。うっすらと口元を緩めたその姿がどうしてか部室で見た悲しげな笑みと重なった。私は咄嗟に視線を手に持った紅茶に落とす。
「ずっとお礼が言いたかったの。あの日は、ありがとう」
現実に打ちひしがれて部室で泣いていた私。それを救い上げてくれたのは紛れもないファブレくんだった。
「ねえ、聞いてもいい? いつから知ってたの、私がアッシュくんのこと……好き、だって」
息苦しさにもがいていた朧げな記憶の中でもそれだけははっきりと残っている。私がアッシュくんのことが好きだとファブレくんが知っていた。誰にも言ったことはなかったはずなのに。あの時のファブレくんの悲しげな笑みがどうしても忘れられなかった。まるで自分も何かに苦しんでいるかのような。
私はちらりとファブレくんの様子を伺う。彼は一瞬、瞳を丸くすると視線をそらすように前を向いた。長い睫毛に縁取られた翡翠がうっすらと影を作る。長い長い沈黙の後、ファブレくんはゆっくりと薄い唇を開いた。
「──はっきりと確信を持ったのは最近の話。最初はちょっと違和感を感じてただけ」
「違和感?」
「そう、違和感」
ほんの少し背中を丸めてファブレくんは言葉を続ける。
「なんとなく分かっちゃうんだ。オレに向けられてる目とアッシュに向けられてる目が同じなのか違うのか。オレたち、見た目が似てるから余計なんだよな。アッシュがあれぐらいできるんだからオレもできるだろって勝手に期待されんの。昔からすげー嫌だった」
「うーんと、上手く伝わるか分からないんだけど……アッシュくんとファブレくんは違う人間だよ?」
「ほら、そういうとこ。立花みたいな考え方するやつって実はごく少数なんだぜ」
そんなものなのだろうか。アッシュくんとファブレくんが同じ人間だなんて考えたこともなかった。だって、二人は違う人間なのだから。ファブレくんの言うことは少し難しく感じた。
頭に疑問符を浮かべているとファブレくんがおかしそうに笑う。何か変なことを言っただろうか。だってアッシュくんはアッシュくんだしファブレくんはファブレくんだ。そして、あの胸の苦しみはアッシュくんにしか生まれない。
ひとしきり笑ったファブレくんは再び唇を引き結んだ。そして穏やかな笑みを浮かべたまま私に尋ねる。
「……アッシュに、気持ちは伝えないのか?」
ぴくりと眉が反応した。私は綺麗な翡翠の瞳から視線を逸らす。
「今はまだ、怖い、かな。この気持ちを手放すのが怖いの」
何回も手放したいと思ったことはあった。不毛な恋だと分かっていたから余計に。
だけど、生まれて初めての恋だったから。いざ胸を離れた時に自分がどうなってしまうのか分からなくて怖かった。
「好きでした……って言えるようになったら言いたいな。言えたら、いいな」
それがいつになるのかは今は分からないけれど。もし、アッシュくんに伝えられたらこの気持ちも少しは報われるのだろうか。辛かったことも嬉しかったことも、全部昇華されて綺麗な思い出として残るのだろうか。
消え入るくらいに小さな声がファブレくんに届いたかは分からない。植物園の一定の温度に保たれたぬるい風が頬を撫でた。紅茶も冷めて大分飲みやすくなった頃、ファブレくんは「ところで、立花」と言って私を横から覗き込む。心なしか、彼の表情は少し不機嫌そうに見えて私は身体を強張らせた。
「オレ、ずっと立花に言いたいことがあったんだけど」
「な、なに?」
「なんでアッシュのことはアッシュって呼ぶのに、オレのことはファブレなんだよ」
むすっと唇を尖らせてこちらを軽く睨むファブレくん。予想外の言葉に身構えていた緊張もどこかにいってしまった。えっと……つまり、名前で呼んでほしいということだろうか。上手く返事を返せないでいると不意にあの日の記憶が蘇る。アッシュくんにファブレくんの印象を聞かれた時、同じようなことを言っていた。アッシュくんとファブレくんは違う人間。そう思っていたけれど、やっぱり似てしまう部分はあるみたいだ。
急に声を殺して笑い出した私を見て「オレ、変なこと言ったか?」と言ってファブレくんは首を傾げる。彼は変なことは言ってない、本当に何も。「なんでもない」と言って私は目尻に浮かんだ涙を拭った。
「あの時、来てくれたのがルークくんで本当に良かった。ありがとう」