君が美しく笑ったせいだ


 胸に深く刻まれた傷が癒えたとしても、この想いはこの先もずっと抱えて生きていく。
 色褪せた思い出が綺麗なものだったと思える日が来た時、私は笑うことができるだろうか。


 正門から昇降口までの一本道。ひらりと目の前で一枚の桃色の花弁が舞い落ちる。ふと頭上を見上げるとからりと晴れた青い空に桜並木が視界に広がった。ついこの前まで満開に咲き誇っていたが今では若葉が枝を占領し始めている。週末には全て散ってしまうのではないだろうか。まるで自分の役目を果たしたかのように一枚一枚散っていく桃色の花弁。
 それは私がこの学校に来て二回目の春が終わることを告げていた。

(早いなあ)

 終わりかけの桜並木を見上げひっそりと口元を緩めていると、私の隣を真新しい制服に身を包んだ生徒が追い抜いていく。入学から一か月たったとは言え、在学生と新入生を見極めるのはそれほど難しくない。皺ひとつないプリーツのスカート、ピカピカに光るローファー。彼らの持つ独特の雰囲気は今の時期にしか見られないものだ。私はそっと自分の制服を見下ろす。毎週アイロンをかけているが少しずつ癖のついたスカート。光の角度で若干の傷が見えるローファー。月日の流れは本当に早いと実感させられる。
 視線を前に戻せば追い抜いて行った生徒は私の前を歩いていた生徒に近づきぽんと肩を軽く叩く。どうやら友達だったみたいだ。彼女らは互いに視線を合わせにこやかな笑みを浮かべていた。
 正面玄関をくぐってすぐに別のクラスの友達に会って「おはよう」と挨拶を交わした。なんだか眠たげな彼女に「どうしたの?」と尋ねれば「徹夜して漫画読んでた」と欠伸をかみ殺しながら返事が返ってくる。知り合いから借りた漫画が予想以上に面白くて夜通しで全巻読み切ってしまったらしい。しかも興奮してなかなか寝付けなかったとか。「頑張って一日乗り切って」と苦笑いを浮かべて別れた後、自分の下駄箱へ向かった。
 ローファーを脱いで手に持とうとすると肩に下げていたかばんがずり落ちた。今日は参考書が多い授業がたくさんある日だからかばんもいつもより重たくなっている。今度から荷物が重たい日はリュックで通学した方がいいだろうか。息をひとつ吐いてかばんを肩にかけなおし、ローファーを指にひっかける。自分の目線と同じくらいの高さにある下駄箱を開いてローファーをしまおうとすると普段の視界には現れないものを見つけて小首を傾げた。

(なにこれ?)

 私の学校では二段になっている下駄箱の上に上靴を、下には外靴を置くことになっている。下駄箱が土で汚れてしまわないようにと敷かれた黒いトレーの上にローファーを置いた後、上靴と壁の隙間にそっと立てかけられたそれを指先で静かに引っ張り出した。先週末、下校する時には間違いなく入っていなかったものだ。見た目は何の変哲もない無地の白い封筒。端には小枝をくわえた淡い黄色の小鳥のプリントされている。何度かひっくり返してみたけれど名前は書かれていない。差出人はもちろん、宛先も。
 手に取った瞬間、すぐにそれがなんなのか反射的に分かった。スマホが普及した現代でもまだこの古典的な文化は需要があるらしい。

(どうしよう……)

 普通なら驚いたり、嬉しかったりするのだろう。一瞬どきりとしたのも正直な感想だ。けれど、私が真っ先に浮かんだ感情は"戸惑い"だった。迷いが生まれたのは過去にも同じようなことがあって、それが間違いだったことがあるから。その時は幸いにも封筒に宛先の名前が書いてあったから私は中身を見ずに本来の相手の下駄箱に入れなおすことができたのだけど今回はそれがない。中身を確認しないことにはなにも情報が得られないのだ。せめて誰へ宛てたものなのか分かればいいのに。
 手紙を見つめ数秒間、悩みに悩んで私は糊も貼られていない封をゆっくりと開いた。どうか誰に向けたものなのか分かりますように、と心の中で願いながら。中には封筒の小鳥の色と同じ淡い黄色のメッセージカードが入っていた。慎重に取り出してカードに書かれた文字を追いかける。

 ──今日の放課後、屋上階段で待っています。

 たった一文。少しだけ丸みを帯びた可愛らしい文字だった。だけど、今の私にとって重要なのは手紙の内容ではない。カードをひっくり返してもみたがやっぱり名前は書かれていなかった。 

「なーに面白そうなもの持ってるの」

 あっ、と思った頃にはもう遅い。横からにゅっと細い腕が伸びてきたかと思うとメッセージカードが手の中から突然消える。
 いつもなら遅刻ギリギリの時間に登校してくるのにどうしてこうタイミングの悪い日に……。知らない間に隣に立っていたアニスはカードを見つめ楽しそうに笑みを浮かべている。ものの数秒で読めてしまう手紙だ。今更取り戻したところでもう間に合わないだろう。

「ア、アニス、それは」
「やっと柚希の魅力に気付いた人が現れたかあ」

 にぃっと彼女の口元が三日月に描かれる。羨ましいほどの大きな瞳が美味しい獲物を見つけた獣のようにきらりと輝いていた。こうなった時のアニスは歯止めが効かないのはここ一年の付き合いで充分に学んでいる。
 返してと言わんばかりにアニスに手を差し出せば意外にも彼女はあっさりとカードを返してくれた。再び手の中に戻ってきたカードにほっとしつつ私はそれを丁寧に封筒の中に戻してかばんの前ポケットにしまう。途中で折れたりでもしたら大変だ。誰に宛てたものか分からない以上、雑に扱うわけにはいかない。

「でもそれ、名前書いてないんだね。これじゃ誰が書いたのか分からないじゃん」
「うん……」
「どうするの? 今日の放課後だって」
「……」

 もし、仮にこの手紙が本当に私に宛てられたものだったら――。
 そこまで考えて私はかばんのひもをきゅっと握りしめた。そして脳裏に浮かんだ想像を懸命に振り払う。その可能性だけは考えてはいけない。期待を抱くだけ無駄なのだから。

「柚希?」

 はっと意識を戻すとアニスが不思議そうに私を覗き込んでいた。「皺よっちゃってるよ?」と言って自分の眉間をつつく。考えるのに集中して周りが見えなくなってしまうのは昔からの癖だった。慌てて笑みを作ってふるふると首を横に振る。「なんでもない」と言えばアニスはまだ何か言いたげに私を見上げていたけれど、気づかないふりをして自分の腕時計を覗き込んだ。七時五十分。朝のホームルームが始まる十分前だ。

「ほら、とりあえず教室行こ?」

 とんとんと階段を上がって自分たちの教室がある三階へと向かう。ホームルームの時間が迫ってきているのもあってか、必死に階段を駆け上がる生徒たちの姿が横目に映っていた。特に一年生の教室はそのほとんどが四階に位置している。朝から体力勝負だ。去年までは私もひいひい言いながら登っていたから大変な気持ちはとても良く分かる。

「ねえ柚希。一限目ってなんだっけ?」
「確か数学だよ。課題あったはずだけど」
「えっ、やってない! お願い柚希。課題見せてー」
「……しょうがないなあ」
「やったあ、ありがとう! 柚希だーいすき!」

 ニコニコと笑みを浮かべたアニスは長いツインテールを揺らしながら私の腕に絡みついてきた。彼女のスキンシップが多めなのは日常茶飯事のことなので私も特に気にしない。「はいはい」と軽く流して黙々と足を動かして教室へと向かう。課題をアニスに見せる前にもう一度間違いがないか確認しないと。ティアはきちんとやってきてるだろうから後で答え合わせをしよう。
 なんとかホームルームに間に合って、急いでティアと答え合わせの確認をして。席に着いてひと段落した頃にふとかばんのポケットに入れた封筒が目に留まった。きっと、すごく緊張しながら下駄箱に入れたのだろう。どれだけの勇気を必要とするのだろうか。

(すごいなあ)

 私には、到底できそうにない。
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