画面越しに夢見た世界が目の前に広がっていた。
 おもむろに頭上を見上げる。絵の具で塗りたくったような青空と違和感のある透明の膜。ザーフィアス城を中心に帝都を覆う結界魔導器(シルトブラスティア)だというのは既に知り得ていたものだ。あの膜によって帝都の平和は歪ながらも保たれている。それは、私の生きてきた世界とは異なる世界。

(――本当に、)

 ありえない。最初は夢なんじゃないかと何度も頬を抓ったが引っ張る感触も傷む頬も間違いなく本物で。あまりに弄りすぎて頬が赤くなったほどだ。信じたくはないけれど――これは紛れもない現実なのだ。周りの人から好奇な目で見られようとも、怪しいと疑いの目を向けられようとも、目まぐるしく過ぎていく毎日の中でもどうにか平常心を保っていられたのは私が今の状況を表現するに相応しい言葉を知っていたから。これは、属に言う"トリップ"というやつだと。
 まさか、物語の世界の中に自分が迷い込んでしまうなんて。ついこの前まで平凡な高校生だった私が、だ。よく自分と同じ立場の人間が異世界に飛び込むなんて話はあるけれど、そんなの活字や映像の中だけの空想だけだと思っていた。人生というものは本当にどう転ぶか分からない。幸いとでも言うべき唯一の点は、その迷い込んだ世界が私の知っているゲームだったということ。それも何度もプレイしてストーリーを熟知している、大好きなゲーム。

(しかも、まだ原作前の)

 このゲームは戦闘というものが日常化している。武器を手に凶暴な魔物と戦うのだ。そんな大業がどこにでもいる女子高生に出来るわけがない。一階の玄関から三階の教室までの階段ですら息を切らす万年運動不足の人間が剣を振り回して魔物と互角に戦えるなんて天変地異でもない限り、まずありえないのだ。だからこそストーリーが始まっていないというのは私にとって好都合だった。私はゲームの主人公を物語が始まる土地から笑顔で送り出せばいいのだから。
 つ、と視線を横に滑らせると自分が立っているところより少し低い位置で水道魔導器(アクエブラスティア)が静かにその役割を果たしていた。魔導器(ブラスティア)の真ん中ではきらきらと魔核(コア)が青く輝いている。原作だとこの魔核がリタに扮したデデッキによって盗まれることで物語が始まるのだが……機能しているということはまだストーリーは動いていないという事。つまり、私はデデッキが来る日を黙って待っていればいい。

(……それにしても暇)

 水道魔導器を囲む段差に座り込んでぼんやりと頬杖をつく。科学が進んでいない世界というものは想像以上に不便だ。この世界にはインターネットはもちろん、テレビも音楽プレーヤーもない。超現代っ子として育った私には苦痛以外の何ものでもなかった。もう何日も電子機器に触れていない。どうやらトリップの際にいろいろとあっちの世界に置いてきてしまったようなのだ。スマホだけは制服のポケットに入っていて無事だったが、ちょうど充電が切れていて最早持ち歩いてもいない。本なら時間を潰せるかと思ってハンクスじいちゃんから手頃なのを借りたが、文字が読めなくて早々に諦めてしまった。
 下町の散歩も毎日続けていれば新しい発見も少なくなってきて飽きてきた。本当は市民街や貴族街も歩いてみたいなあと思ってるのだが、病み上がりなんだからと行くのを禁止されている。確かにこの世界の人たちに比べたら軟弱っぽく見えるかもしれないが、少し過保護すぎるのではないのだろうか。これでもここ数年風邪には罹っていない。

(でも、ユーリに言われちゃったからなあ)

 このゲームの主人公であるユーリ・ローウェルとはトリップして早々に出会っている。目の前にある水道魔導器の前で私は倒れていたらしい。らしい、というのは私が目を覚ましたのがそこではなく宿屋の二階にあるユーリの隣の部屋だったからだ。介抱してくれていたのが宿屋の女将だったから最初は意味が解らなくて曖昧に受け答えをしていたけれど、途中でユーリが入って来た時にすべてを悟った。
 今、私がいるのはヴェスペリアの世界なのだと。

(ここで不審者扱いされたら私の人生は終わる……!)

 なんとしてでも下町に留めさせてもらおうと、私は必死にか弱い女の子を演じた。学校内で一、二を争う美人と言われるクラスメイトの和泉ちゃんを思い出し、瞳を潤ませ両手で顔を覆う。嗚咽をかみ殺し、懸命に絞り出した声は功を奏したようで女将の心を見事射止めたのだ。そのおかげで今はユーリの隣の部屋に居候させてもらっている。部屋の中でひとりガッツポーズをしたのは言うまでもない。
 初めて見た生ユーリはやっぱり画面越しで見るよりずっとかっこよかった。それはもう口元が緩みそうになるくらいに。物語が始まるまでにどのくらいの期間があるのかは分からないが、それまではこの世界を謳歌させてもらおう。どうせ彼らの旅には同行するつもりはないのだから多少の我が儘は許されたっていいはずだ。

(だけど、)

 気になる点がひとつ、ある。
 頬杖をついたまま、視線を宿屋に移す。一階で営んでいる料理屋には従業員はいなかったはずだ。女将とその旦那と息子のテッドで経営をしていたはず。ところが、だ。ガラス窓の奥に見える店内には女将から受け取った料理をたどたどしくもトレーに乗せて運んでいる女の子がいる。まだホールに入ってから期間が短いらしく、日々勉強だと本人が恥ずかしそうに話していたのを覚えている。

(名前さん……だっけ)

 本来、ゲームにはいないキャラクター。彼女はいったい何者なのだろうか。誰もいない広場でひとり、眉をひそめた。

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