「名前ちゃん」
背後から名前を呼ばれ肩越しに振り返ると紫色の羽織が目に入った。なかなか慣れない文化と生活の中で少しでも親しみのあるものがあるとほっとする。他の人より親近感を持てるのはそういった理由もあるのだろう。勿論、それが全てとは言えないけれど。ひらりと手を振りながらこちらに近づいてくるレイヴンさんにそっと口角を持ち上げる。
「また散歩? ドンが探してたよ」
「すみません、すぐ戻ります。レイヴンさんは仕事帰りですか?」
歩き出すレイヴンさんの隣に並び横顔を伺えば、何日ぶりかに会ったからか心なしか疲れているように見える。どんな仕事をしているのかは全く知らないけれど、羽織の隙間から見える小刀を見る限り簡単なものではないのだろう。ちらりとそれに目線を落としてはまた持ち上げる。わたしの予想は当たりだったようでレイヴンさんは端から見ても分かるくらいに肩を落とした。どうやらあまり良い報告は出来ないらしい。お疲れさまでした、と苦笑交じりに言えばありがと名前ちゃん、と少し沈んだ声が返ってきた。
きっかけなんて分からなかった。気がついたら日本が存在しない世界に飛ばされていた。幸いにも言葉は通じてこの街が『ダングレスト』という名前だということはなんとか突き止めたが、それでも現状が最悪だと言うことに代わりはない。
「ドン。ただいま戻りました」
「おう、名前」
誰一人知り合いのいない天涯孤独の身で、なんとか毎日の衣食住にも困らず生き延びることができているのは偏にダングレストの頭領であるドンのお陰だ。彼の心の広さに感謝してもしきれない。自分の何倍もあるだろう巨体は最初こそ恐怖しか感じなかったけれど、今は安心すら感じている。それでも、この人が怒っているところを見るのは未だに慣れないが。
ドンが探していた、とレイヴンさんが言っていたから何か用事でもあったのかと思ったけれど少し言葉を交わしただけで会話は終わり、彼の意識はわたしの隣に立つレイヴンさんに向けられる。不意に壁の時計に目をやれば針はいつもより遅い時間を指していて。どうやら原因はそれらしい。レイヴンさんに悪いことをしてしまった。
「で? 報告はどうしたレイヴン」
「はいはいっと」
レイヴンさんの報告を聞き流しながら(どうせ真面目に聞いたところで自分には理解できないのだ)つと窓の外に視線を移す。オレンジ色の空にかかる透明なフィルター。あれが街を守っているのだといつだったかドンは言っていた。
(名前、なんだったかな……)
一回聞いただけだからなかなか思い出せない。記憶を巡らし名前を思い出す前にそれは突然町中に響きわたった警鐘でかき消されてしまった。
***
(どうして)
今、わたしの目に映っているのは鼻息を荒げ闘争心をむき出しにする猪のような魔物。それがダングレストの中で住人を襲っている。足下には誰のものか分からない靴がころがっていた。辺りは人の悲鳴や叫び声、魔物の呻き声で溢れかえり、むわりと土埃の匂いが鼻につく。
ダングレストは結界で守られているから心配ないとドンはいっていたはずだ。それなのにこの現状はなんなのだろう。目の前で起こっていることが全く理解できなかった。
「あ……」
魔物と目が合った。ゆっくりと巨大な体躯がわたしにと向けられ、攻撃をしかけようと体勢を低くする。歯の隙間から零れる鋭利な牙で噛みちぎられるか、それともむき出しの角で身体を貫かれるのか。どちらにしても痛みは伴うことになるだろう。混乱した頭ではそんなことぐらいしか考えられなかった。
足がすくむ。身体を後退させたのが引き金となった。まっすぐに突っ込んでくる魔物。逃げきれないと悟ったわたしは目をつむり、衝撃に耐える。せめて極端に痛くありませんように、と願いながら。
「無事か?」
ところがいつまで待ってもそれはやってこない。不思議に思っているとその声は雑踏の中でもはっきりと聞き取ることが出来た。
それは、自分に向けられたものなのだろうか。そろそろと瞼をあけて目線を上に持ち上げる。次第に明瞭になっていく視界の先にはびっくりするほどの美人がわたしを見下ろしていた。長い睫毛に縁取られた二重のぱっちりとした瞳に腰まであるであろう艶のある紫黒の髪。その人が男の人だと気がついたのは思いっきり開かれた胸元を見てからだった。
「ユーリ!」
声がした方を見ると大きなかばんを背負った男の子や桃色の髪を女の子、ゴーグルをかけた女の子が駆け寄ってきた。どうやら"ユーリ"というのが彼の名前らしい。なんとなくその名前に聞き覚えがあるような気がしたが、今はお礼を言うのが先決だ。ありがとうございました、と言って頭を下げようとしたら男の子がわたしを指さしながらいきなり声を上げる。
「あー! この人!」
「どうしたんですカロル?」
「ボク知ってる! 最近ドンが溺愛してるって娘!」
いつの間にそんな噂が広まっていたのだろうか。男の子の発言により全員の目は好奇なものに変わり、上から下までまじまじと観察される。早々にいくつもの耐えきれなくなった私は視線を地面に落とす。
「最近出来た娘にしては随分とでかいな」
「む、娘じゃないです……っ。ただの居候です」
ドンの娘になった記憶は一度もない。慌てて首を振って否定する。わたしとドンの関係なんて居候と家の主以外の何者でもないのだから。勿論、その中にはわたしが異端者であることも含まれているけれど、今は全く必要のない情報だ。
話が一端途切れたところで、今度はゴーグルをつけた女の子が声を上げる。そんなことより! そう言って詰め寄ってきた彼女は自分より小柄なはずなのに妙に迫力があった。
「あんた、この街の人間なら結界魔導器(シルトブラスティア)どこにあるか知ってるでしょ。案内しなさい」
そうだ、結界魔導器。ドンが街を守っているという結界がそんな名前だった。頭上を見上げれば空と一緒に映り込むはずの透明な膜が見えない。魔物が街に進入することができたのはそれが消えてしまったからだったのか。
答えが分かればすとんと胸に落ちてきた。
「ちょっと聞いてる? 時間がないの」
「わ、分かりました」
操作盤の場所は覚えている。街の外れにあったはずだ。だてに毎日、ダングレストの街を歩き続けている訳ではない。少女の勢いに気圧されながらも目的地に向かって足を動かす。街の様子もさっきよりも落ち着いてきているような気がするのは自分がそうだからなのだろうか。しばらく歩いていると、隣に気配を感じて視線を移す。紫がかった黒い瞳とかち合い、図らずも心臓が跳ねた。男でも女でも美人が隣にいるというのは少なからず緊張してしまう。
「悪いな」
「いえ……」
今、思い返せばあの時の出来事がきっかけだったのかもしれない。それくらいユーリさんとの出会いはわたしの人生を変えていた。それが良かったことなのかそうでないのかは分からないけれど。
例えば、彼が弟がプレイしていたゲームの主人公だったり。例えば、この一連の出来事もストーリー上のイベントだったり。そんな天と地がひっくり返るくらいの衝撃的な事実にわたしが気がつくのはもう少し後の話。
青はどこへいったのか
(夕焼けに染まるあなたに出会った)
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