(困ったな……)

 指先で摘んだそれをぼんやりと眺め途方に暮れる。ふ、と吐き出した息は人の声で溢れる市民街にあっという間に消えていった。

「名前、すまないが買い物を頼まれてくれないか?」

 突然ゲームの世界に迷い込んで魔物に負わされた怪我も治り、ようやく下町の景色が落ち着いて見れるようになった頃。ある日、ハンクスさんにおつかいを頼まれた。特に断る理由も見つからず頼みを快諾したが、そこからが問題だった。
 手渡されたのはお金の入った巾着と一枚の紙切れ。お金に関してはわたしが記憶喪失で(本当はこの世界の経済を理解していないだけなのだけど)計算できないことを知っているから多めに入っていることは予想できた。問題は紙の方。ざらざらとした慣れない質感のそれにおそらく買ってきてほしいものが書いてあるのだろうが、全く読むことができなかったのだ。それに気がついたのはハンクスさんと別れて市民街に向かう坂道の途中。しまった、と思った時にはもう遅い。下町に戻ってハンクスさんを探すにもまだ土地に疎いわたしでは迷子になってしまうのが目に見えている。それに頼み事をしていた時のハンクスさんはなんだが慌てていたようだったからわざわざ尋ねに行くのも申し訳ない。

「……どうしよ」

 わたしに残されたのは理解不能の文字の羅列が書かれた紙切れだけ。せめて書かれているものが食べ物なのか日用品なのが分かれば商店もある程度絞ることができるのだけど−−。
 とりあえず市民街まで出てきては見たものの、紙切れを眺めたところで解決策は全く思いつかない。とりあえず人の流れの邪魔にならないようにベンチに座る。じっと見つめていれば読めるようにならないだろうかと思って試してみたけれど、現実はそんなに甘くなかった。いくら目を凝らしても文字がわたしの知っているそれに変わることはなく思わず溜め息が零れる。

「なにしてんだ? こんなところで」

 不意に頭上が陰り声が降ってくる。聞き覚えのあるそれにどきりと心臓を跳ねさせながらそろそろと顔を上げた。紫がかった黒い瞳が不思議そうにわたしを見下ろしている。

「……ユーリ、さん」

 どうりで今朝から見かけないと思ったら市民街に出ていたのか。ただ見つめ返すのも変だと思っておはようございます、ととりあえず挨拶をする。ユーリさんは軽く頷いたかと思ったらつと視線をわたしの手元に移した。あ、と気がついたときにはもう遅い。ハンクスさんからもらった紙は彼の手に握られていた。じいっとそれを眺めたユーリさんの瞳は再びこちらを向いた。どうやら筆跡で誰のものか分かってしまったらしい。

「じいさんに頼まれたのか?」

 ここはゲームの中の世界だ。そして目の前の彼は物語の主人公。ストーリーを崩してしまわない為にも出来るだけ関わらないようにしようと決めたのはつい最近のこと。素直に事情を全て話せばユーリさんはきっとなんとかしてくれる。この何日かで彼がとても面倒見が良いことは分かっていた。それだけにどこまで話して良いのものか分からないと言うのが正直な感想だった。何がきっかけで物語が始まるのかわたしは全く知らないのだから。

「えっと……」

 軽く首を傾げながら尋ねてくるユーリさんからそっと目をそらし俯く。言葉を濁せば余計に怪しまれてしまうのは分かっていたけれど上手い返答が思いつかない。誰かに助けを求めたかったのは本当だが、出来ることならユーリさん以外の人がいい。そんなこと本人に言えるはずもなく口から零れるのはしどろもどろな言葉ばかり。
 こんな事態になるくらいなら最初から下町に引き返してハンクスさんに尋ねれば良かった。文字が読めないのでこの紙になんて書いてあるか教えてくれませんか? と。それも後の祭りでしかないのだけれど。痺れを切らしたようにユーリさんが再びわたしの名前を呼ぶ。

「名前」
「その……あの、」
「あれ、名前とユーリ?」

 この世界でわたしの名前を知っている人間はそう多くはない。ましてや滅多に出歩くことのない市民街なら尚更のこと。声のした方向に顔を向ければ、そこには重そうな甲冑を身につけたフレンさんがこちらに向かって歩いてきていた。太陽の光に反射した金色の髪の毛がきらきらと輝いている。近くまでやってきたフレンさんはわたしの顔とユーリさんの顔を見比べてきゅっと眉に皺を寄せた。

「ユーリ、また名前を困らせているのかい?」
「またってなんだよ。人聞き悪いな」
「どうしたんだい名前?」

 話を聞けよ、と口を尖らせるユーリさんを余所にフレンさんはわたしを見下ろし優しく微笑みかける。ユーリさんの幼なじみという重要なポジションにいる彼だけど、ゲームの主人公ではないのだから少しはストーリーへの影響が軽減されるはずだ。そう思ったわたしはちくちくと刺さるユーリさんの視線を気にしながらおそるおそる口を開いた。

「……実は、」

***

「それなら僕がつき合おうか?」
「え、でも、お仕事の途中なんじゃ」
「困っている人を助けるのも騎士の仕事だからね」

 そう言ってふわりと柔和な笑みを浮かべるフレンさん。ありがたい彼の提案に首を縦に振ろうとした時、違うところから声がかかる。心なしかその声はいつもより低い気がした。

「フレン。さっき向こうで喧嘩だって騒いでる奴らがいたぞ」

 そう言ってユーリさんは長い髪を揺らしながら視線を遠くへ移した。同じように目線をそちらに向けたフレンさんをわたしはじっと見つめる。断ってほしいと心の中で祈りながら。
 不意にフレンさんと目が合ったかと思ったら困ったように眉を下げられる。その表情で知ってしまった、きっとわたしの望んだ展開はやってこないと。少しずつ持ち上がりつつあった気持ちが一気に沈んでいく。フレンさんは肩を竦めながら苦笑を浮かべていた。

「――分かった。名前を頼んだよユーリ」

 だんだんと遠くなっていくフレンさんの背中を追いかけたくて仕方なかったけれど、それが出来なかったのは目の前に立つ人物の視線が痛いほど自分に向いているのが分かったから。蛇に睨まれた蛙のように身体を硬直させることしかできなかったのだ。膝の上に置いた手のひらをきゅっと握りしめる。名前、と名前を呼ばれ小さく返事をする。多分、声は震えていなかったはずだ。ゆっくりと視線を持ち上げると相変わらずの綺麗な顔がわたしを見下ろしていた。

「さっさと済ませて下町に帰ろうぜ」
「……すみません、ユーリさん」
「名前が謝る必要ないだろ?」

 行くぞ、そう言ってユーリさんはハンクスさんのメモをポケットにしまう。そのまま歩きだしてしまうものだからわたしもついていくしかない。元々はわたしがハンクスさんに頼まれたおつかいなのだから。
 身長差もあって次第に開いていく距離を足早にすることで補う。ユーリさんのほんの少し後ろを歩きながらふと横目で様子を窺えば、小さな変化にすぐ気がついた。

(あ、皺寄ってる)

 整った眉と眉の間に小さな皺。引き結んだ唇もいつもより尖っているような気がして。どうしてだろうとは思ったけれど、まさか気軽に聞けるはずもなく開きかけた口を閉じる。聞かぬが仏、だ。それに彼との接触は少しでも少ない方がいいのだから。自分の中で言い聞かせて前を向く。
 結局、ユーリさんの眉間の皺の理由は分からず仕舞だった。


ダイヤモンドスピカ
(まだ、気づかない)

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